胸 を なでおろす 意味 慣用 句。 中学受験に頻出の慣用句一覧TOP100【2020年最新版】|中学受験教育ナビコ

慣用句一覧

胸 を なでおろす 意味 慣用 句

「 9 肩 」 からつづく。 胸(胸) 43. 胸がいたむ 痛心tong4xin1=ひどく悲しむ 伤心shang1xin1=悲しむ 44. 胸がおどる 激动ji1tong4=高ぶる 兴奋xing1fen4=興奮する 45. 胸がいっぱいになる 某种感情mou3zhong3gan3qing2 喜悦xi3yue4,悲伤bei1shang1,寂寞ji4liao2等 涌上yong3shang4 心头难以抑制xin1tou2nan2yi3yi4shi4 =何らかの感情が心に湧いて抑えられない 46. 胸をなでおろす 放下心来fang4xia4xin1lai2=心を休める、リラックスする 松一口气song1yi4kou3qi4=一息緩める 48. 「胸をはる」という身体動作は、無意識的であれば威勢を示す 情動反応の成分が強く、意識的であれば本人が主体性をもって自信を示す 感情表現の成分が強い。 日本語の「胸をはる」は後者である。 一方、その中国語訳の「胸有成竹」は、成算のメタファーである成長した竹が胸中にある、という言い方で、成算有りとするまでは意識的であるが、成算をもったゆえに意識的に胸をはるとは言っていない。 成竹で胸が張り詰めたような状態になるのであって、それは前者と言える。 おそらく「充满自信」の自信が充満した結果の胸の膨張感覚が類似しているから、中国人には「胸有成竹」と「充满自信」に隣接性が感じられるのかも知れない。 日本語の場合、 「胸をはる」の「はる」は、「肩肘をはる」から「意地をはる」「向こうをはる」までの「はる」と同様に、本人の主体的な意識を前提にしてその強さを強調するニュアンスがある。 一方、 「期待に胸を膨らます」の「膨らます」は、本人が意識して胸を「膨らませる」のではなく期待した結果、無意識的な 身体反応として「膨らむ」というニュアンスがある。 これは、期待が充満した結果の胸の膨張感覚だが、同じくどきどきするよいことが起きる予感を得て興奮している様子である「胸が高鳴る」「胸が躍る」の身体感覚でもある。 胸の膨張感覚が共通する中国語の「胸有成竹」と日本語の「期待に胸を膨らます」だが、両者には本質的な違いがある。 「胸有成竹」の語源は、竹を描く時に既に心にちゃんとした竹のイメージがある、ということであり、胸に充満するのは、主体性の能動的な発揮によるイメージだった。 胸の膨張感覚は主体的意志の成果と言える。 つまりは、胸に充満するのは <意>である。 そしてその根底には <心身二元論>がある。 <心身二元論>には、2通りある。 1つは、心がAであることが原因となって身体がBであるという結果が生じるという 因果律。 いま1つは、心がAである時、身体はBであるという 共時性。 <意>という非身体的なものが充実する時、胸の膨張感覚という身体的なものがある、のは 共時性である。 一方、「期待に胸を膨らます=膨らむ」で胸に充満するのは <情>である。 期待は、主体性の能動的な発揮というよりも受動的な発揮がまさっている。 胸の膨張感覚は主体的意志の成果とは言えず、期待と同時に生起した 身体反応と言える。 日本人はこうした心と身体の同時の反応を <情>として渾然一体に捉える傾向がある。 そしてその根底には <心身一元論>がある。 非身体的なものと身体的なものの渾然一体である <情>が充実する時、胸の膨張感覚は身体的であると同時に非身体的でもある。 それは、 因果律と 共時性が未分化の 縁起に他ならない。 <心身一元論>をとるか、 <心身二元論>をとるかで、 「主体性」という言葉の概念からして変わってくる。 <心身一元論>では、 「主体性」は「心と身体が一体化した心身」にあるということになる。 ( 日本語においては、「胸」と「腹」がこの「心身」の中核となっている。 「身」に重心をおけばそれは「心」の容れ物となり、「心」に重心をおけばその状態を「身」が反映する。 英語においては、この「心身」に近しいのは、心であり心臓である「heart」であり、部分的な <心身一元論>の残滓をみることができる。 ) <心身二元論>では、 「主体性」は「心=精神」のみにあるとされてきた。 その上で心理学が言うように、 「心」には意識と無意識、顕在意識と潜在意識があるということになる。 ( 英語においては、心臓「heart」と頭「head」頭脳「brain」がこの「心=精神」の容れ物ないし発生場になっている。 ) 話がややこしくなるのは、欧米人からすると、前者が東洋的で、後者が西洋的と捉えられることだ。 同じ東洋的でも、日本人の <心身一元論>と中国人のそれは違う。 ざっくり言えば、日本人はすべての根底に自然( 縁起)に捉えて <心身一元論>をとり、中国人はすべての根底に気( 共時性)を捉えて <心身一元論>をとるのだが、この違いが欧米人には分かりにくい。 欧米人はすべての根底に創造主との関係性( 因果律)を捉えて <心身二元論>をとる。 その視座からすると同じに見えてしまう。 しかし、すべての根底に自然を捉えて人間が自然に従うことをよしとする日本人からすると、中国人がすべての根底に気を捉えて人間(皇帝)が天意を得て自然を改変しうるとすることは、欧米人が自然を未開として人間が征服制御すべき対象とする <心身二元論>とさして変わらぬと感じたり、その中国的な潜在を認めることになる。 それは、 日本人の<部族人的な心性>をベースとして温存して形成してきた<社会人的な心性> (その発想思考の特徴は 縁起にのっとった <情>起点) と、 中国人の<部族人的な心性>を捨象したり限界づけて形成してきた<社会人的な心性> (その発想思考の特徴は 共時性にのっとった <意>起点) との違い に由来する。 <部族人的な心性>では、 自他の未分化性や 人間と自然の未分化性があり、心と身体が一元的であることを超えて、 心と身体と自然、自己と他者、そうしたすべてが一元的である。 <社会人的な心性>を形成するにあたり、こうした<部族人的な心性>をベースとして温存した日本人と、捨象ないし限界づけた中国人とでは大いに違ってくる。 中国人はこれとは対照的に、自然から人工的に漢方薬を抽出して処方を体系化したり、自然の食材も医食同源の思想として体系化し、人間の中の自然を制御することで健康を保ち病気を治癒した。 日本人の<部族人的な心性>をベースに温存した<社会人的な心性>にとって、自然は適応すべきものだったのに対して、 中国人に<部族人的な心性>を捨象ないし限界づけて<社会人的な心性>にとって、自然は人間が制御すべきものだった。 日本人の <心身一元論>は、自然に適応する自然の一部として人間がありえて、その人間に心があるように神である自然にも心がある、自然の心に人間の心はそわねばならない、そういう循環論的な物語である。 一方、中国人の <心身一元論>は、自然も人間もそして宇宙も陰陽五行の「気」の働きとして存在している、そういうエネルギー論的な体系である。 その体系が 共時性にのっとったコト分けによったことが欧米人の <心身二元論>との違いを生んでいる。 欧米人の体系は一神教や科学の 因果律にのっとったコト分けによった。 「心」という主体性とその発揮対象である「身」という自然、この捉え方は、前者を原因、後者を結果とする捉え方でもある。 中国人の <心身一元論>を体系立てる 共時性 欧米人の <心身二元論>を体系立てる 因果律 の対照は明らかだが、ともに<部族人的な心性>を捨象ないし限界づけた<社会人的な心性>であるという点では極めて近しい、と言える。 日本人の <心身一元論>を体系立てることなく成り行きに身を任せ悪しきことはただ水にながし穢れを払い清めることにこだわる 縁起 それは、<部族人的な心性>をベースに温存した<社会人的な心性>であり、 この点で、日本人と中国人・欧米人の隔たりの方が、中国人と欧米人の隔たりよりも圧倒的に大きい。 このことは、トータルに身体語慣用句の有り方を比較検討しても俯瞰できるだろう。 さらに話がややこしくなるのは、 西洋的な <心身二元論>では伝統的に、主体性は「心」にのみある、とされてきたが、 現代では、 「身体」にも主体性がある、 身体感覚に「身体」の主体性を捉えるならば、自己と他者を一体的に捉えることができる、 とする心理学が台頭してきたことである。 トランスパーソナル心理学のジェンドリングが展開するフォーカシングの原理などである。 たとえば身体に痛みがある場合、西洋医学は何かの病気という原因があって症状として痛みという結果が生じていると 因果律を前提に診断したり治療する。 ところがトランスパーソナル心理学では、痛みというフェルトセンス(身体感覚)に主体性を捉えてフォーカスしていくことで起こっている現象の本質を感得する。 すると感得したという展開自体のためにフェルトセンスが変化しはじめ現象が変容する。 これはAがある時Bがある、が、A'がある時B'があるに変容した訳だから、 共時性を前提にしている。 そして変容は、フェルトセンスへのフォーカスやその共有という展開によってフェルトセンスが変容したことに応じている。 それは、そのようにする 縁がなければ生じてないことであり、 縁起にのっとっていると言える。 (何か特異な話をしているようだが、まったくそうではなく論題話題としては一般化している話だ。 たとえば、学究的なビジネスパーソンに知られる「U理論」、そして一般的なスピリチュアリストが信じる「引き寄せ理論」などもほぼ同じパラダイムの思潮として捉えることができる。 ) ここではトランスパーソナル心理学を詳しく解説する余裕はないが、象徴的な事例を上げたい。 たとえば、人種、民族、宗教などを理由とした戦争や紛争をともなう対立があったとして、その代表たちが一堂に会して徹底的に言い合いなり話し合いなりをしていく。 すると対話の内容としてお互いへの理解が深まろうと深まるまいと、それに関係なくフェルトセンスが発生し共有されていく。 それに主体性を捉えてフォーカスしていくと、理屈ではなく身体で感得する本質的な相互承認や共生可能性が浮上してくる。 これをプロセスワークといい、プロセス指向心理学の手法である。 話がややこしいのは、 こうしたプロセスワークは、 <心身一元論>の<部族人的な心性>を踏まえる部族社会や、それをベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきた日本人の<世間>では、日常的にごくふつうの集団対話として行われてきた ということである。 具体的には、長老的なまとめ役がいて集団が車座になってする話し合いとか、いろいろな<世間>の寄り合いとか、ホンダの有名な集団対話の「わいがや」とかである。 たとえば、日本人のビジネスマンが重視してきた「飲ミニケーション」なるものも、もともとは意見の相違を前提した上で、フェルトセンスの共有を信頼関係の土台として形成するものだった。 意見の相違のある相手とも、酒を酌み交わしながら胸襟を開いて(=思っていることをすっかり打ち明けて)話し合ってみるとけっこう納得できることがある、なんて展開が期待されて実際にあったものだ。 また、あいつとは意見は合わないが馬が合う、とか、あいつは人間としては信頼できる、といった暗黙知や態度能力の次元での人間関係が確認され構築されもした。 日本人にとっては <情>も <心身一元論>であるから、これは日本人の特徴である <情>起点の発想思考の、集団対話版の展開に他ならない。 バブル期までの本来の日本型経営の美質が活性化していた時代の「飲ミニケーション」と、21世紀ももはや10年代となる今のそれとは大きく違う。 まず本来の日本型経営の会社が 共同体であったのは遠の昔で、今の会社は外国の会社に比べて共同体的だと言われる会社でも大枠としては 機能体でしかない。 そのようなかつての会社が共同体だったという前提の上で、 ・会社や職場は建前として <知>起点 ・退社後の飲み屋は本音として <情>起点 という場の違いについての暗黙の了解があった。 会社は事業部門別で役職地位の上下があってその枠組みで集団対話が展開する。 しかし、退社後の飲み屋では同じ会社の仲間として異なる事業部門の者でも役職地位の上下をとわず語り合った。 意見や専門が異なってもなにか気の合う者同士、なぜか肌の合う者同士が自然発生的に交流を深めていった。 それは会社の派閥の延長や、職場の自動延長とは真逆のものだった。 バブル崩壊以降のある時期から、若い社員が「飲ミニケーション」を嫌うようになった。 それは会社の実態が 機能体になったにも関わらず、 共同体だった頃の悪しき柵だけが残存したからだと思う。 悪しき柵というのは、会社で威張っている奴が飲み屋でも会社の肩書きで威張ってるみたいなことである。 そういう奴相手の「飲ミニケーション」が嫌われていたのは昔からだ。 だが当時の共同体的な職場には、退社後にそういうつまらない輩を無視しても仕事に支障がでたり職場で浮かない、というマトモな寛容があったのである。 本来の日本型経営の美質が活性化していた時代の「飲ミニケーション」の醍醐味、楽しさはとても創造的なものだった。 会社の枠組みを脱した創造的な人材交流が <心身一元論>の <情>起点で活性化するものだった。 本来の日本型経営が一般化したのは戦後昭和である。 「飲ミニケーション」の醍醐味、楽しさは、総じて少年期に「群れ遊び」をした世代の正にその経験者が主導するものだった。 終戦直後までは子供が家業の労働力とされて遊ぶ余裕がなかった。 オイルショック以降、塾通いやテレビゲームが一般化した後は勉強や稽古事や家内遊びに時間をとられ、学齢の違う近所の子供たちが戸外で集団遊びする機会はなくなった。 身体を使った集団遊びを可能にする空き地のような遊び場もなくなった。 以上の狭間の時代に少年だった世代が「群れ遊び」をした。 この「群れ遊び」には<部族人的な心性>が活発に息づいていた。 たとえば、どんな遊びをするかは遊ぶ環境と遊ぶメンバーの構成を考慮して工夫された。 年長の子供がリーダーとなり年少の子供に役割を分担させ幼児の安全の確保にも目配りした。 遊び仲間はお互いにそれぞれの性格や得意不得意や好き嫌いを知っていて役割分担は機能論的ではなく人間論的だった。 何もできないが参加だけはしたい幼児には、ルールにはない役割を設定して見習いをさせた。 これを近所の遊び仲間の子供たちが成長しながら順送りでやっていった。 「飲ミニケーション」の醍醐味、楽しさは、戦後昭和の「群れ遊び」世代が大人になって仕事において会社の枠組みを超越して展開した「群れ遊び」だった。 エズラ・ヴォーゲルがその著「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で注目した「勉強会」も、その本質は個人の資格で多様なビジネスパーソンが集った「群れ遊び」だった。 「群れ遊び」も「飲ミニケーション」も <心身一元論>の<部族人的な心性>が濃厚で、その構造がそのまま、日本型経営の共同体における <情>起点で活性化する日本人ならではの集団対話に反映していた。 これらがどう絡み合っているのかは、 <心身一元論>を踏まえるのか、 <心身二元論>を踏まえるのか、そしてそれはどんな <心身一元論>ないし <心身二元論>なのかで違ってくる。 言語におけるこの違いは文化差の根源であると言ってもいいだろう。 たとえば私たちは日本語で、痛み、ひとつとってももこういう言い方ができる。 つまり、 一つの言語として心と身体についてのパラダイムが文化の根源としてあると同時に、 ある人が母国語を自由自在に操る時、時々に相応しい心と身体についてのパラダイムを言葉遣いとして選択してもいる ということである。 しかしそれでも、 言語ごとの身体語慣用句の群としての有りようを比較文化論的に検討することで、言語ごとの特徴的構造と言語の違いを超えた普遍的構造とを抽出していくことができる。 ただし私のやり方は、とても言語学的な学術とは程遠いものである。 関心をもつ人々の間で一般的な知識になっている文化論や心理学を踏まえた、私なりの直感にもとづいた推量や推理でしかない。 ただ、もしそれに好ましい所があるとすれば、誰もが知っている周知の知識や知れば理解できるシンプルな知識を組み合わせて仮説を推論している点だろう。 そういう意味で決して専門的な知識の掘り下げをしていない雑学に過ぎない。 なぜか。 英語は <心身二元論>で「心」も「身体(部位))」も主語になる。 だから、私は身体(部位)をもつ、その身体(部位)が痛い、と言う。 それを重ね合わせて、私は痛い身体(部位)をもつ=私は身体(部位)の痛みをもつ、と言うことになる。 しかし日本語は <心身一元論>だから、身体(部位)が痛い、と言えばそれは私が痛いことになる。 また、身体(部位)の痛みがある、と言えばそれは私に痛みがあることになる。 よって私たちはたいてい。 頭痛の場合、頭という身体語は 「リアルな頭」そのもので比喩ではない。 しかし日本語では、「頭痛」が「悩み」の比喩で、「頭が痛い」が「困り果てる」の比喩である場合がある。 「悩み」の症状は「頭痛」だけではなく、「困り果てる」の症状も「頭が痛い」だけではない。 よって一部の症状で情緒性の全体を比喩しているシネクドキ(提喩)となっている。 「身」の部分で「心身」の全体を比喩しているが、それは、日本語は <心身一元論>だから成立しやすいと言える。 これと同様に、 「胸が痛い」も、気管支炎ならば 「リアルな胸」がリアルに痛いだけの話だが、 「胸が痛い」が「心苦しい」の比喩である場合がある。 身体語慣用句は、 「リアルな身体部位」のリアルな動作や状態を、比喩関係が隣接性であるメトニミー(換喩)としているのか、比喩関係が類似性であるメタファー(隠喩)としているのか、解釈はいろいろにできる。 検討には、語源にまで遡る造語感覚を解釈する方向と、話し手の意図からしてどちらとして使っているかを解釈する方向がある。 ここでは、後者をとりたい。 つまり、同じ身体部位を使った身体語慣用句群の中から、話し手がその意図によって言葉遣いを選択している可能性を解釈したいと思う。 たとえばこういうことである。 「胸が締めつけられる」と言えば、胸のリアルな状態を強調しているのだから、話し手は、そんな身体感覚になるほどの「心苦しさ」だということに力点をおくべくこの言葉遣いを選択している。 単に「胸が痛い」であれば、聴く者は「心苦しい」との類似性を感じるのみでメタファー性が強い。 しかし「胸が締めつけられる」であれば、聴く者は具体性が加わった分、より具体的な連想を誘われる。 たとえば「食事が喉を通らない」のではないか、「呼吸が浅く肩を落としている」のではないか、といった隣接性(部分全体相関)を感じるからメトニミー性が強い。 言語学的な専門知識によらなくても常識で検証できるのは、語源や造語感覚の解釈ではなく、このような話し手の言葉遣いの選択目的とその達成度の解釈だと思う。 「胸が裂ける」よりも「胸がはり裂ける」の方が連想する身体感覚はより強烈である。 ただ、誰もリアルに胸が張り裂けた経験はないから、両者ともに仮想であり、仮想に「心苦しさ」の類似性を捉えたメタファー使いである。 注目すべきは「裂ける」が「はり裂ける」になってより具体的な連想を誘われることだ。 何かが充満して決壊し溢れ出る身体感覚が、たとえば「涙を我慢できない」だろう、「嗚咽を我慢できない」だろう、といった隣接性(部分全体相関)を感じるからメトニミー性が強い。 「胸が騒ぐ」よりも「胸騒ぎがする」の方が連想する身体感覚により情緒性が含意される。 「胸が騒ぐ」とは、不安や期待などで心が落ち着かない思いがする、ことである。 だから「胸が騒ぐ」では胸がどう騒ぐのかが分からない。 不安でネガティブにか、期待でポジティブにか分からない。 だが「胸騒ぎがする」は不安というネガティブな情緒性が前提だから、ネガティブな身体反応の具体的な連想に直結する。 たとえば、「びくびくして落ち着かない」のではないか、「冷や汗をかいている」のではないか、といった隣接性(部分全体相関)を感じるからメトニミー性が強い。 期待で心が落ち着かない時には、びくびくしないし、冷や汗もかかない。 「胸が騒ぐ」では、そうした隣接性が感じられず、より漠然とした類似性を感じるメタファー性にとどまる。 それは、 「心が沈む」=「heart sink s 」 「心が重い」(気がかりなことや不安などで、気分がひきたたない)=「heavy heart」 ex. Light purse makes a heavy heart. 「心が狭い」(考えが狭い、人を受け入れる心がない)=「narrow minded」 などなどあり、 日本語の「心」と英語の「heart」でまったく同じ表現と意味の身体語慣用句を見出せる。 それは、人類普遍の<部族人的な心性>のプリミティブな身体語の用法なのだろう。 たとえば、 ・どうやらまだこの世界に<心残りがある>ようだな。 ・俺はミドルワールドで 現世の<心残り>を歌って晴らしているのさ。 ・何かきっかけがあれば<心残り>を思い出せるかもしれない。 たとえば日本語の「心」は、感じたり思ったり考えたりする「心」だけでなく、「心」が感じたり思ったり考えた内容の核心や経緯を指す場合がある。 その<心>は? の<心>である。 たとえば日本語の慣用句では、「気持ち」という言葉遣いで「気持ち」の内容を前提している場合がある。 ・お<気持ち>だけ有難く頂戴いたします。 の<気持ち>である。 「気持ち」の英訳は一般的に「feeling」だがこの<気持ち>の英訳としては具体的な「気持ち」の内容に踏み込まねばなるまい。 ・Thank you for your <kind attention>. That's enough to make me happy. などと、<お気持ち>を<お気遣い>に置き換えたりする。 「胸」に関連した話としては、 「むね」という大和言葉が、その旨(むね)伝えました、の旨(むね)と同じことが気になる。 主旨のことである概ね・大旨(おおむね)の旨(むね)でもある。 細部には触れず,大づかみに物事をとらえるさまだが、「頭」で細かくチェックするのではない骨太な概要を「胸算用(むなざんよう)」することではなかろうか。 「胸算用」とは、心の中で見積もりを立てることで、胸勘定 むなかんじょう 、むなづもり。 むなざんとも言う。 旨(むね)は、「胸算用」の結論とは言えまいか。 だとすれば、ここには、「心」が感じたり思ったり考えた内容を指す場合と同じメカニズムがあることになる。 以上、 「リアルな胸」がどうしたという状態、それもリアルにありうる状態のメトニミー使いの言い回し( <現実換喩系>)を中心に*検討してきた。 冒頭例解の「胸がいたむ」「胸がいっぱいになる」「胸がすく」「胸がおどる」、 本論で検討した「胸をはる」「(期待に)胸を膨らます」「胸が高鳴る」「胸が騒ぐ」などである。 (*「胸が裂ける」「胸が張り裂ける」などは <仮想隠喩系>。 「胸算用」の結論とする旨(むね)も抽象的な概念を意味するので <現実換喩系>の比喩ではない。 ) 「リアルな胸」をどうするという動作、それもリアルにする動作のメトニミー使いの言い回し( <現実換喩系>)の検討は割愛した。 冒頭例解の「胸をなでおろす」以外にも、「胸に手を当てる」などたくさんある。 その仕草は文化差のある感情表現ではなく、人類普遍の情動反応のボディーランゲージであり、「胸」を用いた身体語慣用句に言語化したかどうかで文化差が生じる。 ちなみに、「胸をなでおろす」の中国語訳は「放下心来(心を休める、リラックスする)」「松一口気(一息緩める)であり身体語慣用句ではない。 英語訳は「to be relieved (安心した、解放された)」「to feel relieved」でありこれまた身体語慣用句ではない。 この文化差は、日中の<心身一元論>の違い、日欧の<心身一元論>と<心身二元論>の違いによると思われる。 以下、 「ヴァーチャルな胸」をどうするという動作のメタファー使いの言い回し( <仮想隠喩系>)を中心に検討したい。 「胸の内を明かす」という言葉があるように、日本語では「胸」は「心」の容れ物および発生場と想定されている。 この「心」の容れ物および発生場である「胸」は 「ヴァーチャルな胸」である。 ちなみに「胸の内を明かす」の中国語訳は「说出心里话(心の中の話をする)」であり、身体語を用いる慣用句は見当たらない。 「胸の内」に近しい言葉として「心胸xin1xiong1」があるがニュアンスがちょっと違う。 日本語の「胸の内」そして日本語の「心胸(むね、こころ、胸中)」が「内心思っていること」も意味するのに対して、中国語の「心胸」は日本語の「内心」に相当する心理空間を意味している。 「(2)度量」という意味もあり、心胸狭隘的人(度量がせまい人)、宽广的心胸(広い度量)といった使い方をする。 これも心理空間の大小を意味している。 「(3)志、抱負」という意味があり、他是个有心胸的人(彼は気概のある男だ)といった使い方をする。 日本語の「胸の内」が「内心思っていること」を意味することに重なってくるがが、超広い度量をもつことから超ポジティブな内容に限定されてしまう。 このように日本語の「胸」「胸の内」と中国語の「心胸」を比較検討すると、その微妙だが決定的な違いから、日本語の身体語の「胸」の特徴が見えてくる。 それを具体的に象徴するのが「胸三寸」という慣用句だ。 「胸三寸」も胸の中のことであり、心の中に持っている考えのことである。 「胸三寸におさめる」「胸三寸に畳む」で「心の中にしまい込んで、顔にも言葉にも出さないでいる」という意味になる。 「事の成否は彼の胸三寸にある」 で、彼の心の中に持っている考え次第という意味になる。 「胸三寸」が象徴する日本語の身体語の「胸」の特徴とは何か。 それは、「胸」が「心」という感じ思い考える機関の容れ物である心理空間を意味するだけでなく、「心」という思いや考えの発生場である心理空間も意味し、さらにそこで発生し収納された思いや考えも意味する、ということである。 たとえば、私たちは「胸に手を当ててやましいことがないか考えてみろ」などという。 それはダブルミーンングである。 やましい思いや考えが発生して収納されてはいないか点検しろ、という意味と、やましい思いや考えを寄せ付けない良心という機関を作動させろ、という意味である。 このような「胸」は、単なる「場所」ではなくて何かが生まれ蓄えられる「場」でありさらに「場」が導く思いや考えでもある。 これは、まさに日本型の<部族人的な心性>由来の <心身一元論>の実相を象徴している。 トランスパーソナル心理学のジェンドリングが展開するフォーカシングは、 身体部位を、単なる「場所」ではなくて何かが生まれ蓄えられる「場」でありさらに「場」が導くフェルトセンス(身体感覚)として想定する ものだった。 「胸」が導く感じ思い考えが、「頭」で考えることよりも身体感覚や身体知を重視するとすれば、日本型の<部族人的な心性>由来の <心身一元論>の実相は、そもそもフォーカシングを内蔵するものだったことになる。 中国語で「心の中に持っている考え」のことは、心里、心头、心灵、心思、心情など「心」を使って表現される。 つまり身体語使いをしない。 このことをもって、中国語には <心身二元論>が潜在している、とも言えるのかも知れない。 ちなみに「胸の内を明かす」の英語訳は「get something off your chest」である。 ここで「chest(胸)」は、何かが生まれ蓄えられる「場」ではあるが「場」が導いたものは意味しない。 この点では英語と中国語はそもそも文法が似ていることも手伝ってとても似ている。 「心の中に持っている考え」の意味で「胸」を用いることはやはり日本語の特徴と言える。 なぜ「胸」なのか? 「胸」に「心臓」そして「heart」があるのだから大した違いはなさそうだが、「胸」のほとんどを占めるのは呼吸器官である「肺臓」である。 やはり日本人は、 中国人のように 共時性にのっとって体系的に「気」を重んじるのではなく、 縁起にのっとってアニミズム的に「呼吸」を重んじ、それと「言霊」を隣接させる<部族人的な心性>をベースに温存して<社会人的な心性>を形成してきたことが、言語の形成にも反映したと考えられる。 それを一言で言えば、 「身体感覚をともなった情緒性」と 「情緒性をともなった身体感覚=態度」を重視する日本型の <心身一元論> に他ならない。 「胸の内」「胸に秘める」 「胸に一物ある」「胸におさめる」 「胸に聞く」「胸に応える」 などなどの身体語慣用句の「胸」を「心」に置き換えて、 「心の内」「心に秘める」 「心に一物ある」「心におさめる」 「心に聞く」「心に応える」 などなどとしても全く同じ意味を成すこと、 実際にそういう使い方も話し手である私たちがしていることがその証左である。 しかし、「胸」を使うことと、「心」を使うことには重大な違いがある筈だ。 身体語使用と身体語不使用との大きな働きの違いを探る課題は項を改めて検討したい。 ここでは、「胸」を用いた比喩のネットワークの有りようと働きにだけ注意を払っておく。 具体的な「胸」という身体語を用いた比喩のネットワークには隣接連携の具体性がある。 一方、抽象的な「心」ではそれが希薄になってしまう、ということがある。 「胸を借りる」は相撲などで上位の力士に稽古の相手をして もらうことであった。 「胸を貸す」「胸を借りる」というぶつかり稽古である。 つまり、そもそもは力士同士が 「リアルな胸」を合わせることのメトニミー使いであった。 そして、そういう力士の練習の有り方が、何らかの競い合いの場で自分より力量のある者と対決することとの類似性を捉えたメタファー使いに展開した。 こうした比喩のネットワークが隣接関係の具体性をもって形成されていくことは、やはり具体的場面を身体感覚的にかつ視覚的に連想させる身体語慣用句だから可能になっている。 つまり、 身体語は、具体的な身体感覚に加えて視覚的イメージを活性させ、それらを想起させる場とも連携して、話し手と聞き手の感情移入を促し想起による神経事象を同期させる働きがある と考えられる。 大相撲の世界では「心技体」の修養が言われる。 その語源は、明治44年に出版された古木源之助著 『 柔術独習書 』 の中の一節とするのが有力である。 「第二章 柔術の目的」の「柔術は如何なるものや」で 「第一、身体の発育 第二、勝負術の鍛錬(即ち護身の用) 第三、精神の修養」 と出て来るという。 そして、 「以上三項の修行法は相互関連して居れるを以て単に一つの方のみを研究すべきものにあらず」 と続くという。 「お互いに関連するものだから、一つだけを取り上げて研究するものではない」 「心技体をバラバラにではなく、一つのものとして修行していくものである」 と解釈されている。 大相撲ファンである一般国民は、そこまでの専門的な解説はNHKの中継でもされないし正確な理解は持ち合わせない。 しかし、「心技体」が一体化することを大切とする思想については、皮膚感覚で納得して「心技体」の言葉遣いをしている。 それは、それぞれの人生や生活の体験を通じて得た納得と重なるところが大きいからだろう。 ところが、日本人同士では当たり前の良識ともいえる共通感覚が、外国人力士が共有していないことに出合う。 そして私たちは困惑する。 (たとえば、最近ではエジプト人の大砂嵐の「かち上げ」、モンゴル人の白鵬の横綱による「猫だまし」など。 彼らにしてみれば、何でいけないの、という思いだろう。 そして私たち日本人同士でも良し悪しについてどこで線を引くかはっきりとした明示的な合意がある訳でもない。 ) じつは、この困惑している時にこそ、私たち日本人はふだん無自覚的に共有している価値観の、対外的な差異としての特徴をはじめて意識しているのである。 「心技体」をバラバラに捉えてはいけない、 ということは極めて日本人的な発想思考である。 これも、 「身体感覚をともなった情緒性」と 「情緒性をともなった身体感覚=態度」を重視する日本型の <心身一元論> に他ならない。 そしてこの <心身一元論>は、明示知の体系ではなくて、身体知と暗黙知の体系として日本人に共有されている。 「 11 心臓」 へつづく。 私は自分が実際に日本の企業社会でした経験から普遍的な文脈や客観的な法則を導くために雑学する雑学者です。 「コンセプト思考術」も、フリーランスの構想企画者として複数業界で複数大手の仕事をした30代までの体験に基づき40代にノウハウ化、企業や自治体に研修したものです。 40代、様々なプロジェクトのプロデューサーとして集団や組織と関わった経験から、日本人ならではの発想思考や集団独創を肌身で感じとり、50代、それについての仮説を検証すべく科学や歴史を雑学してきました。 還暦になる今年を期に、これも本ブログで整理していきたいと思います。 20世紀後半、戦後日本の企業社会そしてマーケティングの実際はどんなものであったか、一般的に確かに息づいていた日本型経営や日本人ならではの集団独創とは実際の現場としてはどんなものであったか、ご興味ご関心のある方におつきあいいただければ幸いです。

次の

「胸をなでおろす」の意味とは?類語、使い方や例文を紹介!

胸 を なでおろす 意味 慣用 句

胸に手を当てるという慣用句の意味 「胸に手を当てて考える」というのは、 冷静になってよく考えてみるということを表現する慣用句です。 胸に手を当ててみると冷静に考えられるのかどうかわかりませんが、冷静になるためには心臓の動きが激しい状態ではなく、正常な脈を打っている時じゃないと冷静とは言えません。 冷静な状態になるためには、自律神経の副交感神経が優位な状態になっていないといけません。 しかし緊張していたり、ストレスを感じている時には交感神経が優位になってしまいます。 交感神経が優位になると、脈拍が早くなるのです。 胸に手を当ててみると、ドキドキしているか、正常なリズムで心臓が動いているのかわかります。 まずは 一度きちんと落ち着いて、胸に手を当てながら心臓の動きが落ち着くまで待ってから冷静になって考えてみようというのが「胸に手を当てる」という慣用句の意味なのです。 怪しまれる時に「胸に手を当てて~」と使う理由 何か怪しいことがあるのに、とぼけている人に対して 「胸に手を当てて考えてみなさい!思い当たることあるでしょ!」なんて使うことがありますよね。 胸に手を当てるとは、冷静になって考えてみるということなので、怪しいことを隠している時だけに使うわけじゃありません。 でも、何か隠しごとをしている時って 「バレたらどうしよう」って思うだけでドキドキしてしまいます。 そのドキドキはまさに緊張によるストレスで、それは自律神経を刺激してホントに心臓の動きを激しくします。 そんな時に胸に手を当ててみると、この言葉が 後ろめたいことを隠している人に対して使うのにしっくりくることがわかるのです。 自分の胸に訊くのも同じ意味 「胸に手を当てて考えてみる」のと同じ意味で 「自分の胸に訊いてみる」という慣用句があります。 手を胸に当てて自分が冷静かどうかわかるのと同じように、自分の鼓動は耳を押えるとわかります。 しかし胸に手を当てるのも、自分の胸に訊いてみるのも、後ろめたいことや隠し事が無いことを訴えたい時に使うことが多いのも同じですね。

次の

慣用句一覧

胸 を なでおろす 意味 慣用 句

慣用句一覧です。 50音順に並んでいます。 探したい慣用句があれば、表右上の検索ボックスから検索ができます。 慣用句 意味 人の言った言葉じりや言い誤りをとらえてバカにすること。 困らせること。 逃げた足取りが分かること。 痕跡が残っていること。 思っていたよりもお金がかかって足りなくなる。 出費が予算を上回ること。 疲れて足がよく動かなくなること。 人の弱いところにつけ込むこと。 悪い仲間、悪い行いや仕事を辞めて、真面目になること。 よくないことをやめる。 悪い生活態度を改める。 遠くに行くこと。 本来の目的地よりも少し先にいってみること。 他人の成功や昇進の邪魔をする。 また、物事のスムーズな進行を妨げること。 感心して、敬う気持ちが出てくること。 仕事などの途中で、無駄話をして時間を無駄にすること。 怠けること。 驚いて息ができない様子。 はっと驚く様。 経験を積んで、職業や任務などがその人にピッタリあうようになること。 うまくこなしている様。 相手を自分より優れていると認めること。 大勢の人で混雑している様子。 人が多すぎて身動きがとれない状態。 進行、進歩が非常に遅いこと。 腕前を示そうとして勢い込む。 相手とよく気が合う。 いい加減な事を言ったり、したりして、適当にその場をごまかすこと。 一時しのぎ。 事実以上のことを付け加えて、話を大げさにすること。 大勢の人に顔を知られて、勢力を持つようになる。 人気者になること。 名が売れていて無理が通ること。 いろいろな人をよく知っている。 また、多くの人たちと付き合いがある様子。 非常に恥ずかしい思いをすること。 うろたえて顔が真っ赤になる。 相手に恥をかかせること。 不快なことがあって、顔にシワを寄せる。 味方をする。 贔屓する。 肩入れするとも言う。 力を落としてがっくりする様。 対等の位置につく。 レベルが同じ。 味方をする。 贔屓(ひいき)をすること。 緊張したり遠慮したりする必要がなく、親しく付き合える様子。 打ち解けてのびのびと楽に付き合える様子。 無愛想に冷たくもてなすこと。 あとで問題が発生しないように、あらかじめ念を押して強く確認しておくこと。 あまりしゃべらない 秘密を守ってしゃべらないこと。 言いふらさないこと。 言ってはいけないことや隠しておくべきことを、うっかり話してしまうこと。 うまい話に騙される。 最初に話し始める。 口火を切るともいう。 不満の表情をすること。 不満気な態度。 他人の話に横から割り込むこと。 会話を邪魔すること。 仕方なしに本当のことをいう、白状する。 本当かどうか疑問に思う、あることに疑問や不信を感じて、納得、同意できないこと。 関心を持つ。 または深入りすること。 今か今かと待ち遠しく思うこと。 落ち着いて物事に対処すること。 ちらっと聞く。 不確かさがあるが聞いたことがあること。 もうだめだとあきらめて、努力することや行動を辞めてしまうこと。 医者が患者を見放すこと。 相手の素晴らしさに驚嘆して言葉が出ない様子。 非常に感心する様。 他人の真似をして軽々しい行いをしたり、喋ったりすること。 極めて僅かなもののたとえ。 分量や金額がほんの僅かで、とうてい満足できるものではないこと。 程度を軽くみていること。 状態を軽く見ていること。 世話が焼けること。 面倒を見て大切に育てること。 はらはら、ドキドキすること。 自分の力、能力を超えていて処理が難しい。 持て余す。 どうすることもできないこと。 自分の力、能力を超えていて処理が難しい。 持て余す。 どうすることもできないこと。 難しくて、どうにも手のうちようがない様子。 自分の力ではどうにもならないこと。 話し合いの決着をつける。 またはどうしたらうまくいくかを考え、そのようにすること。 関係をなくす。 これまでの関係をなかったことにする。 自分からなにもしないで見ている。 相手が訪れる事を待っている。 同じ目的のために協力する。 扱いきれずに困る。 持て余す。 始末に困る。 才能が人より目立ってくること。 勇気が出ず、尻込みする。 思い切った行動に出られず、どうしようか迷う。 気が進まないでグズグズすること。 とても忙しく、誰でもいいから手伝ってほしい様子。 本性を隠して、人の前でだけおとなしそうに見せかけること。 また、知っているのに知らないふりをすること。 弱音を吐く。 限界だと感じて諦めること。 軽はずみなことを見たり聞いたりして嫌な感じがする。 相手が強すぎたり物事が難しすぎたりして、力が及ばない、全く敵わないこと。 得意になる。 自慢に思うこと。 相手の言うことに、ろくに返事もしないで、いい加減に扱う。 人を軽んじていい加減に扱うこと。 軽蔑して笑うこと。 自慢する。 偉ぶる。 いつものことで、飽きていやになること。 わざとらしい様子が嫌味に思えて不快になること。 目を背けるほど見苦しいこと。 出し抜いてあっといわせる。 予想外のことをして相手を驚かすこと。 悪い考えを持っている。 腹黒いともいう。 怒っている様。 我慢ができない。 我慢の限界を迎える。 覚悟を決める。 決断・決心すること。 相手の考えを知ろうとする。 相手の懐具合を想像すること。 包み隠さずに、本心を打ち明けること。 苦しさ、悔しさなどを必死に耐える様。 苦労する。 大変な状態。 心配のために表情が暗くなること。 心配、不快などで顔をしかめる。 他人の言動を不愉快に感じること。 前のことはなかったことにして和解する。 過去のことを咎めないこと。 せっかくうまくいっていることや仲の良い間柄などに、脇から邪魔をしたり、関係を悪くさせること。 人の身の上のつらさを、自分のことのように感じること。 自分の悪いことをいわれたり、人のいうことが自分の弱点をついていたりして、聞くのがつらいこと。 情報を人より早く手に入れること。 同じを何度も聞かされて、うんざりすること。 聞き飽きてうるさく感じられる。 思いがけないことで、聞き間違いではないかと思ってしまうこと。 他人の話を聞く。 聞こうとする。 相談にのること。 よく注意して聞くこと。 金額や物の数量などをきっちり用意する。 自分の都合だけ考えて他人を顧みない。 自分にいいように考えること。 気に食わないこと。 嫌な感じになること。 今にも絶えそうな息。 今にも命が尽きてしまいそうな様子。 機嫌が悪く、いつもより怒りっぽい状態。 予感がする。 なんとなく心に浮かんでくる、感じること。 穏やかな性格。 おとなしい性格な人のこと。 自分よりも実力が上の者に相手になってもらうこと。 ほっと安心すること。 驚いたり、感心したりして、目を大きく開く。 驚嘆すること。 もののよい悪いを見分ける力がある。 よいものを選び出す力が優れている。 非常に好きである。 夢中になる。 または見分ける力がない。 賢く、際立ってすばしっこい。 すごく近い距離。 すぐ近くにある場所。 度を越してひどいありさまなので見ていられない。 許容範囲を超えていて、これ以上見逃すことができないこと。 非常に可愛い。 見向きもしない。 意外なことに驚く。 信じられないこと起きて、自分の目が正しいのか心配になる。 物事に感動したり、喜んだりしているときの様子。 かわいがって、面倒を見る。 大切に育てる。 じっと注意して見る。 見つめること。 可愛くて、嬉しそうな顔をする。 嬉しさや満足感で笑顔になること。 びっくりして目を大きく開く様。

次の