坂本 龍馬 大政 奉還。 坂本龍馬が構想した大政奉還とはどんなものだった?

5分で坂本龍馬について!大政奉還ってなに?│れきし上の人物.com

坂本 龍馬 大政 奉還

北海道・東北• 東海・甲信越• 近畿・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 昨年11月に歴史教育の専門家らが示した用語の精選案について、「声」欄に賛否の意見が多数寄せられました。 史料を基に龍馬や吉田松陰らの実像に迫った「司馬遼太郎が描かなかった幕末」の著者、一坂太郎・萩博物館特別学芸員はこれをどう見るか、話を伺いました。 今の教科書で龍馬がどう書かれているかというと、徳川慶喜が朝廷に政権を返還する「大政奉還」のところで出てきます。 龍馬と土佐藩重役の後藤象二郎が、藩主を通して将軍慶喜に大政奉還を勧めたと。 しかし、ここに龍馬を入れるのは正しくない。 龍馬が大政奉還を唱えたという根拠になっていた文書「船中八策」は、後世に創作されたとの説が有力です。 龍馬が提唱したことを示す証拠は出ていません。 龍馬は大政奉還が実現した後、新政府綱領八策という文書を書いていますが、当時の知識人たちが他に何人も言っている内容で、これも新政府に影響を及ぼしたという証言が見つかっていません。 薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結ぶ際に「龍馬らが仲介した」と教科書に出てきます。 薩長の間で何らかの周旋をしたという史実はある。 例えば、薩摩藩から頼まれて「幕府が2回目の長州征伐の命令を出しても薩摩は動かない」という文書を長州藩に届けている。 しかし、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に出てくる、彼の一喝で両者がいきなり手を結んだとか、そういう分かりやすいものではありません。 発案は違います。 長州の木戸孝允の回想録に「薩摩の名義で武器を買わせてくれと龍馬に言った」とある。 木戸がお願いしますねと言ったと。 龍馬はわかったと引き受けたが、何の返事もないので木戸がいらいらして、見切り発車みたいな形で伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に送り込む。 ここは史料で確認できる。 伊藤、井上の木戸への報告の中にも、薩摩が合意したとはあるが、龍馬は出てきません。 そうです。 薩摩の要人が「ああ龍馬から聞いている」というような話にならないとおかしいのに、初めて聞くような言いぶりなのです。 龍馬が仲介していたという史料は出てこない。 先ほどの、薩摩の西郷隆盛と長州の木戸がそっぽを向いていたのを龍馬が飛び込んできて手を結ばせたという話は、「維新土佐勤王史」という大正元年に出た本に出てきます。 物語半分、史料半分みたいな本ですが、明治政府で窓際に置かれていた土佐閥が、維新の時に俺たちはこんなに頑張ったのに、ないがしろにするのは何事かとアピールするために書いた側面が強い。 その意味でこのエピソードは都合がいいのですが、史料を読む限り、物語のような展開で歴史が動いたとは考えがたい。 維新直後に出版された志士100人列伝のような本に、龍馬は出てこない。 当時は幕末の志士として誰も龍馬を思い出さなかったのです。 判然としている分だけでは、教….

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大政奉還とは?坂本龍馬との関係や年号などわかりやすく解説!

坂本 龍馬 大政 奉還

Sponsored Links 慶応3年 1867 、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は政権の返上を明治天皇に上奏しました。 いわゆる大政奉還です。 この出来事の裏で活躍したのが、薩長同盟で有名な坂本龍馬でした。 龍馬はなぜ大政奉還を考えたのでしょうか。 大政奉還が最優先 大政奉還という考え方は1867年に龍馬が後藤象二郎に示したとされている船中八策のなかに見ることができます。 龍馬は8つのうち一番初めの項として、 一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。 を挙げています。 海援隊士・長岡謙吉の書き留めたとされる船中八策自体の書面が現存していないことから、創作ではないかとも考えられているようですが、その後龍馬自身が記述した「新政府綱領八策」にも同様の記述が見られます。 当時の日本には、不平等条約の改正や軍事力の増強、金銀交換比率の変更などの政治的課題がありましたが、龍馬はそれらに先んじてまず大政奉還をすべきと考えていたことがわかります。 なぜ伏字となっているのかについては、見る人が自由に名前を入れることができるようにという説や、まだ決まっていなかったという説があります。 そんな中、大政奉還後、龍馬と共に「新官制擬定書」 新政府職制案 を起草した尾崎三良が残した『尾崎三良自叙略伝』には徳川慶喜を新政権のNo2に据えようとしたともとれる記述があります。 あくまでも一つの考え方にすぎませんが、そうであれば龍馬が大政奉還を考えた狙いが見えてくるように思います。 By: 龍馬の狙いとは? つまり、龍馬の狙いは日本国内で巻き起ろうとしていた内紛を戦闘なしに収めることだったと考えられます。 当時の日本というのは、おおきくみて尊王攘夷派と佐幕開国派に分かれて対立していました。 これを一つにまとめるため、孝明天皇の妹・和宮が将軍・家茂に嫁ぐ公武合体政策も行われましたが、対立は一向に収まる気配はなく、ヒートアップしていたのです。 しかし、外国の脅威が迫る中、このような内紛状態は国自体を滅ぼしかねません。 実際、薩長はイギリスの支援を得て軍事力を強化していた一方、幕府はフランスの支援を得て軍備を強化していたのです。 その両者が戦闘となれば、英仏さらにはその他の欧米諸国が日本の国政に干渉する隙をつくってしまう可能性さえありました。 大政奉還の狙いとして討幕派の出鼻をくじくというようなことがよくいわれていますが、龍馬の場合その根底には日本を諸外国から守るため、早急に内紛を納める必要があったことがあると考えられます。 実際、大政奉還により討幕の密勅は延期を余儀なくされています。 内輪もめはもうやめて、みんなで協力して日本を守ろう。 龍馬のそうした願いは龍馬暗殺によっていつしか消えてしまい、日本は鳥羽伏見の戦いへと突入してしまったのです。

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坂本 龍馬 大政 奉還

龍馬って何した人? 倒幕の立役者の一人 簡単に言うとすれば、「龍馬は江戸幕府を倒すきっかけを作った人」といえます。 当時の幕府は外国の要求を拒絶する力が無く、諸藩をまとめる力も弱くなっていました。 しだいに、このような幕府では日本を守れないと考え、幕府を倒して天皇の下に統一された国家が必要だと考える人が現れました。 龍馬もその一人でした。 龍馬は幕府を倒すために、まず幕府と対抗できる大きな力を持った薩摩藩と長州藩の同盟を成功させます。 薩摩藩と長州藩は後々、武力によって幕府を倒そうと考えますが、龍馬は武力行使は最終手段だと考えていましたので、まずは大政奉還を土佐藩に提案します。 この案は土佐藩から徳川慶喜に進言され、慶喜もこれを受け入れて、形式上は幕府が消滅しました。 そして、龍馬は新政府が進むべき道を新政府綱領八策によって示しました。 新政府綱領八策(複製) 他にはない柔軟性と明確なビジョン 龍馬がこのような大きな仕事を成し遂げられたのは、他の人と違う点をいくつか持っていたからです。 まず、立場の違う人の言うこともしっかりと聞き、良い所を吸収する柔軟な考えを持っていたこと。 そして、多くの人が実現不可能だと思っていることでも成功させられる行動力を持っていたこと。 新しい時代の明確なビジョンを持っていたこと。 そして最も重要なのは、優れた人脈を幅広く持っていたことです。 さらに、龍馬は「世界に出たい」という自分の夢に向かって動いた人でもありました。 父・八平(はちへい)、母・幸(こう)の間にはすでに4人の兄姉があり、龍馬は末っ子である。 兄・権平(ごんぺい)とは21歳も歳が離れており、長女・千鶴(ちづ)とは19歳離れていた。 次女の栄(えい)は生没年が分からないが、龍馬が最も慕っていた三女の乙女(とめ)は3歳年上であった。 坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)という商家で、龍馬の家はそこから分家して郷士の株を取得した御用人の家であった。 12歳から通い始めた楠山(くすやま)塾はすぐにやめてしまう。 一説には上士の子と喧嘩(けんか)をして、喧嘩両成敗ということで父・八平がやめさせたともいわれている。 この年に母・幸が亡くなり、以後龍馬は2番目の母・伊与(いよ)に教育を受ける。 龍馬と乙女は、伊与の最初の嫁ぎ先であった川島家へ度々遊びに行き、「ヨーロッパ」というあだ名を持つ川島猪三郎(いさぶろう)から世界の話を聞いていた。 14歳になると龍馬は日根野道場へ入門し、小栗(おぐり)流の剣術などを習い始め、めきめきと腕前を上げ、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけた。 攘夷を改め世界へ目を向ける 剣術修行のため嘉永6(1853)年3月に高知を出発した龍馬は、江戸三大道場の一つである北辰(ほくしん)一刀流の千葉定吉(さだきち)道場へ入門した。 同年6月3日には、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航し、龍馬も品川の沿岸警備に動員された。 その頃父・八平に宛てた手紙では、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります。 」と攘夷(じょうい)思想を表していた。 しかし、1年後に修行を終えて帰ってきた龍馬は、冬に河田小龍(しょうりょう)を訪ねて、世界と対等に付き合うため、日本には大きな船とそれを動かせる人材が必要だと教えられ、攘夷の間違いを悟った。 小龍は絵描きだが、アメリカから11年ぶりに帰ってきたジョン万次郎から聞いた外国の話を『漂巽記略(ひょうそんきりゃく)』という本にまとめた人物で、当時外国の事情に詳しい数少ない人物であった。 土佐勤王党に加盟し脱藩へ 文久元(1861)年、27歳になった龍馬は親戚でもあり親友でもある武市瑞山(たけちずいざん)率いる土佐勤王党に加盟する。 翌年、武市の密書を持って萩(山口県)の久坂玄瑞(くさかげんずい)のもとを訪ねた。 久坂から、いまや大名も公卿(くぎょう)も頼りにならず、これからは草莽(そうもう)の人々(志のある在野の人々)が立ち上がらなければいけないと教えられ、2月に土佐へ帰り、その翌月には脱藩をしてしまう。 坂本龍馬書簡 慶応3年6月24日 兄・権平宛(真物) 勝海舟との出会い 江戸時代は、藩を出る時には藩の許可が必要で、関所で手形を見せなければならなかった。 脱藩とは無許可で藩外に出ることで、現在でいえばパスポートを持たずに日本を出ることに当たる。 文久2(1862)年3月、28歳で脱藩した龍馬は長州藩に行き、そこから薩摩を目指したと言われているが定かではない。 そして、同年秋江戸へ出て、幕府の軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)である勝海舟(かつかいしゅう)の弟子となった。 勝が書いた『氷川清話(ひかわせいわ)』によると、龍馬は自分を殺しに来たと書いているが、前・福井藩主松平春嶽(しゅんがく)の回顧録では、春嶽が勝への紹介状を渡したとなっており、龍馬に殺害の意図はなかったとも考えられている。 勝の片腕としての躍動 その後、勝は幕府から大坂湾周辺の海防を命ぜられ、その一環として神戸に海軍操練所を建設する。 龍馬もそれに同行し、操練所に併設された勝の私塾に入門した。 そこで勝の片腕として働くかたわら、海軍の修行に励んだ。 元治元(1864)年8月中旬には勝の使者として西郷隆盛(さいごうたかもり)と面会した。 『氷川清話』によると、龍馬は「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。 少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。 もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口(りこう)なら大きな利口だろう」と勝に報告した。 それを聞いた勝は「坂本もなかなか鑑識(かんしき)のあるやつだよ。 」と書いている。 勝海舟肖像写真(個人寄贈) 逆境のなかで日本初の商社設立 勝の弟子となり順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であった龍馬だが、元治元(1864)年6月5日、京都で池田屋の変が起こり、状況が一変した。 池田屋に集まる過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士たちが、新選組の近藤勇(いさみ)らによって一掃され、この中に海軍操練所(そうれんじょ)からも参加者がいた。 さらに、7月に禁門の変が起こり、この時にも長州藩(ちょうしゅうはん)側として操練所の生徒が参加していた。 これらが幕府の怒りを買って、勝は江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖となる。 龍馬たち脱藩浪人は行き場を失うが、翌年薩摩藩(さつまはん)の庇護(ひご)の下、長崎で亀山社中(かめやましゃちゅう)という商社を作った。 大活劇からの暗転 亀山社中は、海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ特異な組織で、各藩の脱藩浪人が中心であった。 慶応2(1866)年1月21日、龍馬はこの組織を使って、当時非常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させた。 これにより、幕府に対抗できる勢力が誕生したことになり、それを画策(かくさく)した龍馬は幕府から危険人物としてマークされることになった。 寺田屋事件と新婚旅行 薩長同盟成立の2日後、伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)の役人に踏み込まれた。 しかし、寺田屋で働いていたお龍(りょう)の機転と、長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)に助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことができた。 両手の親指などに深手を負った龍馬は、薩摩藩邸でお龍に看護(かんご)を受け、その後お龍と結婚し、西郷隆盛や小松帯刀(たてわき)の勧めもあって、薩摩の霧島山に傷の療養を兼ねた新婚旅行に出かけた。 亀山社中の跡(長崎市) 坂本龍馬書簡(複製) 慶応2年12月4日 姉乙女宛(妻お龍との新婚旅行の様子を絵入りで報告している) 商才を発揮し海援隊へ 慶応2(1866)年7月には、幕長戦争が起こり、亀山社中は長州藩を助けるため、薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦した。 また、龍馬は蝦夷(えぞ・北海道)の開拓や、島根県沖の竹島(現・ウルルンド)の開拓を考えたり、経済人としての本領も発揮していた。 この龍馬に目を付けたのが土佐藩だった。 薩摩藩と長州藩に遅れをとっていた土佐藩は、慶応3(1867)年1月、当時土佐藩政の実権を握っていた参政(さんせい)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が長崎で龍馬と会談を行う。 倒幕(とうばく)を目論(もくろ)む龍馬も、土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤と手を結び土佐藩に復帰した。 これにより、亀山社中は海援隊(かいえんたい)と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬は海援隊隊長に就任した。 龍馬と海援隊士 新国家へのタクトを振る 同年6月頃からは、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。 土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。 龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還(たいせいほうかん)を盛り込んだ8つの策を提案した。 これが船中八策といわれる。 後藤はこれを前・土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。 暗殺の実行犯は見廻組(みまわりぐみ)説が有力であるが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎である。

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