いい国作ろう。 いい国作ろう…

マッカーサー元帥「いい国つくろう、何度でも」 宝島社ナゾの新聞広告に大反響: J

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1998年に始まった同社の企業広告は各新聞社の広告賞を受けることも多い。 例えば2010年に日米で同時掲載された「日本の犬と、アメリカの犬は、会話できるのか」と題した広告は、読売広告賞(銀賞)など5つの賞を受賞している。 今回の広告は朝日新聞など大手紙5紙と、日刊ゲンダイの紙面に2ページの見開きで同日掲載された。 1945年8月30日、連合国総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立つ写真を背景に、「いい国つくろう、何度でも。 」という見出しを掲げた。 広告の右下には「宝島社」という文字と同社の住所、左下には「ダグラス・マッカーサー財団の許可を受けています」という意味の小さな英文が載っているが、他に文章はなく、特に広告の趣旨は説明されていない。 「野田内閣」誕生のグッドタイミング そこで宝島社に聞いたところ、広告の意図をこう説明した。 「敗戦や災害など、これまで幾度となく苦境に直面してきた日本。 日本人はそのつど、不屈の精神と協調性を武器に国を建て直してきた歴史があります。 世界のどこを見ても、これほどしぶとく、強い生命力を秘めた国民は存在しないのではないか。 そんな気さえするのです。 『いい国つくろう、何度でも。 』この投げかけを通じて、日本人が本来持っている力を呼び覚ましてみたいと考えました」 復興に向けたメッセージを発することが目的のようだ。 ただし、マッカーサー元帥が登場したことについては、ツイッター上には 「『外から来る人』が仕切らないと何もできない国の皮肉か」 「311は『敗戦』なのか」 「最高にブラック」 「屈辱的」 と、否定的な見方もある。 宝島社によると、昼過ぎまでに30件ほど電話で意見が寄せられたといい、 「『よいコピーだと思った』『さすが宝島社』『どうしてマッカーサーなのか?』 『ポスターが欲しい』などのお問い合わせが多く、WEBでの反応も昨年以上に早いです」 と、例年よりも大きな反響を実感している。 ネット上では、野田内閣が発足する日に広告が掲載されたことに「裏の意味」があると推測する声もあるが、これは偶然の一致のようだ。 企画は6月に決定していたという。

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いい国つくろう鎌倉幕府(1192年)

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子どもの教科書をめくると、驚かされることが多い。 源頼朝の顔が違っていて驚くと、他にも違うところがたくさん。 実はここ数年の間に、教科書の中の常識はガラッと変わっている。 そのため、テストや受験のために必死に覚えた年号や史実を語呂合わせにも、「間違った常識」になってしまったものがある。 〈いい国(1192)作ろう鎌倉幕府〉は有名な語呂合わせのひとつだったが、現在の小中学校の教科書では使われていない。 「弊社では鎌倉幕府が開かれたのは1185年としています。 源頼朝は、征夷大将軍になった1192年より以前の1185年に守護・地頭を置き権力基盤を築いていました。 よって実質的な開幕として1185年としているのです」(教科書出版社・東京書籍の社会編集部の編集者) 最近では「いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番だ。 また「一番の」「最初の」と冠した有名な事柄も認識を改めなくてはならなくなった。 一番大きい天皇の陵墓として教科書に必ず出てきた、世界最大の墓域面積を誇る前方後円墳〈仁徳(にんとく)天皇陵〉は、現在は「大仙(だいせん)古墳(仁徳陵古墳)」と呼び名が変わった。 もともと仁徳天皇の陵墓だとしていたものだったが、現在表記で付記されている(仁徳陵古墳)は「仁徳天皇の陵墓とも考えられている古墳」の意味に留まっている。 それは仁徳天皇の没年と古墳の成立時期が矛盾するとの説が有力だからだ。 日本で最初の貨幣〈和同開珎(かいちん)〉は、7世紀の天武天皇時代の「富本銭(ふほんせん)」にその座を明け渡した。 1999年に奈良・飛鳥京跡で大量に発見された富本銭の方が年代的に古いと発表されたのが理由だ。 アメリカ大統領・リンカーンは〈リンカン〉と表記されるようになった。 これは現地読み(ネイティブな発音)に則した表記でイントネーションも大きく変わった。 教科書出版の世界では近年、社会の国際化にともない表記を現地読みに近づけていこうという流れがある。 「高校の教科書ではすでに、アメリカのルーズベルト大統領は〈ローズベルト〉、フランシスコ・ザビエルは〈シャビエル〉という当時のスペイン語読みが、さらに初の世界一周を成し遂げたポルトガルのマゼランは〈マガリャンイス〉という読みが併記されています。

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いい国作ろう…

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鎌倉幕府の成立時期をいつに求めるべきか、この問題をめぐってはこれまで以下の6説が主張されてきました。 見解の対立は幕府観の相違によるものです。 右近衛大将でも「幕府(将軍の居所)」を設けることができ、事実この時点で頼朝の居所を幕府と呼んでいたようです。 教科書では以上のような説明をするようになっているはずです。 幕府というと、結果的に室町・江戸と続くわけですが、この2つが一応全国支配になっているので、鎌倉にもそれを求めたくなってしまいます。 学校教育の理解度判定が試験によるのは仕方ないとしても、その形式の一つに年表クイズのようなものがあることがいろいろな弊害を生んだのですね。 ま、そうしないと2月までに教科書終わらないからですが。 そもそも「封建制」の確立に関して言えばすでに江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中で源頼朝が守護・地頭を設置を以て「封建の勢始まる」と述べており、新しい説でもないのですがね。 1954年に安良城盛昭氏が中世は奴隷制社会であり、近世に入り初めて封建制社会が体制として成立すると主張した。 それを受け1960年より「高校教科書」から中世・近世の部分から「封建制社会」の語句が消え、1965年から近世を「封建性社会の確立」の章が設けられたが依然として中世に関しては「封建制」という語句は使用されていません。 結論を言えば中世史研究者は「封建性」の始まりを中世と見做し、近世史研究家は「封建制」の確立を近世としたように「封建制」に対して意見の相違があった為に、頼山陽が嚆矢として指摘した1185年の守護・地頭設置を以て「封建制」が成立した論説を封印して、体制論に重点をおいた1192年の頼朝が将軍に任官した時期を以て幕府が成立したとする意見に収斂されたと承知しています。 見直しは1970年代より始まっており、将軍に就いた時期を以って政権が成立したとする「中心主義国家論」に対して「地域社会」に重点をおいた政権論が論じられるようになり表面的な事象で幕府成立年を1192年とした論説が後退して、1185年を以って実質的に政権が発足したと見做す意見が優勢となった。 岩波講座「日本歴史」の編集委員である藤井譲治氏の解説から引用しました。 いま私たちが鎌倉幕府と呼んでいるのは、源頼朝が後白河法皇から日本国惣(=総)追捕使(のちの守護)と日本国惣地頭という地位を手に入れたことで成立した、御家人は頼朝に忠誠を誓い、頼朝は戦で手柄を立てた御家人に恩賞(ほうび)として領地を与えるという主従関係、いわゆる封建制度のことで、鎌倉時代に鎌倉の街のどこかに鎌倉幕府という建物や役所があった訳ではありません。 1192年か?はたまた1185年か?とは、そうした「目に見えないもの」をいつ成立したことにするかという議論で、正しい答えなどないのです。 昔は源頼朝が征夷大将軍になった1192年を成立年としていましたが、これは後の室町幕府や江戸幕府の例を当てはめてしまったもので、源頼朝には当てはまりません。 そこで現在では、頼朝と御家人の主従関係の元になった、頼朝が前述の二つの地位を手に入れた1185年を成立年とみなす考えに変わっています。 ただし今後、今よりもっと新しい解釈が現れれば、また成立年が変わる可能性があります。

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