浄土 真宗 教え。 浄土真宗 念仏の教え

浄土真宗講座|親鸞聖人の教えをわかりやすく解説|浄土真宗 親鸞会

浄土 真宗 教え

クリックして好きな場所へ移動• いわゆる「創始者」のようなものですね。 ご開山(ごかいさん)という言い方もしますが、 「一宗の祖」として、 浄土真宗の開祖という意味があります。 元々、親鸞聖人は法然上人の弟子でした。 そういった名称から、 浄土真宗本願寺派の「宗派」の事を「お西」と 呼ぶ方も多いです。 場所は、 〒600-8501 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60 本山とは、すべての浄土真宗の寺院などの総本山で、 会社でいうならば、「本社」にあたります。 ご本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) 阿弥陀如来は、西方にある華やかな極楽浄土の 教主です。 阿弥陀様のよび声である 「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」 の働きによって、迷いの世界から目覚めて 悟りの世界に導こうとして下さいます。 「南無」には「まかせる」という意味があり、 南無阿弥陀仏とは、 「まかせよ阿弥陀に」という阿弥陀様からの 呼びかけとしての意味であり、 そのよび声に私たちが従う時に、 「阿弥陀様にお任せします」 と合掌して「南無阿弥陀仏」を称えれば、 この世の命を終えた時に 阿弥陀様の「極楽浄土の世界」に 生れて直ちに悟りへと導かれるという事です。 ・浄土和讃 (じょうどわさん) ・高僧和讃 (こうそうわさん) ・正像末和讃 (しょうぞうまつわさん) 浄土真宗を世に広めた 蓮如上人のお手紙 ・御文章 (ごぶんしょう) 法事の際などに、お勤め(お正信偈など)が 終わった後に、ご院家(ごいんげ)さんが 黒い箱を開けて、読む事が多いと思います。 御文章の拝読の際には、合掌して頭を少し 下げるような形で聴聞させていただきます。 誰に対して書いた「お手紙」かというと、 実は門徒(もんと=浄土真宗を信仰する人) である私達へむけて書かれたものです。 有名な蓮如上人の「白骨の御文章」は 人間の命の無常さを、ひしひしと 伝えて下さる内容です。 まとめ 簡単に浄土真宗のお話しをしましたが、 基本的な知識も大事ですが、 綺麗な花が庭に咲いたらお仏壇へお供えして 阿弥陀様へ感謝したり、 ご飯が炊ければ、一番先にお仏飯として お供えしたりと、 日々の信心の積み重ねとあわせて、少しづつ 浄土真宗の事について知っていただく きっかけとしていただければ幸いです。

次の

浄土真宗を学ぼう! » 教え

浄土 真宗 教え

浄土真宗の教えの一枚看板 浄土真宗とは、聖人の教えのことです。 その親鸞聖人の教えを漢字4つで表した言葉が「 平生業成」です。 平生業成という言葉は、親鸞聖人から出た言葉ですから、親鸞聖人がお生まれになるまではなかった言葉です。 親鸞聖人が初めて明らかにされた、浄土真宗の一枚看板が「 平生業成」なのです。 「 看板」とは、それを見れば、その店で何を売っているか分かるものです。 「 魚屋」という看板が出ていれば、その店では魚が売っているのだとわかります。 「 タバコ」とあれば、タバコが売られているのだと分かります。 看板は、その店で売っているものを皆さんに知らせる働きがありますから、非常に重要なものです。 もし魚屋さんに、「 タバコ」という看板がでていたらどうなるでしょうか。 タバコが欲しい人が店に来ますが、肝心のタバコがないので、「 看板に偽りあり」と腹を立てて帰ってしまいます。 逆に、魚が欲しい人は誰も来ませんから、店は倒産してしまいます。 ですから、お店の看板には、売っているものを掲げなければならないのです。 さらに、この店に来なければないものを看板に掲れば、それが欲しいお客さんが集まってきます。 浄土真宗の一枚看板が、平生業成だということは、親鸞聖人しか教えられていないことが平生業成だということです。 他の宗派にはない、浄土真宗の教えだけの特徴が平生業成なのです。 仏教の宗派だけではありません。 世界にたくさんの宗教がありますが、キリスト教でも他のどんな宗教でも教えられていない、世界に唯一の浄土真宗の教えの特徴が表されているのが平生業成なのです。 ところが、この平生業成は、ほとんどの場合、間違って使われています。 それはどんな間違いでしょうか? 平生業成の誤解 「 平生業成」は、「 へいぜいごうじょう」と読みます。 平生業成と聞くと、バスガイドさんが、「 今日はみなさんの平生業成がよかったから、いい天気になりましたね」と使ったりします。 また、「 あの人が、事故に遭ってあんなひどい死に方をしたのは、平生業成が悪かったからだ」と言われることもあります。 これは、平生の行いがよかったから天気が良くなったとか、平生の行いが悪かったから事故に遭ったということで、「 平生業成」を普段の行いという意味だと思っているのです。 しかし「 平生業成」は、浄土真宗にしかない、浄土真宗の教えを一言で表した言葉ですから、平生の行いという意味ではありません。 親鸞聖人が、今日世界の光といわれるのは、すべての人が本当の幸せになれる道を明らかにされたからです。 その親鸞聖人の教えを漢字4つで表したのが平生業成ですから、平生業成の意味を知れば、親鸞聖人の教えがすべて分かります。 では、平生業成はどんな意味なのでしょうか? 平生とは? 「 平生」とは、死んでからではありません。 臨終でもありません。 生きているとき、ということです。 浄土真宗と聞くと、葬式やなど、死んでからのことを教えられたように思っていますが、そうではありません。 死んでからどんなに大騒ぎしても、取り返しがつきません。 死んでしまったらどうにもなりませんから、生きている時が大事です。 死んでからでは間に合わない、生きている時でなければならないというのが、平生ということです。 この平生の意味は大体みんな分かっていると思います。 問題は、その次の業です。 業とは? 「 業」は、大事業の業の字を書いて、「 ごう」と読みます。 大事業のことです。 大事業というと、大きな事業ということで、松下幸之助のやった事業や、徳川家康の天下統一の事業などを言うときに、大事業といわれます。 ところが、ここで大事業といわれるのは、人生の大事業のことです。 人間に生まれてきたのは、これ一つというものです。 言葉を変えれば、本当の生きる目的です。 私たちは何のために生まれてきたのか。 何のために生きているのか、 なぜどんなに苦しくても生きねばならないのか、 という本当のです。 私たちが生まれてから死ぬまでを、禅宗の僧侶、一休はこう言っています。 「 世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく」 これは、女性だけではなく、男性も、同じようなコースをたどります。 この生まれてから死ぬまでに、これ一つ果たせば、人間に生まれてよかったと大満足できるものが、人生の大事業です。 あなたは何の為に生きていますか?と聞くと、仕事のため、業績を残すため、家族のため、世の中をよくするため、土地のため、財産のため、名誉のため、色々な生きがいを答えます。 お金を稼ぐため、結婚するため、ペットのため、オリンピックで金メダルをとるため、ノーベル賞をとるため、寝るためなど、人それぞれ色々な趣味があります。 ところが、このようなものは、どこまでいっても心からの安心も満足もありません。 徳川家康が晩年にこのように言っています。 人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し 「 人の一生」とは、家康が、自分の一生は、ということです。 家康は、一生涯重荷を下ろすことができなかったと言っています。 「 重荷」というのは、苦しみのことです。 家康は、天下を統一して、征夷大将軍になって、300年近く続いた徳川幕府の礎を築き、日本の歴史上最も成功した人といわれます。 あれだけのことをした家康が、一生涯苦しみはなくならなかったと言っているのです。 天下をとったら重荷を下ろせるかと思ったけど、おろせなかった。 将軍になったら重荷を下ろせるかと思ったけど、おろせなかった。 幕府を開いたら重荷を下ろせるかと思ったけど、おろせなかった。 重荷を背負っていても、どこか路傍の石に腰掛けて、一休みできればまだいいのですが、「 遠き道を行くがごとし」と言っています。 果てしなく歩き続けなければならなかったということです。 きりのない道、ゴールのない道を、重荷を背負って歩き続けなければならなかったということです。 それはなぜかというと、家康のやったことは、人生の大事業ではなかったからです。 家康は、重荷さえ下ろせれば、天下統一しなくてもよかったし、将軍にならなくてもよかったのです。 私たちの生きている目的は、重荷を下ろすことにあるのです。 家康は、私たちが人生の目的と思っている仕事や、子育て、趣味や生きがいは全部やったのです。 それでも重荷を下ろせず、果てしない道を歩き続けなければならなかったと言っています。 死ぬまで苦しみ続けなければならなかったということです。 私たちは、苦しむ為に生まれてきたのではありません。 人生には、人間に生まれてよかったと大満足できる目的があるのです。 そこに到着したというゴールがあります。 それを果たすことが本当の生きる意味なのです。 その本当の生きる目的を教えられたのが、浄土真宗の教えであり、平生業成の業なのです。 成とは? 平生業成の成とは、完成する、達成する、ということです。 完成というのは、でき上がってしまったことを言います。 「 私の家が完成しましたから見に来てください」と友達に言います。 その友達が完成した家を見に行ったら、まだ大工さんがトントンカンカンとやっています。 そうなると「 何だこれは。 完成したと言って、まだ完成していないじゃないか」と言います。 完成というのは、もうでき上がってしまって、釘一本打たなくても良いようになったことを言います。 足すものも引き去るものもない、これ以上何もする必要がない状態になったのが完成です。 親鸞聖人の教えられる人生の大事業には、完成がある、ということです。 この大事業が完成したとき、人間に生まれてきたのはこれ1つであった、という生命の大歓喜が起きます。 これが卒業であり、ゴールです。 これが浄土真宗の教えの目的なのです。 その人生の大事業は、 死んでからでは間に合いませんよ、生きているときに完成できるから、早く完成させなさいと教えられているのが浄土真宗の教えなのです。 ではその浄土真宗に教えられる人生の大事業とはどんなことなのかについては、以下のメール講座でご覧ください。

次の

「浄土真宗とは何か 親鸞の教えとその系譜」小山聡子著

浄土 真宗 教え

私たちのみ教え(浄土真宗) いまから2500年以上前にお釈迦様によってお説きいただいた仏法は、いついかなる時代にあっても変わることのない、普遍の教え、真実の教えです。 その仏教は、インド、中国、そして、朝鮮半島を経て、幾多のご苦労の中、私どもの日本に伝来しました。 その中でも、お念仏の教えは、インド、中国の高僧方によってお伝えいただきました。 そのお念仏の教えを日々の生活で悩み苦しむ私たち、苦しみを苦しみとも感じずにいる無明の中の私どもに、お念仏の教えとしてわかりやすくお説きくださったのが、親鸞さまです。 親鸞さまが私たちにお教え下さった浄土真宗のみ教えは、「阿弥陀さまの本願を信じ、念仏申せば仏となる」というお念仏のみ教えです。 そのお念仏のみ教えは、私たち一人一人のかけがえのない人生を活かし、受け止め、生きる大いなる道です。 忙しい毎日に追われ、目先のことにとらわれて、人生において大切な意味を見失っています。 私どもに伝わるまで長い年月受け伝えていただいた浄土真宗のみ教えは、その苦悩の中、何ものにも妨げられることのない、力強い生き方、明るく確かな真に安心して歩んでいける道へと導いてくださる教えなのです。 私たちの仏さま(阿弥陀仏) 「五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、それ、衆生のつみにおいては、いかなる十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなりというとも、すくわんとちかいましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまいて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまえるを、すなわち阿弥陀仏と申すなり」 阿弥陀さまはすべての生きとし生けるものすべてをお救いくださる仏さまです。 阿弥陀さまは、限りない命、限りない光として何ものにも障げられない無限にはたらく仏様です。 ですから、阿弥陀如来、無量寿佛、無量光佛、不可思議光如来、尽十方無碍光如来とも申し上げるのです。 長い間の思惟と、長い間のご修行によって、どれほどの業にまみれたものでも、救ってやりたいとお誓いいただいた願いが成就されて、阿弥陀さまとなっていただいているのです。 仏教では沢山の仏さまが説かれていますが、悩み煩わされながら日々を送っている私たち、諸佛に捨て果てられる凡夫を救って下さる仏さまは阿弥陀さまです。 阿弥陀さまは私たちの知識でははかりしれないほど大きなお心で、いつも私たちを見守って下さっている仏さまなのです。 広大なるお心(本願) 「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじと誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします」 浄土真宗では阿弥陀如来の本願を信じることとお教えいただいています。 その本願とは、その阿弥陀さまの誓われた願いです。 その願いとは、生きとし生けるものすべてを救いたいという、この上なく深い願いです。 『仏説無量寿経』というお経には、四十八の願いが説かれています。 これは阿弥陀さまが法蔵菩薩として修行されているときに立てられた誓願であり、その誓願が成就し、阿弥陀さまとなられたことが経典には説かれています。 親鸞さまは、その四十八の願いの中、十八番目の願いが、この世にあってさまざまな不安の中にいる私たちのために立てられた真実の願い(本願)であるといただかれ、蓮如さまはこのことを私たちに平易にお教え下さっているのです。 信じること聞くこと(聞即信) 「信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。 かやうにこころうるを、すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり」 浄土真宗では、信心が肝要とお教えいただいております。 真実の信心とは何か。 疑いの心、自分の計らう心を捨てて、阿弥陀さまのみ教えを一心に信じる。 私どもの身に起こる様々な迷いや疑う心を見とおして「おまえを救うぞ」と、阿弥陀様から願い続けていただいているのです。 そのことを私一人のためにしていただいていたという、その心になった時、すでに摂取不捨のもと、すくいとっていただいていたと信じる心が発るのです。 そして、その心も、すでに阿弥陀様から頂戴していた心といただけます。 そして、我が身に起こる様々な迷いや疑いも、その迷う心も、ああ、阿弥陀様の願いによって受け止めていただいていると報恩感謝の心が発る。 仏様の願いがそのまま私の信じる心になるので、その心を他力の信心というのです。 仰せのままに(たのむ) 「それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。 かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり」 「仰せのまま」にとは、私どもにとって大切です。 しかし、とても難しいことです。 何を信じたらいいのか、ともすればどうしても疑う心になってしまいます。 あるがままに受け取り、阿弥陀さまから「たのめ」の喚び声にその仰せのままに「たのむ」心を起こすことがどれほどの安心か。 浄土真宗第八代の蓮如さまは、この「たのむ」ことの大切さ、私の自力のはからい、阿弥陀さまへの請い求める心、疑いの心が一切いらないということ、すべてをおまかせすることをお教え下さっております。 あるがままの姿(凡夫) 「阿弥陀如来のおおせられけるやうは、末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべしとおおせられたり」 私どもは、日々の生活に追われ、一喜一憂しています。 仏教では、真相に明らかでない、真実を知らないことを無明と言います。 闇の中にいるものがいくら目を開けても本当の姿はみえません。 私たちは多くの命に育まれ支えられ、また多くの罪をつくりながら生きています。 こうした本当の姿は、一筋の光に照らされてはじめて明らかに知らされるものです。 阿弥陀さまのまことの光に照らされたとき、はじめて私たちの本当の姿が照らし出されます。 仏法をいただき、真実に触れることで、ようやく、ありのままがありのままに頂けます。 虚仮不実のこの世界のありのままが、また我が身の姿が明らかに知らされた時、同時にそこに阿弥陀さまのはたらきに包まれた明るい道が開けてくることでしょう。 生死をこえる(後生の一大事) 「人界の生はわづかに一旦の浮生なり。 後生は永生の楽果なり。 たとひまた栄花にほこり栄耀にあまるというとも、盛者必衰会者定離のならいなれば、ひさしくたもつべきにあらず」 私たちは浄土や後生というと遠い先のことのように思ってしまいます。 しかしながら、私たちの人生はいつ如何なることになるかわかりません。 生死は表裏一体と申します。 この世は常に移り変わる無常の世界であり、そのような中で人生を生きているのです。 そうした世にあってどんなに物質文明が進んでも、生死の世界を生きる本質は変わりません。 そして、その真実に目覚めたとき、後生の一大事が知らされます。 そしてその後生が解決されたとき、自ずと今の不安、迷い、今生(こんじょう)が解決されてくるのです。 後生の解決なくして、今生の解決(真に安心して進んで生ける道)はないのです。 蓮如上人はこの今生こそ、その与えられたチャンスとお教え下さっています。 今聞くことなくして、いつ聞くのでしょうか。 お念仏(称名報恩) 「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」 少し以前の日本の風景を思うと、私どものまわりに、毎日の生活の中でお念仏を称えておられるおじいさん、おばあさんがおられたことを思い出します。 仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときに、そのご恩報謝の心が起こり、思わずお称えするお念仏、そのお念仏を口に称えることを称名といいます。 真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。 そのお念仏、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまからの喚び声として、いつでもどこでも私どもによびかけられています。 ですから、いつでもどこでも誰でもがお称えできるお念仏として私どもにお与えいただいています。 阿弥陀さまのお心をいただいたことは、そこにすでに仏さまの願いが成就されており、私の口からでるお念仏がすでに御恩報謝ともなっています。 称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。 お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。 信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。 それはすべて南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。 仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた教えとなり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。

次の