こ せき ゆうじ は 留学 した か。 留学生7人が感染 個人宅会食でクラスター 大分・立命館アジア太平洋大

朝ドラ「エール」主人公のモデル、古関裕而(こせき ゆうじ)さんとは?

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NHKの朝ドラ「エール」のモデルとなる古関金子(こせき・きんこ)の生涯を描く立志伝です。 母は内山ミツである。 「金子」という名前は、「かねこ」ではなく、「きんこ」と読ませる。 風変わりな名前だが、母・内山ミツが尊敬する知人から取って付けた名前である。 父・内山安蔵は陸軍の獣医部を定年退職した後、愛知県豊橋市で蹄鉄や馬具を製造販売する「内山安蔵商店」を始め、陸軍の第十五師団に納めていた。 従業員も多く、裕福な家庭だったようだ。 内山家は、音楽好きだったので、オルガンや琴で合唱し、いつも音楽の絶えない家庭だった。 このため、古関金子は音楽と読書が大好きで、子供の頃から日本女子大学の国文科に進学するか、音楽家になりたいと思っていた。 しかし、古関金子が12歳の時に父・内山安蔵が死去してしまい、母・内山ミツは事業を縮小して仕事を続けたが、家計は苦しくなった。 そこで、古関金子は、豊橋高等女学校(豊橋東高校)を卒業すると、名古屋で知人の雑誌を手伝いながら、宝塚歌劇団を夢見て、歌の勉強を開始するのだった。 スポンサードリンク 運命 昭和5年(1930年)1月、古関金子は新聞記事を見て驚いた。 福島の古関裕而が、イギリスの作曲コンクールに「竹取物語」などを応募し、2等に選ばれたというのである。 古関金子は小学5年生の時に学芸会で「かぐや姫」の役をしていたことから、「かぐや姫」と呼ばれており、「竹取物語」という曲に運命を感じて手紙を書いた。 最初の手紙は「楽譜が欲しい」という内容だったようだ。 古関裕而は、叔父が経営する川俣銀行で働いており、音楽家としては無名だったが、「竹取物語」の報道で有名となり、数多くの手紙が来ていた。 古関裕而は、声楽家を目指す古関金子の事が気になって返事を書き、2人の文通が始まった。 音楽家を目指す古関裕而にとって、同じ夢を持つ古関金子は大きな存在だった。 結婚 古関裕而は、イギリスの作曲コンクールに入賞したことで、5年間のイギリス留学のチャンスを得ていたが、イギリス留学に迷っていた。 留学費用の事もあるが、愛する古関金子と5年間も離ればなれになる事に耐えられなかったのである。 そこで、古関裕而(21歳)は昭和5年(1930年)5月28日に愛知県豊橋市を訪れて、結婚を申し込み、そのまま古関金子(18歳)を連れて婚前旅行に出かけ、6月1日に結婚した。 交際期間はわずか3ヶ月の電撃結婚だった。 しかも、交際と言ってもほとんどが文通だったため、周囲の人は2人の関係を知らず、突然の結婚に驚いた。 さて、古関裕而は福島の実家の倉に居を構えて新婚生活を開始するが、イギリス留学は中止になった。 理由は分からない。 古関裕而は川俣銀行を辞めており、生活のために音楽家の道を模索していたが、前途は多難だった。 そのようななか、日本コロムビアから専属契約の話が来た。 山田耕搾が日本コロムビアに推薦してくれたのである。 そこで、古関裕而は、古関金子と相談して、日本コロムビアと契約することを決め、昭和5年9月に夫婦で上京したのだった。 上京 声楽を学びたがっていた古関金子は、上京すると間もなく「ヴォーカル・フォア合唱団」に入団した。 その後、昭和6年4月に帝国音楽学校の声楽部本科に入学した。 一方、夫・古関裕而は、国家公務員の初任給が75円だった時代に、月給200円で日本コロムビアの専属作曲家になったが、ヒット曲が出ずに、契約解除の危機を迎えていた。 古関金子は長女・古関雅子を妊娠しており、大きなお腹を抱えて、日本コロムビアの米山正の自宅を訪れ、必死に契約継続を懇願した。 これは古関金子の作戦だったとも言われ、この作戦が功を奏し、月給半額という条件で古関裕而は契約解除を免れた。 その後、昭和7年1月に長女・古関雅子が生まれ、昭和9年7月に次女・古関紀子(みちこ)が生まれたので、子育てのため、帝国音楽学校を退学した。 一方、夫・古関裕而は依然としてヒット曲が出ず、再び契約解除の危機を迎えるが、今度は古賀政男に助けられ、なんとか契約解除を免れるという有様だった。 しかし、昭和9年の「利根の舟歌」で初ヒットを出し、昭和10年の「船頭可愛いや」が大ヒットした。 そして、昭和15年の「暁に祈る」の大ヒットで作曲家としての地位を不動なものとし、数々の戦時歌謡を作曲した。 さて、古関金子は、昭和12年に歌手のから本格的な声楽を学び、昭和15年にディーナ・ノタルジャコモに師事し、オペラや放送に出演した。 古関金子は日本では珍しいドラマティック・ソプラノの持ち主で、ベルトラメリ能子が「私の後継者」と認め、上野の音楽学校の教授ヘッサートも絶賛した程だったが、戦争の激化により、活躍の場は奪われていった。 スポンサードリンク 疎開 昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で、自宅の隣家が焼けると、夫・古関裕而は昭和20年6月に娘2人を福島県福島市の実家に疎開させた。 しかし、福島の実家も危なくなってきたので、昭和20年7月に娘2人を福島県福島市飯坂町横町の二階堂魚店へと疎開させた。 昭和20年7月、古関金子は疎開している娘2人の様子を見に行き、腸チフスに感染して重体となってしまう。 偶然、二階堂魚店に医学生が下宿しており、この医学生が腸チフスと診断してくれたのだが、この頃のタクシーは木炭車で、木炭1俵を用意しなければ、タクシーは呼べなかった。 このため、夫・古関裕而の弟・古関弘之が、なんとか木炭を用意して、タクシーで古関金子を病院へ運んだ。 知らせを受けた夫・古関裕而は、慌てて帰省して病院へ駆けつけると、金子に死相が出ていたが、必死の看病により、回復し、昭和20年8月10日頃に退院した。 その数日後の昭和20年8月15日に玉音放送が流れ、日本は終戦を迎えた。 まもなく、夫・古関裕而は、脚本家の菊田一夫と共にNHKラジオドラマの仕事を開始しする。 夫・古関裕而は脚本が完成したら疎開先へ送ってもらい、放送の度に上京していたが、疎開先を引き上げて東京へ戻ることにした。 昭和20年11月、引き上げの準備をしていた夫・古関裕而は、疎開先の飯坂小学校の校歌の作曲を依頼され、校歌を制作した。 飯坂町には世話になったので、作曲料は半額で引き受けたという。 そして、校歌発表を兼ねた音楽会で、長女・古関雅子の伴奏で古関金子が歌い、古関家は校歌を置き土産にして、東京へと戻った。 戦後 戦後の昭和21年5月26日に日本初の国際的オペラ歌手・三浦環が死去すると、古関金子は尊敬する三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開した。 古関金子の歌声は評価が高く、夫・古関裕而は関係者から「奥さんの為に曲を作るべきだ」と助言されており、オペラ「朱金昭」「トウランドット」「チガニの星」を作った。 この3作は、古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演で、昭和24年から昭和25年にかけてNHKで放送され、好評を得た。 しかし、古関金子は、昭和21年7月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれて、3人の子供に恵まれており、育児や家事をしながら、歌手活動を続けるのは不可能だと悟り、オペラ3作を最期に声楽から引退した。 株式投資 昭和26年に投資信託が始まり、投資信託が大きな注目を浴びていた。 古関金子は、株を購入することなど恥ずかしいという先入観があったが、値上がりが急激だったので、チャンスを逸してはいけないと思い、山一証券の渋谷支店を訪れて、係の人に勧められた株を購入すると、半年も経たないうちに100万ほどの利益になった。 しかし、昭和28年3月のスターリン・ショックによる暴落で、儲けを全て吐き出し、さらに10万円も損をしてしてしまった。 普通の人は、ここで止めてしまうのだが、古関金子は人任せにしたのが間違いだったと思い、本気で株式投資の勉強を開始した。 実際の成績は不明だが、長期的には株価は右肩上がりの時代に、古関金子は信用取引も行っていたようなので、相当な利益を出していたとも言われる。 その一方で、詩も書いており、昭和33年(1958年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。 昭和40年に「にあいなめ」の同人となり、昭和44年に詩集「極光」を発売した。 また、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになった。 スポンサードリンク 晩年 古関金子は、昭和51年(1976年)に乳がんが判明し、2度の手術を受け、闘病生活を開始しする。 昭和54年に夫・古関裕而が福島市の名誉市民の第1号に選ばれ、古関金子も推戴式に和服で出席したが、昭和55年6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。 古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり、昭和55年(1980年)7月に死去した。 68歳だった。 夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。

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別府の留学生2人感染 アルバイト先のゆめタウン、一部休業

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第19話(4月23日)冒頭に続き、2回目。 またも視聴者の爆笑を誘い、インターネット上で反響を呼んだ。 古川も「朝ドラは小さい子どもからお年寄りまで、たくさんの方がご覧になっているので、反響があるかなと、こっそり期待していましたが(笑)、予想を遥かに超えるものでした」と朝ドラの影響力の大きさに驚いている。 制作統括の土屋勝裕チーフプロデューサーは「『ミュージックティ』で切ることを重ねることで、面白さが出ると考えました」と繰り返しの狙いを明かした。 朝ドラ通算102作目。 モデルは全国高等学校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」などで知られ、昭和の音楽史を代表する作曲家・古関裕而(こせき・ゆうじ)氏(1909~1989)と、妻で歌手としても活躍した金子(きんこ)氏。 昭和という激動の時代を舞台に、人々の心に寄り添う曲の数々を生み出した作曲家・古山裕一(窪田)と妻・関内音(二階堂ふみ)の夫婦愛を描く。 男性主演は2014年後期「マッサン」の玉山鉄二(39)以来、約6年ぶりとなる。 古川が演じるのは、音の歌の先生・御手洗清太郎。 音楽を学ぶため、ドイツに留学した経験がある。 第16話(4月20日)終盤、音への指導シーンに初登場。 「マーベラス、ファンタスティック!」「先生はやめて。 堅苦しいの、嫌いなの。 私とあなたはフレンズよ」「シャラップ!敬語は使いなさいよ」「親しき仲にも礼儀ありよ」「ミュージックティーチャーと呼びなさい」などとハイテンションぶりが印象的だった。 第19話冒頭は、裕一からの手紙が来ないと落ち込む音との会話。 相変わらず「先生」と呼ぶ音に対し、御手洗先生は「私はミュージックティ」と途中でぶった切られ、オープニングのタイトルバックが流れた。 第22話はオープニングタイトルバック明け。 御手洗先生は音が連れてきた裕一と初対面。 「わたくし、音さんに歌を教えている御手洗清太郎です。 それから、さっき、先生って言ったけど、私のことはミュージックティ」と自己紹介もぶった切られた。 この日も「ミュージックティ」がツイッターのトレンド入り。 SNS上には「強制終了w」「また切られたw」「いつも最後まで言わせてもらえないw」などの書き込みが相次いだ。 古川は2007年から4代目・不二周助を演じた2・5次元ミュージカル「テニスの王子様」でブレイク。 18年10月期のTBS日曜劇場「下町ロケット」でゴールデン帯の連続ドラマに初のレギュラー出演。 ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」のロミオ役など王子様風のルックスが人気だが、そのイメージを覆す悪役に挑み、注目を集めた。 今回の「エール」を機に、さらにブレイクしそうだ。

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「エール」第12週はオムニバス形式の“スピンオフ週”環のパリ留学時代など3つの物語 井上順ら新顔も― スポニチ Sponichi Annex 芸能

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で生まれ旧制福島商業学校(現)に通いながらに通い、に師事 して、1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家である。 それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出する。 クラシック畑からポピュラー畑に転身し、、、応援歌「あゝ中央の若き日に」、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「希望の門」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、実に数多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ 、和製と呼ばれた。 気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。 古関が作曲した曲は5千曲に及ぶという。 また、作曲の作業には楽器を一切使わずに頭の中だけで行ったといわれる。 幼少期 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときにへ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 商業学校に入ったのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた。 ある時、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 また、在学中に家業の呉服店が倒産した。 学校を卒業する頃、福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 当時、日本でも有数のハーモニカバンドであった。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 卒業後、川俣銀行(現川俣支店)に勤務。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ (昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、入賞を果たす。 ほとんど知られていないが、これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、当時の新聞でも大々的に報道されている。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ声楽家志望の愛知県在住の(きんこ)が古関にファンレターを送り、熱烈な文通を経て、古関20歳、金子18歳でスピード結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は、実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品に、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)、古関が26歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへすすんでいた。 また同時期に同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 戦中から戦後 ________ ____________ 1955年 戦時中はで数々の名作を残している。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」、「」など)が多かった。 それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線の悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」、「」、「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるので歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏で数多く出演した。 一方で、同じように流行歌の作曲家としても活躍したとともに、「近世の日本のマーチ作曲者の代表的存在」として研究対象とされることが近年増えてきている。 ____________ 作詞:西城八十 作曲:服部良一 ___________ ____________ 晩年と死後 系の音楽番組『』の審査員を10月の開始から初代司会者のとともに降板したまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 福島市最初の名誉市民で、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 その後盛大な音楽葬が催され、生前、、のを作曲していた古関のために参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって多くの参列者に見送られた。 古関の没後、の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 ___________ 覇者 覇者 早稲田 _________ __________• 1931年「福島行進曲」(作詞:野村俊夫、歌:天野喜久代)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1940年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「ラバウル海軍航空隊」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 戦後• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 _____________ ____________• 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、永田とよこ)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1958年「」(第1回時の紛失楽譜発見、採譜オーケストラ編曲、至る現用)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「早慶讃歌 〜花の早慶戦〜」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1970年「」(作詞:藤浦洸)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:藤田正人)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 — 佐久間正門 現行版 — 松瀬節夫) 映画音楽 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 — 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督・応援監督・特撮監督)• 1953年 — 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・円谷英二特技監督) クラシック音楽• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他• 1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:中河与一)• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 歌(作詞:)• 校歌(作詞:)• 京都市立加茂川中学校校歌(作詞:)• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 校歌(作詞:船橋久男)• 校歌(作詞:西條八十)• 北九州市立熊西小学校(作詞:火野葦平)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 愛知県西尾市立吉良中学校校歌• 豊橋市歌(作詞:) 著書• ただし、古関自身はスポーツにあまり興味がなく、プロ野球でも特定のチームを応援することはなかったという。 そのため、阪神と巨人からそれぞれ応援歌の作曲を依頼された際には、両方とも断らず中立の立場で依頼を引き受けている。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 [ ]• NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日 2019年2月28日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 参考文献• の著述多数• の解説、著述多数• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年 評伝• 長男のは者。 長女の(西條嫩子)も詩人。 孫のはエレキギター製作者。 牛込払方町(現在の)出身。 実家は大久保周辺に土地を持つ大地主で、父は設計技師であったが、父親の死後、家庭は没落した。 (明治31年)、桜井尋常小学校に入学。 松井喜一校長に影響を受ける。 旧制早稲田中学校(現)在学中にと出会い生涯の師と仰ぐ。 吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。 中学時代に英国人女性から英語を学んだ。 正則英語学校(現在の)にも通い、英文科。 早稲田大学在学中にらと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。 の『未来』にも同人として参加し、(8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。 後にへ留学しソルボンヌ大学でらと交遊、帰国後早稲田大学文学部文学科。 は日本音楽著作権協会会長を務めた。 、会員。 1943年には早稲田大学時代の同級生・外池格次郎が当時町長を務めていた(後にを経て現・)に疎開。 以後戦後まで下館を拠点としていた。 詩の詩人としてだけではなく、のとしても活躍し、が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき「東京行進曲」、戦後の民主化の息吹を伝えの躍動感溢れる歌声でヒットした「」、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「」、の故郷風景ともいえる「」「ゲイシャ・ワルツ」、の男の演歌にしてメロディーの傑作「」など無数のヒットを放った。 また、児童文芸誌『』などに多くの童謡を発表し、と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。 薄幸の童謡詩人・を最初に見出した人でもある。 (45年)に急性心不全のための自宅で死去。 78歳没。 は詩泉院釈西條八十。 墓所はに在るである。 エピソード• 名前はではなく、本名である。 両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名したという。 天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。 の小説『』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。 に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。 なおテレビドラマは、5度製作放映された(2017年8月現在)。 1967年に作詞した「夕笛」はによって歌われ、最後のヒット曲となったが、の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。 八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。 担当編集者の回想に、『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。 著者は友人の詩人の次女である。 内容は「トミノ」という少年がを旅するという内容で、これは西條が亡くなった父もしくは妹に奉げる為に書いたとされるが詳しいことは不明。 主な著作 (右)とともに(1931年、熱海)• 『西條八十全集』全17巻、、1991年-2007年。 『西條八十著作目録・年譜』事業出版、1972年。 同刊行委員会、編 研究書・著作• 『研究』、1967年。 『西條八十自伝 唄の自叙伝』で再刊〈人間の記録29〉、1997年。 『女妖記』で再刊、2008年。 自伝的小説集 詩集(象徴詩・純粋詩)• 『砂金』自費出版、1919年。 (復刻:、2004年)• 『見知らぬ愛人』、1922年。 『美しき喪失』、1929年。 『一握の玻璃』、1947年。 詩集(その他)• 『空の羊』• 『少女純情詩集』国書刊行会で復刻、1984年。 『水色の夢』• 『西條八十詩集』角川春樹事務所、で再刊、2004年。。 訳詩集• 『白孔雀』、1920年。 (岩波文庫で再刊、2013年10月)• 水谷まさる共訳『世界童謡集』、1924年。 (百科文庫で再刊、1991年) 童謡• 『』(『赤い鳥』1918年11月号)• 『西條八十 名作童謡西条八十…100選』、上田信道編(、2005年) 歌謡曲(流行歌)• 「」(作曲:、歌唱:、1928年)• 「」(作曲:、1929年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:、1929年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)• 「の唄(明烏編)」(作曲:中山晋平、歌唱:、1930年)• 「」(作曲:、歌唱:、1930年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)• 「の唄」(作曲:、歌唱:、1931年)• 「」(作曲:、歌唱:、1931年)• 「節」(作曲:松平信博、歌唱:徳山璉、1931年)• 「」(作曲:、歌唱:、1931年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)• 「」(作曲:松平信博、歌唱:徳山璉・四家文子、1932年)• 「」(作曲:、歌唱:、1932年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:・、1933年)• 「佐渡を想えば」(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)• 「サーカスの唄」(作曲:、歌唱:、1933年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:、1933年)• 「」(作曲:、歌唱:ミス・コロムビア()、1933年)• 「」(作曲:、歌唱:、1934年)• 「勝太郎子守唄」(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)• 「花言葉の唄」(作曲:、歌唱:松平晃・、1936年)• 「」(『』の元歌、作曲:、歌唱:、1936年)• 「戦友の唄」(『』の元歌、作曲:、歌唱:、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:・ミス・コロムビア、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)• 「」(作曲:竹岡信幸、歌唱:、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:ミス・コロムビア、二葉あき子、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:淡谷のり子、1939年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・、1939年)• 「」(作曲:古関裕而、歌唱:不明、1939年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:・二葉あき子、1940年)• 「」(作曲:奥山貞吉、歌唱:・二葉あき子、1940年)• 「(建設の歌)」(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・・渡辺はま子、1940年)• 「」(作曲:、歌唱:、1941年)• 「」(作曲:、歌唱:李香蘭、1941年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)• 「」(作曲:古関裕而、1941年)• 「」(作曲:古賀政男、1941年)• 「」(作曲:古賀政男、1942年)• 「」(作曲:山田耕作、1942年)• 「」(作曲:古賀政男、1942年)• 「」(作曲:古関裕而、歌唱:藤山一郎、1942年)• 「」(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)• 「」(作曲:、歌唱:渡辺はま子、1942年)• 「」(作曲:佐々木俊一、1943年)• 「」(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・、1943年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)• 「」(作曲:、歌唱:菊池章子、1943年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:・、1946年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)• 「恋の曼珠沙華」(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:・加藤雅夫、1949年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)• 「越後獅子の唄」(作曲:万城目正、歌唱:、1950年)• 「角兵衛獅子の唄」(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:、1952年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:、1952年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:、1952年)• 「ひめゆりの塔」(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:、1955年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:、1955年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)• 「あゝ藤原湖」(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男・奈良光枝、1955年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:、1956年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)• 「」(作曲:、歌唱:、1961年)• 「」(作曲:、歌唱:、1966年)• 「」(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)• 「」(作曲:、歌唱:美空ひばり、1967年)• 「乙女はいつか星になる」• 西條八十の遺作にが作曲したもので、1972年、ツームストーンズ(メンバー:川崎弘、尾崎高志、佐々木久美子、司寛)の歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。 発売のがデビューシングルとして上記の曲をカバー。 その後に「西条八十生誕100周年記念曲」として(元乙女隊の松原あかねが改名)がカバーしている(作曲者としてクレジットされているは西田陽一の別名)。 「人間の証明のテーマ」(作曲:、歌唱:、1977年)• 映画「」のテーマ曲。 西條八十の原詩をジョー山中が英訳して歌った。 「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は「柳水巴」作詞とされているが、これは西條八十の変名である。 小説 (大正13年)3月「」読みきり『はかなき誓』から、(昭和35年)11月「」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。 『人食いバラ』 (復刻)、2003年、解説• 『西條八十集 人食いバラ 他三篇』 〈少年少女奇想ミステリ王国1〉戎光祥出版、2018年。 編 校歌・社歌 「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品• 『第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)• 『登別市立登別温泉小学校(北海道)校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『』校歌• 『(千葉県)園歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『高岡市国吉小学校校歌』• 『北海道立校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『世田谷区立経堂小学校校歌』• 『私立桜丘中学・高等学校校歌』• 『近江実習工業学校校歌』• 『平和生命保険株式会社 社歌』• 『校歌』• 『校歌』 未収録作品には、• 『校歌』(「作詞」とされているが、西條が大幅に加筆改作を行っている)• 『町田第一小学校校歌』• 『々歌』• 『いわき市立久之浜第一小学校校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『大多喜町立大多喜小学校校歌』• 『社歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『常総市立水海道中学校校歌』 軍歌・戦時歌謡• 『憧れの荒鷲』• 『荒鷲慕いて』• 『総進軍の鐘は鳴る』• 『打倒米英』• 『壮烈特別攻撃隊』• 『空の軍神』• 『陥としたぞシンガポール』• 『若鷲の歌』• 『同期の桜』• 『戦友の唄(二輪の桜)』• 『さくら進軍』• 『大航空の歌』• 『そうだその意気』• 『祖国の護り』• 『』 伝記• 上村直己 『西條八十とその周辺 論考と資料』(近代文芸社 2003年)• 『流行歌 西條八十物語』(、2004年)• 第18回記念・大衆文学賞(評論・伝記部門)を受賞。 新版・(2011年)• 『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝 西條八十 』(、2004年)• 斎藤憐 『カナリア 西條八十物語』(而立書房、2000年)• 『西條八十』(、2005年)。 新版・中公文庫、2008年• 筒井清忠ほか『西條八十と昭和の時代』(選書、2005年)• 『父西條八十』(、1978年)• 新版改題 『〈かなりや〉をつくった西條八十 父西條八十』(ゆまに書房、1998年)• 西條嫩子 『父西條八十は私の白鳥だった』 (文庫 1990年)• 『父・西條八十の横顔』(西條八峯編、風媒社、2011年) 検索: 最近の投稿• 最近のコメント• に 宮崎計実 より• に yamamoto より• に yamamoto より• に 上部一馬 より• に 渋谷進 より アーカイブ• カテゴリー• メタ情報•

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