カルロウルバニ。 SARS

カルロ・ウルバニの「生命」|racoco|note

カルロウルバニ

今、西アフリカ諸国でのエボラ出血熱の感染が史上最悪の規模で国境を超えて拡大している。 致死性の高い感染症の世界的な流行は、死者774人にのぼったSARS以来である。 世界を恐怖に陥れた新型肺炎の未知のウイルスの出現を世界に知らしめたのは、一人の医師の命がけの行動だった。 医師の名前はカルロ・ウルバニ。 途上国で感染症に苦しむ子供たちの診療にあたるイタリア人の感染症の専門医であり、WHO 世界保健機関 ハノイ事務所の職員だった。 ウルバニはハノイの病院で診療にあたる中、自らもSARSに感染、27日後、46歳の短い生涯を閉じた。 ハノイに赴き、ウルバニと共にSARS対策にあたった押谷医師 当時WHO西太平洋地域事務局 は、彼のなした功績についてこう語っている。 そんな中で、カルロは非常に冷静だった。 患者の状況を詳細に記録し、その情報をわれわれのもとに送ってきてくれた。 また、マスクの着用や手洗いなど院内感染対策を確立し、実行を徹底した。 彼は最後まで優れた臨床医であり、優秀な公衆衛生の専門家であった。 彼はあの状況の中で唯一の感染症と感染症対策の専門医として、自分が何をしなくてはいけないのか誰よりもわかっていた。 苦しんでいる人々のために行動することは、自分自身を危険にさらしてでもやる価値のあることだったはずである。 番組では、カルロ・ウルバニの命をかけた闘いを通して探る。 ゲスト 押谷仁さん 東北大学大学院教授 世界保健機関 WHO 西太平洋地域事務局の感染症監視・対応地域アドバイザーとして、カルロ・ウルバニと共に2003年に大流行したSARSの封じ込めの最前線に立ったウイルス学の専門家。 キャスター 桜井洋子アナウンサー.

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NHKスペシャル「カルロ・ウルバニ SARSと闘い死んだ医師の全記録」

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押谷仁教授の経歴や出身高校などのプロフィール 押谷仁教授プロフィール• 名前: 押谷 仁(おしたに ひとし)• 生年月日: 1959年4月29日• 年齢: 60歳(2020年4月19日現在)• 出身地: 大阪生まれ東京育ち• 出身高校、大学: 東京都立青山高等学校、 東北大学医学部• 現職: 東北大学大学院医学系研究科微生物学分野教授 押谷仁教授 経歴• 1987年 - 東北大学医学部卒業• 1987年〜1988年 - 国立仙台病院研修医• 1991年〜1994年 - 国際協力事業団 JICA 専門家として、ザンビアでウイルス学の指導を行う• 1997年 - テキサス大学公衆衛生大学院卒業 、公衆衛生修士• 1998年 - 新潟大学医学部公衆衛生学助手• 1999年 - 同 講師• 1999年8月〜2006年 - フィリピンのマニラにある 世界保健機関 WHO 西太平洋地域事務局にて 感染症対策アドバイザーとして勤務した。 2002年には重症急性呼吸器症候群 SARS が発生し、WHO同僚の カルロ・ウルバニ内科医と共に事態収拾への対応を行った。 さらに状況が悪化し、ウルバニ医師も発病して帰らぬ人となった。 2020年3月から始まったNHKの同時配信・見逃し番組配信サービス「NHKプラス」受信料を払っていれば、追加料金なしで見る事ができます。

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押谷仁(おしたにひとし)教授・経歴や出身高校などのプロフィールとコロナ対策で瀬戸際の攻防

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今夜のNHKスペシャルは、「カルロ・ウルバニ SARSと闘い死んだ医師の全記録」~ベトナムで何が起きたのか? ~ 去年のSARS流行の記憶は生々しいし、鶏インフルエンザの流行も不気味だ。 SARSが流行した去年前半には、空気感染するという情報もあって、なかばパニックのようになっていた。 事実、東アジアの経済に大きな傷跡をもたらしているのだ。 最終的に死者700名を越えた段階で、流行は収まった。 だが、もしも一人の医師の命を賭けた奮闘が無ければ、死者は4桁になっていたかもしれない。 一昨年の初冬、中国広東省で謎の肺炎が流行り始めた。 これがSARS流行の発端となったのだが、中国政府は当初、いや病原が特定されるまで、この肺炎が新しい種類のものであることを否定し続けた。 現地のWHO関係者は、新型肺炎の全容解明の手がかりを前にしながら、中国国家の秘密主義という大きな壁に阻まれ、最初期段階での流行制圧に失敗していた。 結果、SARSは世界各国へと飛び火してゆく。 香港、ベトナム、シンガポール、カナダ。 市場としての魅力から多くのビジネスマンが行きかう中国は、SARSの"発信元"としてはうってつけだったのだ。 だが、早期にSARSに直面したベトナムでは、感染者63名、死者5名と、比較的軽微な損害で切り抜けた。 その影には、一人のイタリア人医師の努力があった。 カルロ・ウルバニ医師は、国境なき医師団を経てWHOに入り、感染症対策の専門家として、当時ハノイに赴いていた。 3月、彼の元に、市内の民間病院 社会主義国家ベトナムでは初めての から、見慣れない症状を見せる患者に関して助言して欲しいという要請が入ってきた。 患者は中国系アメリカ人のビジネスマンで、入国時に体調不良を訴え、入院、直後に重症に発展したという。 ウルバニ医師は、その症状の進行の早さに疑念を抱いた。 通常、肺炎を引き起こすような病気は、重症に発展するまで比較的長い時間を要する。 それに対し、この患者の場合は、わずか5日程度。 しかも健康な成人をここまで重症化させるような例は、彼の知る限りなかった。 ウルバニ医師は出来る限りの治療を試みながら、彼の脳裏に浮かんだ疑念を突き止めようとした。 そのビジネスマンは香港を経由してきたという。 その中国で流行していると伝えられる肺炎との関連を懸念したのだ。 同じものだとすると、ウィルスによる流行性のものであることになる。 ウルバニ医師は、在中国のWHO職員と連絡を取り、情報を得ようとしたが、先に挙げた中国の秘密主義体質が、それを阻んだ。 ウルバニ医師は、これが新しいウィルスによるものであることを確信していた。 そのことをWHOの関係者やベトナムの保健政策責任者に説き続ける。 しかし、病原や詳しいメカニズムに関して特定するには、時間も情報も不足していた。 結局、この患者は、より高度な医療を求め、香港へと搬送されてしまった。 しかし、ベトナムにおけるSARS流行は、まさにこの瞬間に始まったのだ。 程なく、医療スタッフの中から、不調や不安を訴える声が出始めた。 そして彼らに、最初の患者と全く同じ症状が現れ始めた。 これで病原がウィルスであり、しかも人に感染することが確定的になった。 ウルバニ医師は既に取り始めていた院内感染対策を徹底すると共に、患者の聞き取り調査を行い、彼らが最初の患者のごく近傍に接近していた事実を突き止めた。 空気感染の懸念は薄れたが、飛沫感染である可能性は強まった。 こうしてウルバニ医師が整理した情報は、後にSARSを制圧してゆく過程で大きな意味を持った。 未知の病気に見舞われたスタッフは、パニック寸前に陥った。 それを食い止めながら、ウルバニ医師は国家への働きかけを続けた。 当初、ベトナム保健省は事態を軽く見ていた。 単なるインフルエンザの変種だろうと見ていたのだ。 しかし、ウルバニ医師は、必死に説得を続ける。 ここで食い止めないと、流行は爆発的に広がり、手の打ちようが無くなるのだ、と。 彼の粘り強い説得が功を奏し、ベトナム政府は国を挙げての感染拡大防止に乗り出した。 病院は閉鎖され、既に感染の疑いが濃い患者から隔離されていた一般患者も転院させ、外部との接触を絶った。 またウルバニ医師の助言に基づく二次感染対策も徹底された。 その結果、やがてベトナムでは感染が食い止められ、いち早く制圧に成功したのだ。 WHO側からすれば、国家主義の壁を熱意で乗り越えての勝利、ということだろう。 しかしベトナム側から見れば、感染症との闘いに豊富な経験を持つベトナムの国家レベルでの正しい指針の勝利、というところになるのだろうか。 WHOの診断基準のための骨格となるデータを提供するなど、計り知れない貢献を果たしたウルバニ医師。 しかし彼自身も、感染から逃れることは出来なかった。 あまりに患者たちと接触しすぎていたのだ。 彼はタイに出張という形で出国したところで発病が明らかになり、隔離先の病院で死去した。 彼の命がけの貢献が無ければ、SARSの流行という事実は発覚が遅れ、さらに診断基準も整わぬゆえに爆発的流行を食い止めるすべが無かったかもしれない。 もう一人のイタリア人、マルコ・パンターニの死の報に接した夜、別のイタリア人の死に様を知るというのも、奇妙な偶然に思えなくは無い。 現在、SARSの病原と特定されたコロナウィルスの変種には、ウルバニ医師の名が冠されている。

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