ハンムラビ法典。 「目には目を」は「やられたらやり返せ!」と復讐を煽る言葉ではなかった!ハンムラビ王の賢さに仰天

ハンムラビ法典

ハンムラビ法典

前18世紀頃,の王によって制定された法典。 「目には目を,歯には歯を」の同害報復法 lex talionisで名高い。 高さ 2. 25mののに,を用いで記され,の神殿,もしくはの神殿内に建立されたとみられる。 今日ではパリのに所蔵されている。 ほぼ完全な原型をとどめている法典碑としては世界最古。 前代の諸法,特にアッカド法,法の影響を受けながら,これらを集成したもので,神授法典であることを示す序文,282条の本文,法典の規定に違反した者に神の呪いと懲罰が与えられることを記した跋文(ばつぶん)からなる。 本文には,裁判組織および手続き,刑罰,行政区画ならびに行政制度,契約上の諸原則,親族,相続などに関する具体的規定が盛り込まれている。 同害報復が示されているが,刑罰の重さは加害者の地位などによって変わることとされていた。 またもみられる。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説.

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ハンムラビ王とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ハンムラビ法典

ウル・ナンム法典 ハンムラビ法典では国民が守るべき規範を示し、この規範を破ったものを処罰するというルールを明確にしました。 この法律ができたことで、多くの独裁的な支配者が好き勝手できなくなり、法治国家としての基礎を作り上げました。 ただし法律の内容としては非常に残酷でした。 些細な法律違反でさえも死刑と定めており、例えば居酒屋に入った女性や逃亡した奴隷を匿った者などもすべて死刑の対象でした。 また年齢や身分に応じて扱いが変わる法律で、特に親に対して子どもは絶対に逆らうことができなかったとされています。 ハンムラビ法典は誰が作った? ハンムラビ法典はその名の通り、古代バビロニア帝国の初代王であるハンムラビによって作られました。 ここでハンムラビ王の生涯を簡潔にご紹介します。 ハンムラビ王 ハンムラビは紀元前1810年頃、古代バビロンにて誕生しました。 父シン・ムバリトは古代バビロンの王で、紀元前1792年父の死去後、ハンムラビはバビロン第一王朝6代目の王となりました。 当時のバビロンは両隣をイシン、ラルサ、マリといった大国に囲まれており、弱小国としての立ち位置でしたが、北方にあるアッシリアと手を組み、次第に頭角を現していきました。 紀元前1784年頃にはイシンを奪い、ティグリス川を超えてマルグムやユーフラテス川流域にあるラピクムなども占領します。 紀元前1764年にはラルサを併合し、バビロンを拡張していきます。 そして紀元前1759年にマリを制圧、紀元前1757年には手を組んでいたアッシリアも征服し、メソポタミア地方を統一しました。 小国バビロンによって統一されたこの地域のことを「バビロニア」と呼んでいます。 ルーヴル美術館 記念碑は楔形文字で彫られました。 多くの権力者の手を渡って、現在はパリのルーヴル美術館に保管されています。 ハンムラビ法典は何のために作った? ハンムラビ王はハンムラビ法典を作った意図を法典の前文に記しています。 そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、・・・わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された ハンムラビは王権の責務として、社会主義の確立と維持をする必要があり、この実現のためには法による統治が必要だと考えていたのです。 そのためハンムラビ法典を制定し、バビロニア帝国を法治国家として推し進めていきました。 ハンムラビ法典の2つの特徴 同害復讐の原則 もし彼(上層自由人)がほかの人(上層自由人)の骨を折ったならば、彼は彼の骨を折らなければならない(ハンムラビ法典 第197条) もし奴隷がほかの人(上層自由人)の頬を殴ったとき、彼の耳を切り取る ハンムラビ法典 第205条 他者に危害を加えた者は、同じことをされるということを意味しており、これを同害復讐の原則としています。 これは現代では「やられたらやり返す」「復讐して良い」と捉われがちです。 しかしこれはハンムラビ法典の伝えたいことではありません。 この法典には「公平な罰を与える」「過度の復讐を抑止する」という意味が込められているのです。 犯罪や罪に対して明確に罰則を定めることで、過剰な罰則が与えられないようにしています。 さらに事前に罰を決めることで、犯罪への抑止力にも繋がっていると考えられています。 身分区別の規定 もし彼(上層自由人)がほかの人(一般自由人)の目を損なったか、骨を折ったならば、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない もし彼(上層自由人)がほかの人の奴隷の目を損なったか、骨を折ったならば、彼はその(奴隷の)値段の半額を払わなければならない ハンムラビ法典 第198、199条 ハンムラビ法典には多くのことが明記されていますが、身分区別の規定もしっかりとされています。 当時の社会には上層自由人(アウィールム)、一般自由人(ムシュケーヌム)、奴隷の三つの身分がありました。 与えられる刑罰も身分によって差異があり、特にはっきりと感じるのが奴隷と上層自由人の違いです。 アヌンナキとエンリル 前置き アヌンナキの神々の王で、崇高なる神アンと、天地の主でかつ国土の運命の決定者である神エンリルとは、エア神の長子であるマルドゥク神に、あらゆる人々へ最高の神による権利を与え、バビロンの王をイギギという神々の仲間として偉大な者とみなし、またバビロンを崇高なるその名前で呼んで、四界に傑出させ、その中で天地の如く、その基礎が確立したところの永遠の王国を国王のために固めたる時に、敬虔なる大王であり、神を畏れるハンムラビ即ちこの私を、国土において正義を実現するために・・・ 『古代法の翻訳と解釈』著 佐藤信夫 前置き部分には、ハンムラビ王の叙任およびハンムラビ王がどのようにして神から決定権を預かったのか、バビロニア帝国との関係、ハンムラビ法典を作った理由が述べられています。 本文 第1条:ある者(自由人)が、他人を告訴し、「殺人罪」を着せた(資材にあたる罪で起訴した)が、その罪状が立証されなかった場合において彼を「殺人罪」で告訴したる者は<自分も>その同じ罪で、死刑に処せられなければならない。 『古代法の翻訳と解釈』著 佐藤信夫 282条から成る法令および、バビロニア帝国での日常生活を送る上で必要なインフラ部分(農業や行政、家畜の管理、婚姻、養子縁組など)が述べられています。 後書き マルドゥク神 余は、完全無双な王ハンムラビである。 エンリル神が、余を(保護者として)示し、マルドゥク神が余に牧人(牧師)の権(王権)を与えたところの黒い頭(国民)のために、決して無視を(したり)せず、余の側で(この両神は、私を保護することを)決して投げ出したりはしなかった。 彼等(この両神)に平和の場所を求めたのである。 険しい困難(隘路)を切り拓いて、彼ら(国民)に助け(光明)を選んだものである。 『古代法の翻訳と解釈』著 佐藤信夫 後書き部分には、ハンムラビ王の絶対性を強調した上で、これまでの業績と法典の永続性を述べています。 ハンムラビ法典が発見されたきっかけ ハンムラビ法典は、1901年イラン南西部にある古代国家エラムの都市スーサの遺跡で発見されました。 発見後パリに運ばれ、アッカド語に詳しいV・シェイル神父によってフランス語に訳され、出版されたことで世界中にその名を知らしめました。 スーサ遺跡 興味深い理由として、どうしてバビロニアではなく400kmも離れたスーサの遺跡で発見されたのかということです。 これはバビロニアや地域周辺の歴史を紐解くことで明らかになりました。 スーサで発見された理由として、紀元前12世紀頃にエラムがバビロニアを攻め込み、その際の戦利品としてハンムラビ法典碑を持ち去ったためと考えられています。 完全な形で保存されている貴重な法典碑であり、エラム人が大切に扱ってくれたことを感謝しなくてはなりませんね。 現在はパリのルーヴル美術館が所蔵しています。 ハンムラビ法典に関するおすすめの本・書籍 ハンムラビ法典に関する書籍のイメージ ハンムラビ法典に関する書籍は多く出版されています。 おすすめの本・書籍をご紹介していきます。 ハンムラビ「法典」 リンク バビロニアの歴史を紐解く珠玉の一冊です。 シュメール人の登場から滅亡に至るまでの全体史を明らかにしており、ハンムラビ法典に関する解説もしています。 挿絵や用語の解説も丁寧なため、普段歴史書を読まないという方にもおすすめです。 ハンムラビ法典に関するまとめ ハンムラビ法典について解説してきました。 いかがでしたでしょうか。 ハンムラビ王は、バビロニア帝国を拡大し、メソポタミア地方を統一したという功績だけでなく、内政面に関しても民のことを考え、自分たちの子孫たちにとっても手本となるようにハンムラビ法典を制定しました。 この法典が作られたからこそ、バビロニアの自治は守られ、社会をより安定させることができたのです。 この記事を読んで、ハンムラビ法典に興味を持っていただけますと幸いです。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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ハンムラビ法典

ハンムラビ法典はメソポタミア文明の象徴である。 紀元前18世紀にバビロンの王によって建てられた玄武岩製の背の高い碑は、聖書の律法以前に作られた最も完全な古代の歴史的著作と法令集である。 紀元前12世紀にイランにあった近隣の国エラムの王によって運び去られた記念碑は、スーサのアクロポリスで他の名高いメソポタミアの代表作に囲まれて陳列されていた。 法律の伝統 この玄武岩製の碑は、バビロニンの王ハンムラビ(紀元前1792-1750年)によって、おそらく正義の神である太陽神シャムシュの町シッパルに建てられた。 この記念碑の伝統の一環をなす他の例は、その王国の町に安置されていた。 ウルのウル・ナンム王(紀元前2100年頃)とイシンのリピト・イシュタル王(紀元前1930年頃)のふたつのシュメールの法令の発布は、ハンムラビの制定に先行している。 しかし、旧約聖書の律法以前に書かれた以上、古代近東の最も古い法令集といえるハンムラビ法典は、それらの試論の結実であると定義される。 碑の大半を占める文書には、記念碑の存在理由が記されている。 その上にそびえて描かれた場面では、王がシャムシュから授かる王権叙任が表されている。 その法的内容から注目すべきこの作品は、また当時の社会、宗教、経済そして事実のみを記述する歴史を知る上で類例のない情報の源と言える。 法典の内容 文書は楔形文字とアッカド語で書かれており、3つの部分に分かれている。 法律の部分では、日常の語彙が用いられ、王がすべての人にそれを理解してもらいたかったという理由から、ここでは文書が簡略化されている。 それに対して、裁判の判決では、すべて同じ構成に従い組み立てられている。 条件節で書かれた文は、権利と社会秩序を陳述する。 それは「もし個人がこれこれの行為をしたなら、これこれの事が起こるだろう」というふうに、過ちを犯した者に処罰あるいは状況の決着を定めた条例の形で未来形の答えが続く。 取り扱ったテーマは1章にまとめられ、民法と刑法を扱っている。 最も重要なものは、家族、奴隷、専業と商業の権利、および農業と行政の権利に関するものである。 経済方策では価格や日給を定めている。 バビロン社会の基本理論である家族に関する章は最も重要であり、婚約、婚姻、離婚、姦(かん)通と近親相姦、子供、養子縁組と遺産相続、および乳母の義務などを取り上げている。 事例はそれら全ての局面を取り扱っているので、可能な限り最大多数の考察が集められるのである。 記念碑の意味 ハンムラビ法典は、まず第一に、けっして個別事例から一般原理を導き出すことのないメソポタミアの科学的観点に従って書かれた司法権力行使の概論として、範例的価値をもっている。 いくつかの似たような考察は、一般的普遍的な原理の陳述、つまり法律を生む原因とはならない。 事実、それは今日使われている意味での法典ではなく、むしろ判例の集成である。 矛盾や一貫性の欠如(同じようなふたつの事例が異なった解答をもたらす)は、事実上、ここではそれが個人的な判決が問題になっていることで説明がつくのである。 だから、例えば事件の首謀(しゅぼう)者の名前のようにあまりにも私的な要素は取りのぞかれたのであった。 その訳は、メソポタミアでは裁判は王の特権であったので、ハンムラビは王自身が下すべきあるいは追認すべきにあった最も賢明な正義の判決の選択を提示しているからである。 しかし、この碑は単なる教育文書であるどころか、それ以上のまさに法令と君主権限によって定められた時効である、ということはつまり法典であるのである。 それは裁判の裁定目録だけではなく、バビロン王国の町や隷属領地の目録をも含んでいる。 そのハンムラビ王の碑には、古代メソポタミアの最も威光ある統治のひとつの総括であることの望みが込められている。 それは王の晩年に書かれたが、将来の王たちに宛てられた政治的遺書であり、彼らにそれを賢明と公平の理想の手本として勧めている。 事実、法典は書記学校に文学的な手本として役目を果たし、それを1千年以上にわたって書き写している。 - BERGMANN E. - DRIVERS G. , MILES J. , The Babylonians Laws, Oxford, Clarendon Press, vol. 2, 1952 et 1955. 28-29, pl. - ROTH Martha, Law collections from Mesopotamia and Asia Minor, Scholars Press, Atlanta, 1995. 111- 162.

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