ハンムラビ法典とは 簡単に。 世界で初めて文明を生んだ国、イラクの歴史っていったいどんなんだろう?!

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ハンムラビ法典とは 簡単に

2016年9月8日 2016年8月24日未明にイタリア中部に起きた[M6. 2]の地震で、294人の死者がでた。 地震で亡くなられた方々だれもが瓦礫に押しつぶされての状況だったが、特に[アマトリーチェ(ローマ北東104Kmの町)]の小学校が倒壊したことに住民の多くが疑問を投げかけた。 この小学校は2012年に補助金を得て耐震基準に沿って改築されたばかりだった。 倒壊したのは明け方だったので子供たちに被害はでなかったもののその建物の管理者側に犠牲者がなかったわけではなく、地震後に「どうしてあの建物が崩れたのか」という疑問の声がわきあがったわけである。 簡単に学校が倒壊したことに周囲の人たちはなぜ疑問の声を上げたかと言うと、7年前の2009年4月にやはりイタリア中部の[ラクイラ]で309人もの死者を出した地震では当該小学校も被害をこうむり、2001年に定めた耐震基準を満たす工事が行われていたからだった。 検察当局は地震後に倒壊家屋全般に関わる過失致死の疑いで捜査を開始した。 2016年8月27日イタリア中央紙の報道によると、この小学校を含めた倒壊・損壊した115棟について、先に定めた耐震基準を満たしているかに調査の重点が絞られたという。 捜査を指揮したイタリア中部の地検検事の一人の記者への談話では、「現場を見たが、業者が己の利益確保のための工費節約のために『規定量のセメントを入れずに砂だけを多く投入したとみられる建物が、軒並み倒壊していた。 もし日本でのような耐震手法で建てられていれば一棟たりとも崩落はしなかっただろう」との事であった。 別のイタリア祇の同じ8月27日付けでは、『崩落した小学校の工事を担当した施工業者は、コーザ・ノストラ(シチリア・マフィア)とのつながり濃厚だ』と報じた。 だが、工事をした不良業者の弁護士は新聞社に「工事は適切だったと確信している」とコメントている。 弁護士は職業柄、黒でも白というのが商売だから驚くことはないが、最初からやる気でやっている手抜き工事に手を染めた企業もまた、最後まで自己の責任を否定した。 そして最後には「全て地震が悪い。 地震さえこなければ当社の『手抜き』などわからなかったのだから」と獄の中でつぶやくのだった。 イタリアの全国汚職対策局は早くから『マフィアが復興事業に潜り込み、利益をあげる危険がある』と警鐘を鳴らしていた。 これは7年前の2009年4月に同じ中部の[ラクイラ]での地震の震災後に、マフィアの復興事業への参入が明るみに出たことを踏まえているようだ。 コーザ・ノストラの方々なら徹底してやるだろう。 規定通り、規制通りやっていたのでは大きな金を掴むことはできないからだ。 イタリア中部の地検の検事の一人が言った「もし日本でのような耐震手法で建てられていれば崩落はしなかった」と、マフィアの生産地であるシシリー島を国内に抱えるイタリアのお役人様から絶賛された我が日本国の建築業界と建設業界が、建築基準法通りの施工を全うしているかと言えば、それとこれとは話が別物になる。 日本の建築&建設業界にも、ちょっと前から槍玉に上がっていた[パークシティLaLa横浜(横浜市都筑区・敷地30,380㎡・SRC造・地上12階・4棟705戸2007年11月竣工)]不正疑惑がある。 当該分譲マンション団地内の、棟と棟を繋ぐ通路の手摺が上下にズレていることに気付いていた住人たちが、販売元の三井不動産に原因究明の申し立てをしていたからだった。 販売元の三井側は、2015年8月になってやっと腰を上げて調査をしたが、例によって、以前から言い訳がましく言いはっていた『東日本大震災の影響による』と、いままで通りの説明を繰り返した。 この分譲マンションは設計と販売が[住友不動産]で、一次下請けが[日立系の建築部門]で、二次下請けが[旭化成建材]であったが、あまりのクレーム量に危機感を感じた親元の[三井住友建設]が2015年10月の社内調査で、基礎工事を担当した[旭化成建材]が『基礎杭深度の偽装データーに基づく工事』をしていたことが発覚した。 そして、部分沈下のしていない残る3棟も、複数の基礎杭が支持層まで到達していないことが判明した。 さらにその後、全国の他の建設業者8社の施工販売済みのマンションでも、同様の基礎杭深度改竄(カイザン)データーによる手抜き工事をやっていたことまでゾロゾロと発覚する始末だった。 結論から言うと、[LaLa横浜]は傾いた棟を含む全4棟ともに、建て替えられる公算が大きくなった。 そもそも、傾いた原因は何だったのか。 4棟のうち1棟で[旭化成建材(千代田区)]が担当し打設した基礎杭の3本が堅固な支持層(岩盤・砂礫・厚い粘土層)に十分届いていないことが判明し、一連の杭打ちデータ改竄(カイザン)が発端になった問題を巡っては、三井不動産(販売元)が2015年10月、全棟建て替え基本方針とする補償案を提示した。 管理組合では2015年12月、全705戸にアンケートを配布して集計すると、回答した685戸のうち89. 区分所有法に基づき全棟建て替える場合は区分所有者の5分の4以上の同意が必要だが、この場合の希望者は大きく上回っていた。 三井不動産が住民に配布した文書によると、総会での全棟建て替え決議から着工までの手続きに2年、工事完了するまでに更に3年半程度かかるとされていて、解体、立替えを完了して入居は2020年秋ごろになる予定となった。 国土交通省は2016年1月13日付けで、建築業法に基づく監督処分を発表した。 『三井住友建設は指名停止1ケ月』、『日立系列建築部門企業に営業停止15日』、『旭化成建材は15日の営業停止』だったが、ユーザー側への損害賠償責任は免れるものではない。 『瑕疵のある物を売ったことは認める。 それは返してもらって新しい正常の物を渡せば文句ないだろ』は、マンション売買には通用しなかった。 欠点を改善した新しい建物を提供したほか、買主の諸々の損害に対する賠償額が1戸につき1000万円未満は覚悟しなければならないだろう。 国政選挙や地方選挙以外で[支持層]なる言葉をその時初めて聞いた。 何のことかと調べてみれば、現在は民間住宅でも建築前の地盤検査が義務づけられていて、軟弱な土壌の上に建物を建築する前には目に見える建物の土台ともいえる基礎の乗る下部に所定の深さの杭を打ち込んで通常の基礎と一体化させなければならないことになっていた。 基礎杭には[支持杭]と[摩擦杭]の2種類があり、軟弱な地盤の下に岩盤か砂轢か水分の少ない粘土など5m以上の層まで到達させる杭を[支持杭]と呼ぶ。 軟弱な層が深すぎて支持層まで届かないような深度で、かつ比較的密度の濃い地盤の場合には、打ち込んだ杭表面と地層との摩擦力で地上の建物を支える杭を[摩擦杭]と呼ぶ。 さて、[パークシティLaLa横浜(横浜市都筑区・敷地30,380㎡・SRC造・地上12階)]の1棟当たり入居時の全重量は8,000トンを下回らないのではないかと勝手に推定し、この重量を支えるには[支持杭]でなければ建物が沈下する恐れがあり、現に支持層に到達していない杭があったために部分沈下したわけである。 手抜きは見つからなければ良いが、世のなか何が起こるか分かったものではない。 大雨で堤防が決壊して大被害をこうむって、大急ぎでその復旧工事をやった時に前回堤防工事をやった業者が盛り土の中に入れてはいけない材木の屑や空き缶やアスファルト工事の残土などを入れていたことが発覚したりする。 土砂災害で新築住宅が押しつぶされてめちゃくちゃに粉砕されればわからなかったものが、屋根が飛ばされただけで原型が残された場合などに、天井裏に入れるべき断熱材が入っていなかったりしたときなどには、穏健で有名な仏の佐藤さんだって、出るところに出てけりをつけようと思うはずだ。 ある時道路が陥没して押し車歩行のお婆ちゃんが落ちて顎と足と手を1本ずつ骨折したような場合、穴をのぞき込んだら規定より砕石の量が少なかったために基礎が陥没してアスファルトだけで持っていたところにおばあちゃんが乗っかり、水道管の漏水のために阿武隈鍾乳洞ほどの空洞ができていたため落下した。 水道工事後の復旧をした土建屋も悪いが、舗装工事を請けた大手舗装会社のアスファルト厚さがでたらめだったことなども崩落した断面を視れば一目瞭然だった。 市の道路維持課の担当者は真っ青になった。 工事後の舗装サンプルをとる時にその会社の言うなりの所を切り取ったときにはマニュアル通りだったが、その30Cm先から半分の厚さだったのだ。 道路維持課の担当者は、その工事をした会社からの暮れとお盆前に自宅に届くデパートからの荒巻とビールの詰め合わせをこの暮れからは突き返すことを心に誓った。 手抜き工事の面では、日本の各種業界の現状も決して自慢はできないが、そんな業者ばかりでないことを私は知っている。 この人たちの只一つの欠点と言えば、金利の小さな変動があると金繰りに行き詰まり、いとも簡単に倒産することだった。 今から4千年前のメソポタミアの地のハンムラビ王の治世の職人方も決して真面目一方の者だけではなかったことが判る。 なぜなら、ハンムラビ法典の中には、やってはいけない事がこと細かく法文化されている。 このことは取りも直さず、そのようなことがたびたび発生するから規制対象になったものだと、相場は決まっている。 たとえば、山奥の村の交差点で月に3回平均に交通事故が起こり、そのたびに軽い方の車に乗っている方の人間が重傷を負ったり、年に3人ぐらい死亡したりすれば、そこに町で4つ目の信号機が設置されるのとおなじなのだ。 したがって時代時代により建築費にはかなりの差があったとものと思われる。 ハンムラビ王の統治時代(B. C1750年)ごろの古代バビロニアにおける建築に関する費用は、『建坪1サルが2シェケル(銀17g)』ぐらいだったとみられている。 [1サル]の面積が正確にどのくらいの広さだったかは不明だが、現代でいえば『1DKの1間(ヒトマ)』くらいだったろうと想像されている。 勿論その家の建築依頼者は[アウィルム(自由人)]階層の者で、その階層特有の多くの間取り持つ建築構造で建てられたものだと思われるので、総額は部屋数が増えれば当然の事として上がったていっただろう。 当時からずっと先の年代からの建物の躯体材は『日干し煉瓦』が主流だったようだが、より耐久性を高めたいときには『焼き煉瓦』を使用したはずだ。 内装や家具や入口のドアなどは木材を使用したはずだが、良質の木材を産しないバビロニアでは余裕のある階層の住む住宅には現在のシリアの山間部や地中海に沿った山林で生育された[レバノン杉]などの輸入材を多用したものと思われる。 』 [解説] 『建築屋が建てた家が倒壊したことで住人が死んだ場合は、その建築屋を死刑にしろ』ということで、典型的な[同害報復]の[タリオ法規(被害者が受けた同種の害を加害者に加える処罰法)]の規範に従って作成されている。 従って、同害報復の象徴的な事例として表示しただけで、実際に子供がいなかった場合はかなりの額面の損害賠償で処理されていたとみるのが自然である。 そう考えていくと、どの条項も話によっては、金銭での保証の話し合いの余地があったのかも知れない。 奴隷そのものは本来戦争に敗れた民族等が人格を持たない[物]として捕らえられてきたと考えられ、古代バビロニアにあっては、古代ローマのB. C753年から始まる王政から共和制をへて帝政へと、中世までも続くローマの指導階級とローマ市民を支えていた奴隷よりも厳しい待遇で扱われてきた。 なにせ物として扱われるので、身体に欠陥を加えられ価値が減少した分を金銭で補充し、死ねば同じ程度の物(奴隷)を買い求めて弁償しなければならなかった。 破損家具や住宅機器は新品を弁済) 『建築家が建てた家屋が倒壊して家財道具類が破損したる場合には、壊れた家具と同等のものを弁済し、かつ、自分で建築した家屋が規定の堅固さを持っていなかったための倒壊なので、建築屋の資金で再度立て直さなければならない』 [解説] 建築家である大工や石材工に対する責任の重要性は現代法の感覚から見ても飛び抜けて大きい。 お役人様や学者先生が素人を煙に巻くように、この本条をより難しく表現した場合は、 『もし物を滅失せしめたるときは、滅失せしめたる物を弁償し、且つ建てたる家を堅固にせず、ために倒れのゆえをもって、彼自身の物をもって、倒れた家屋を立て直す』となる。 大工はあれこれと言い訳を言って責任を逃れるケースが多かったために、『このようなでたらめ工事のために破損をした場合には、工事を請け負った大工の負担で地震や台風にも耐える壁を作り直せ!。 うだうだ言い訳ばかり語って責任逃れをしているなら、財産没収の上に国外追放とするが、それでも良いか』というような法律が立法化されたようだ。 だがこの文章は自体は、前条の第229条から第232条に比較すると、それほど厳格にその責任を追及されているとは思えず『壁は、崩れた部分だけ大工自身の資金で修理すれば良い』と解釈できるニュアンスが含まれているようだ。 研究者により、この『壁』についての翻訳における解釈はまちまちで、この壁というアッカド語は一般的な丈夫な焼きレンガの壁ではなく、土壁の隅にある『バットレス(建物の外壁と直角に外側に突出させて壁体を支持する控壁)』のように建物と一体になったものを指すので、比較的緩やかなこの条文ができたのだろうという学者もいる。 [60グル]の船というのは上記の計算でゆくと[15,300リットル]であるが、これは船自体の容積ではなく積載可能量と解釈すべきである。 これだけの船を建造する労働賃金が2シェケルの銀ということだと言っているので、造船材料費は別なのであろうか?。 別紙の医師の外科手術費の条項での、アウィルム階層の所有する奴隷の外科手術費用が[60グル]の船を造る報酬と同額ということで、古代でも外科手術はかなり高額であったと理解される。 なお、アッカド語(楔形文字)では船大工と船頭の単語が同じで、前後の言葉の意味などから使い分けされていたようだ。 これは船大工が船頭を兼ねていたということから生じたものであろう。 船大工が船の完成後に船頭として乗り込み操船する船の大きさが[60グル(15,300リットル)]と定められていた形跡がある。 だが、別の粘土板文書には[100グル]を超える大型船が記載されており、当時すでに300グル位までの大型船の建造は行われていたとも思われる。 後の第240条にも出てくるが、メソポタミアの[ティグリス川]と[ユーフラテス川]の両河川において、河川を上流と下流とを上下する船と、両河川を横断して人や物を運ぶ船とは当然重量の大きさが違っており、河川を上下する船の方は比較的に小さくして自由に方向を変えられるように造られていたはずだ。 河川を横断する方の船は現在のフェリーのようなもので、荷物を一度に大量に運ぶ意味から大型の船であったと推定される。 どういうわけか、家を造る建築家(大工)について規定した建造責任に比べると船大工のほうがそれ程厳格なものではないように思える。 例えば[第233条]の『建築家の技術的な欠陥のために家の壁が落ちた時は、その大工の負担でより堅固な壁を造る』の修理規定と同様の規定がこの[第235条]の船の修理規定であるが、『一年以内に破損したものに限って修理責任がある』と解釈することができることから、家を造る大工の無期限責任に比べると船大工の責任はかなり軽いものである。 当時の造船技術そのものがまだ完成の域にほど遠く、最初の進水(始めて水に浮かべる)した状態を維持して行くのが難しい技術的段階だったものと推測される。 古からバビロニアでの造船材は山岳地帯から切り出した[レバノン杉]の板を組み合わせ、自然の[アスファルト(現在の舗装工事に使用するもので、原油精製の過程で油性を抜き取った残留物)]で水密工事(板と板との間に詰めたり外部の塗装に使用したのかも知れない)を施して完成させている。 C1770年にバビロニア北部に影響力を行使していた[エシュヌンナ軍]を追い払う[マリ]に援軍を送ったバビロンのハンムラビ王の動きに[エシュヌンナ軍]が撤退したあと、領土分けで水運の盛んなバビロンは強硬に[ヒト]の帰属を主張したが[マリ王『ジムリ・リム』]もまたヒトを中心とした界隈のマリへの帰属を譲らずに[ハンムラビ]の方があきらめた経緯があった。 ハンムラビが後になり全メソポタミアを統一した折には、[マリ]の町だけは徹底的に焼き払い建物を破壊することで『落とし前』をつけた。 だが一つ問題がある。 いつの時代の海難事故も同じだが、船が沈没したり遭難した場合、往々にして船頭も生還できない場合がある。 このように船頭が帰ってこなかった時の担保をハンムラビの時代にどのようにしたかは不明である。 前の235条の別の学者の解釈として『仕事をきちんと仕上げなかったので水が漏れ込んでくるようなときには、船大工は船を分解して自分の費用で新たに造船した』とあり、ここで述べられる船は[60クルル]の容積(約18,000リットル)の積載能力のある船である。 これが平均的な船で、古バビロニア時代の手紙には[120クルル]とか[300クルル]もの積載能力のある船にも言及しているので、ハンムラビの時代にはもっと大きな船もあったはずだ。 残されている手紙によると、船はもしその方が便利ならば目的地で荷卸ししたあとに『分解され』陸路を出発点に戻されるケースもあった。 [ハンムラビ]が[スィーンイッディナム(ハンムラビ傘下の船頭の名)]に宛てた手紙には、『荷物を積んだ船が座礁したならば、それをおろして陸路輸送せよ。 そしてともかく定められた日にはバビロンに到着していよ』と命令し、『船長に船もろとも大至急バビロンに来い!』と言っているので、船も解体して荷物と一緒に陸路を搬送しろと言っているのだろう。 船頭には、家屋を建築する大工と異なり刑事責任に当たるものを科していないのが古代法の特徴である。 それだけ船の運航には危険が付きまとっていたと思われるが、民事責任としてもかなりの高額にのぼったであろう弁済金の支払いが船頭がいつの場合にも可能であったのか、と言う疑問は残る。 これだけでは給料の価値は正確には把握できないが、大麦は[10イクー]当たり10グルの収穫があったそうなので、面積6イクーから収穫された大麦ということになるが、これではいつまでたってもどのぐらいの価値の給料額だかわかったものではない。 3ケ条前の第236条から本条までの一貫した解釈として『貨物船がバビロニアで果たしていた役割りに鑑みると、私的商人たちも船の賃貸に手を出していた』ことが判る。 その船の性能によっては帆に風を抱き櫂で水を蹴って、ペルシャ湾に漕ぎ出し交易に携わった商人もいたことだろう。 このような時には当然のことに、回避義務を負うのは川を上下に移動する船で、沈没した渡し船の方は積載したものをバビロニアの神の前で一定の形式に従って宣誓し、それから後に示談の交渉が始まるが、だいたい回避義務を負った河川を上流から下流に移動する船頭が被害を受けた舟と積み荷の損害賠償をしたものと思われる。 [ヘロドトス(B. C420年・古代ギリシャの歴史家)]著の[歴史]によれば、『メソポタミア地方の両河川を上下する交易船は、船首と船尾の別がなく、あたかも盾のように円形に近い形状で藁が一杯積まれたていた。 人々は荷を積み込むと川の流れを下ってゆく。 積み荷は「その殆どが[葡萄酒]で、赤土粘土壺のなかに入っている。 船は真直ぐ立った二人の男による竿で漕がれる。 一人が手操(タグ)ると他の一人は突いて押す。 どの船にも一頭の生きた驢馬をのせており、最も大きなものにはもう一頭の驢馬を乗せているに違いない。 バビロンで積載物を人々に引き渡す時、彼らは船体や藁をも売り払ってしまうが、革袋だけは驢馬にのせて再びアルメニア(黒海とカスピ海に挟まれた小コーカサス山脈の麓で、チィグリス・ユーフラテス川の源流近くの国)へと帰っていく・・・』と記載されている。 ヘロドトスの生きた時代は、ハンムラビ王の古代バビロニア時代から約1,200年も後のことなので、勿論、同じような船がそのまま使われていたとは考えられない。 しかし両河川を上下する船は、だいたいこのような船頭2人で自由に方向が変えられるような機能を持った船が使われ、川を横断する船は載積重量も船の大きさもかなりのものが使用され、自由に方向を変えられなかったと判断すべきだろう。 そして、このヘロドトスが見た船より1200年前の船が、ヘロドトス当時より機能の優れた船だとは思えないので、同じ様式であってもかなり旧式だったとみるのが妥当だ。 おそらく、いかだを改良したような構造だったのではなかろうか。 だが一方、当該法典や他の文書をつっき読むと、帆や櫂を巧みに技って高速で走る軍船や商船などが別にあったようだ。 考えてみると、どんな大昔でも人々は仕事をもって生活の糧を得ていたことがわかる。 搾取階層などと陰口をたたかれたことのある社会や国家の体制側にある人々も、決して遊んで暮らしているわけではない。 社会の為に、あるいは自分の為にかに拘わらず、彼らほど頭と体を酷使している人種も珍しい。 そして、不満のある輩はいつの時代いにも存在し、社会的混乱が頂点に達すると真っ先に彼らに命を狙われるのが体制側のトップで、まったく割の合わない人たちでもある。 いつもよく聞く[ニート]とか[フリーター]とは『何のことかいな』と考えていたが、[ニート]とは『就学、就労、職業訓練のいずれも行っていないことを意味するイギリスで最初に使われた言葉』だそうで、日本では15歳から25歳までの『通学も家事もやっていない『若年無業者』を指すらしい。 一方の[フリーター]とは『正社員・正職員以外の就労形態の人たちで、期間や時間契約による社員・職員や派遣社員、アルバイト、パートタイマーなどで生計を立てている[非正規雇用]の人たち』を指すそうだ。 現在の私もまた、何の職業も持たずに政府に甘えて生活している者で、しいて言えば、毎朝のラッシュ時に渋滞の中を勤務先へ向かう職業を持っている見ず知らずの皆様のお金をむしり取って生き長らえているので[ニート]に限りなく近い存在か、そのものずばりだとも思っている。 [ニート]に関する以下の言葉は、私が涼しい顔をして心の中に隠し持っている思いではなく、[養老猛司(80歳・解剖学者で東大名誉教授)]の著書で、私が深く傷つくようなタイトル[超バカの壁]の中から拾いだした言葉である。 そこで宿帳を確認して職業欄を見て[無職]と書いた客が何名かいるのを見つけた巡査は「今日は客種がいいな」と言ったそうである。 戦前の[無職]の人は働かなくとも食べていける地主の息子とか、銅鉱山を何か所も所有している経営者の3男坊とかに相場が決まっていた。 一方、現在の世で[無職]などと新聞に書かれれば、『暴力団組員』とか『他グループとの抗争で一人をバラシて指名手配なった暴走族グループのNO2』とか『連れ合いに先立たれた年金生活者』とか『会社か役所の金を持ち逃げして3年ほど逃亡生活続けて持ち金も心細くなった人物』とか『パチンコで大当たりが120回続けて出たため、ゲーム機不正操作の疑えをかけられた者』とかとに、これまた相場が決まっているので、巡査長に昇進したばかりの警察官は詳しい人相風体をカウンターの向こうに鼻毛のはみ出しているボーイに聞き取るところだ。 [ニート]の人は、現状に満足していないで絶えず何かを求めている人が多いというので、その『何か』という内容を聞き取り調査した人がいた。 そしたら、現在働かないでいるのは「自分に合った仕事を探しているからだ」という理由を挙げる者が一番多かったそうだ。 その者たちには少しキツイかも知らんけど、俺(養老某東大名誉教授)はこう思っている。 『まだ中身が空っぽの20歳やそこらで、自分がどんな仕事に合っているかなんて、わかるはずがない。 仕事とは社会に開いた穴ポコだよあんた。 道路工事の不手際で道に穴が開いていた。 そのままにしておけばロングスカートを着けて散歩に出た良いところの奥様が足を踏み外して転んで大腿部を骨折する危険があるので、目の前の穴を埋める!。 それが仕事っていうやつで、自分に合った都市ガスや下水管の臭いがもろに噴出していない浅い穴などあるわけないだろう、バカたれが。 仕事は自分に合っていなくて当たり前だ。 この俺なんかの仕事は解剖で、死体を引き取り、研究室で解剖して様々な記録を取ってから焼き場に送り込み、いい塩梅の骨にしてから遺族の引き渡すまで含まれているんだぞ!。 これのどこが俺に合っているというんだ、おまえふざけているんじゃないぞ。 そんなことに合っている人間がいる分けねぇだろうが、バカたれが。 生まれつき死体の解剖向きの人間なんているわけねぇって言ってんだよ、俺は!。 そーでなく!、解剖と言う仕事が社会に必要なんだ。 俺の前にその穴があったから、それを埋めたんだ。 なんで俺がこんな辛気臭いことをやらにゃ~いけんのかと思うけど、それを時々口笛を吹きながらやってさえいれば給料はもらえた。 勿論それは、大学を通して社会が俺にくれたわけだけどな!。 正直な話、生きている患者を診なくて良いっていうことも、俺が解剖にむかった大きな理由の一つなんだが、他言無用だぞこれは。 死人の解剖をやっているうちは、俺に少々のミスがあっても絶対にもう一度死ぬってことはないっていうことだ。 つまり、少なくても俺が人殺しをする心配はない。 だが、息のある患者を診ることから逃げ出しても、仏になった者の遺族の面倒などが残される。 こちらは生きている人間だから、家族の死因に関する質問に答えたり、不安定に陥った情緒を沈めるためのアドバイスなどもせにゃあならんから、そりゃ~あ死人相手よりも何倍も大変だ。 社会、仕事というものはこう言ったものだ。 いいところもあれば、悪いところもある。 全部合わせてゼロにして、あとは目の前の穴を埋めていれば給料は入る。 仕事とは本来そういうもだぞ、おまえ。 [自分に合った仕事]などとほざいていないで、さっそく明日、履歴書持参でハローワークへ行って職員が出した最初のカードの事業所にいって面接し、向こうがOKならば取りあえず10年ほど我慢して仕事に打ち込んでみな。 真面目に仕事をしている姿をみたら女の子だったできるぞ、おまえ。 ]] というようなことが、こんな乱暴な言葉ではなく、洗練された知的な表現で綴られていた。

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ハンムラビ法典

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ルーブル博物館蔵のハンムラビ法典 の(在位前1792~1750年頃、ただし異説あり)は王国内の諸民族を統一的に支配するために、法典の整備に務め、全282条からなるハンムラビ法典を制定した。 「目には目を、歯には歯を」という 復讐法の原理のほか、平民と奴隷の厳しい身分の区別の既定などが見られる。 また、犯罪が故意に行われたか、過失によるのかによって量刑に差が設けられていた。 なお、この法典は、語で書かれ、によって碑文が刻まれている。 その現物は1901年にイランのペルシア帝国時代の古都で発見され、解読された結果、ハンムラビ王の制定した法典であることが判明した。 本来はにあったものが、前12世紀中ごろがバビロンを征服したときに戦利品として持ち帰られたと考えられている。 ハンムラビ法典はを受け継ぎ、集大成したもとの考えられている。 かつては世界最古の法典とされたが、現在はハンムラビ法典は先行したシュメール法典を集大成したものとされており、「世界最古の法典はシュメール法典」と訂正されている。 右は最高神マルドゥクとの説明もあるが、正しくは太陽神シャマシュである。 シャマシュ神は同時に普遍的な正義の神でもあった。 石碑は高さ2. 25m。 1901~2年にフランスの調査隊によって発見され、現在パリのルーブル博物館に収蔵されている。 レリーフの下に条文が刻まれているがその一部が戦利品として持ち去られたときに削り取られており、282カ条を数えるがそれがすべてあったのではない。 またこの碑文を発見して解読したシェイルがハンムラビ「法典」(code des lois)と称したのでその呼称が一般化しているが、体系的な法律ではなく、どちらかというと王が実際に下した判決を集めた裁判の手引き書、どちらかというと「判例集」に近い。 <中田一郎『メソポタミア文明入門』2007 岩波ジュニア新書> 社会正義の確立と維持が作成意図 ハンムラビ王はこの法典の作成意図を、その前文で「そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、……わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された」と明確に述べている。 また、後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、……、虐げられた者に正義を回復するために、わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べている。 このような、王権の責務の一つが社会正義の確立と維持であり、その実現のために裁判を行い、法を定めるという思想は、メソポタミア文明のなかでウル第3王朝のであるウルナンム法典にさかのぼることが出来る。 ハンムラビ王がこの法典を作成したのは、周辺諸国を征服し、メソポタミアの統一を再建した治世37年(前1755年)以降のことと考えられ、領域国家を統治する王権の正当性をこの碑文で示したのであろう。 法典の内容と特徴 第196条 もし彼(上層自由人)がほかの人(上層自由人)の目を損なったならば、彼は彼の目を損なわなければならない。 第197条 もし彼(上層自由人)がほかの人(上層自由人)の骨を折ったならば、彼は彼の骨を折らなければならない。 第198条 もし彼がほかの人(一般層自由人)の目を損なったか、骨を折ったならば、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。 第199条 もし彼がほかの人の奴隷の目を損なったか、骨を折ったならば、彼はその(奴隷の)値段の半額を払わなければならない。 第200条 もし彼(上層自由人)がほかの人(上層自由人)の歯を折ったならば、彼は彼の歯を折らなければならない。 第201条 もし彼がほかの人(一般自由人)の歯を折ったならば、彼は銀三分の一マナ(約167グラム)をし原なわなければならない。 復讐法の規定 この 目には目を、歯には歯をという規定はハンムラビ法典の中の有名な部分で「復讐法」(同害復習の規定)とされているが、おそらく遊牧民社会の伝統に拠ってものであろう。 この言葉は後のにも記されている。 身分によって異なる刑罰 上の条文にもあるように、当時の社会には、上層自由人(アウィールム)と一般自由人(ムシュケーヌム)、それに奴隷という三つの社会階層、身分があったことがわかる。 刑罰も、身分ごとに異なっている。 上層自由人と一般自由人についてはいくつかの説があるが、上層自由人とは宮廷の官僚や豊かな商人たちであったと考えられる。 <中田一郎『メソポタミア文明入門』2007 岩波ジュニア新書> Episode 被害者救済法や製造物責任法の先取り この法典の完全な日本語訳を『ハンムラビ「法典」』(2002年)として出版した中央大学名誉教授の仲田一郎さんは、その本を元にわかりやすくハンムラビ法典を紹介・解説した『メソポタミア文明入門』を著している。 私たちが手近にこの法典の内容と意義を知るには手頃の本なので、ぜひ参考にしてほしい。 同書で仲田さんは、ハンムラビ法典は、弱者保護や不正の排除という社会正義の確立の責務が古代王権にあったとられえ、その実現のために作成されたとしている。 そして上述のようなこの法典の特色以外にも、現代法を先取りするような内容を紹介している。 例えば、 ・第22~24条 人が強盗に遭って、生命を落とした場合、犯人が捕まらない場合でも、事件の発生した市と市長は、被害者の遺族に銀1マナを支払わなければならない。 これは現在、日本でようやく議論されるようになった被害者救済法にあたる。 <同書 p. 151> ・第229条 もし大工が人のために家を建てたが、彼が自分の仕事に万全を期さなかったので、彼の立てた家が倒壊し家の所有者を死なせた場合、その大工は殺されなければならない。 この考え方は、日本で1995年に施行された製造物責任法(通称PL法)に通じている。 <同書 p. 156,158> その他、事細かな結婚に関する規定、平等な遺産相続、寡婦や孤児を救済する意味のあった養子縁組など、細部にわたって社会の弱者の救済を意図する内容を持っていたことが詳しく紹介されている。 出題 2011上智大(文他) 第2問部分 次の文の空欄にそれぞれの選択肢から最も適切なものを一つ選び、下の問いに答えなさい。 1901年~02年にイランのスサでフランス人、ド・モルガンらの手によって、玄武岩製の石碑が発掘された。 それはもともとバビロンの( 1 )神殿に置かれていたが、前1150年頃、エラム人の王シュトルク・ナフンテ1世の侵入時に戦利品として持ち去られたものであった。 ヴァンサン・シェイル神父が半年かけて解読し、その結果、それはアッカド語を使用して( 2 )文字で刻まれた、バビロン第一王朝の第( 3 )代目のハンムラビ王が慣習法を成文化した最古の法典であることが判明した。 発見時には大きく三つの塊だったが、現在は一つの完全な石碑に復元されて( 4 )博物館に収蔵されている。 (1)a.アモン b.ギルガメシュ c.アッシュル d.アフラ=マズダ e.マルドゥク (2)a.シナイ b.神官 c.楔形 d.フェニキア e.アラム (3)a.6 b.7 c.8 d.9 e.10 (4)a.大英 b.ベルリン考古学 c.イラン考古学 d.ローマ考古学 e.ルーブル 問イ ハンムラビ法典に関する以下の選択肢のうち、正しくないものを一つ選びなさい。 a.法令の趣旨は、階級社会の登場のなかで、経済的強者の特権を維持することにあった。 b.ハンムラビ王は、前17世紀に在位した。 c.当事者の身分(エリート市民、一般市民、奴隷)によって刑罰の差があった。 d.刑法では同害復讐法の原則が主張されているが、これは裁判の公正さを保証するものであった。 e.この法典は、婚姻、財産相続、賃貸及び売買などの全282条からなっていた。 解答 (1)e (2)c (3)a (4)e 問イ a 解説 この問題にはいくつか「問題点」がある。 まず空欄の3や設問イのeなどはいかにも上智大らしい細かなことを問う設問であるが、ほとんど意味がない。 またリード文のなかにある「最古の法典」という表現は現在は相応しくない。 空欄(1)は正解はシャマシュ神の可能性もあるが選択肢がないのでメソポタミアの神であるeを選ぶしかない。 それよりも、問イの正誤判定問題はさらに問題である。 aは法典は上記説明の通り、法典作成の意図は弱者保護にあったので、誤りであるといえるが、bのハンムラビ王の在位年代は教科書によっては前18世紀としているので、こちらも誤りとすることもできる の項参照。 また、選択肢eの条文が282条というのも、現在わかっている条文と言うことなら正しいが、本来何カ条あったかはわかっていない。 ということで複数解答ともなりうるので良問とは言えまい。 同じ事は旺文社の『全国大学入試問題正解』15世界史編(2012年受験用)でも指摘されている(研究と解答 p. 20)。

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世界四大文明(古代四大文明)の概要を簡単に地図付きで紹介! 世界四大文明、または古代四大文明(四大河文明とも呼ばれることがある)は、人類史史上最も最初に起こった文明で、その4つの文明を元にして、それ以降の人間の文明が花開いていくとする解釈。 また、これら世界四大文明の大切な共通項として良く強調されるのが、それぞれの文化は大河流域で育まれていったという点。 これは、人類が社会を発展させて文明開花するためには、水が欠かせなかったことを意味しています。 世界四大文明(古代四大文明)の場所を地図で確認してみよう 世界四大文明の場所を地図上に表すと、以下のようになります。 (出典:) まず一番左の黄色のエリアがナイル川流域に栄えたエジプト文明。 そして、緑色のエリア、現在のイラク一部に広がり、流域に広がるのがメソポタミア文明。 さらに、現在のインド、パキスタン、アフガニスタンの一部をまたぐように広がっている青色のエリアが、インダス川流域に栄えたインダス文明です。 最後に、最も右側に確認出来る赤いエリアが、の黄河流域に発生した黄河文明になります。 覚えておきたい世界四大文明(古代四大文明)という解釈の問題点 世界四大文明は、人類史上最も古い文明であるという解釈ですが、現在ではそこにメソアメリカ文明やアンデス文明を加えた「6大文明」が唱えられていたり、また、当時の中国では各地で様々な文明がすでに興っていたとされていることから、四大文明とまとめるのは間違っているという指摘が一般的になっています。 そのため、あくまでも一つの「解釈」として、人類史上非常に古い時代に興った文明を指す言葉として覚えておくようにしましょう。 世界四大文明(古代四大文明)をより詳しく比較しながら確認していこう! 世界四大文明の概念について理解を深めたところで、ここからは、四大文明に含まれる各文明をより詳しく見ていこうと思います。 この地域は葦(あし)が多かったため、シュメール(葦の多い地域)と呼ばれ、メソポタミア文明は当初、そこに住んでいたシュメール人が担っていたとされています。 元々、現在考えられているシュメール文明以前に、すでにいくつかの集落やが発達していたものの、それらを統一する機運が高まって複数の都市国家が発生します。 そのため、この時代に栄えた複数の文明を総称したものがメソポタミア文明と呼ばれるものです。 ただし、シュメールの都市国家はその後、この地域に進出してきたセム族系の遊牧民、アッカド人によって制服され、紀元前2300年頃には統一国家としてのアッカド王国に姿を変えることになります。 メソポタミア文明の特筆すべき点 メソポタミア文明は以下の特徴を持っていました。 暦は太陰暦を使用• 1年を12ヶ月、1週間を7日とする、太陰暦が使われていた• 60進法の発達• 楔形文字(くさびがたもじ)が使われていた• 楔の形状をした文字で、水で練った粘土版に葦を削ったペンで書かれていた• 聖書の世界の原型が生まれた• ハンムラビ法典• 紀元前1700頃にハンムラビ王がこの地域を統一するとハンムラビ法典が作られた 関連記事• エジプト文明 エジプト文明はのナイル川流域で、紀元前3000年頃に興った文明。 この地域では紀元前4000年までには「ノモス」と呼ばれる部族国家があらゆる場所に存在していましたが、それを当時の「メネス王」がまとめることで統一した国家が出来上がります。 そして、このエジプト文明を発展させた国家は、31の王朝が交代しながらも、国家としては紀元前4世紀後半頃まで続いたとされ、非常に長く栄えた文明であると言えます (参照:日本と世界まるごと全史, p. 20)。 エジプト文明の特筆すべき点 また、エジプト文明は以下の特徴を持っていました。 暦は太陽暦を使っていた• 一年が365日だと理解していた• 宗教は多神教• ただし、中でも太陽神ラーが最高の神だとする扱い• 王はファラオと呼ばれた• ファラオは神の化身だと考えられていた• ヒエログラフ(象形文字)を使用していた• ものの形をかたどって描かれた文字• ピラミッドが立てられる• 現在でも謎の多いピラミッドが建設される• パピルスの発明• 現在の紙の元となったとされている 関連記事• インダス文明 インダス文明は、メソポタミアやエジプト文明と比べると遅い時期(紀元前2300頃)に誕生した文明で、インダス川流域に興ったもの。 そして、このインダス文明の最初の担い手は、現在の南インドに住むドラヴィダ人だと考えられています。 一方、• 文字を使っていた• インダス文字は未だに未解読• 青銅器が使われていた• 鉄は知られていなかった様子• 都市計画に優れていた• 優れた建築技術で城塞、舗装道路、排水施設などが整備されていた• 有名な遺跡にモヘンジョ=ダロがある 黄河文明 黄河文明は、中国の黄河流域に成立した文明のことを指し、東アジアで最古の文明と言われてきたもの。 その始まりとして用いられる時期の一つが、紀元前4800年頃に遡ると考えられている仰韶 ヤンシャオ 文化の時代から。 ただし、それ以前にもこの地域には文化があったとされ、早いものだと紀元前7000年頃にはすでに文化が栄えていたとする見解もあるのに加えて、中国では同時期に長江文明を始め、様々な文明が同時多発的に興っていたとされるため、まとめて「中国文明」とすることが最近では一般的です。 黄河文明の特筆すべき点• 甲骨文字の発達• 亀の甲羅や牛や鹿の骨に刻まれた文字• 漢字の原型となったと考えられている• 黄河流域以外でも同時多発的に他の文明が興っていた• 長江文明 など• 現在はまとめて「中国文明」とすることが多い• 新石器から青銅器を利用する時代まで発展していく• 仰韶文化と竜山文化の新石器時代から殷・周の青銅器文化に発展• 農耕文明• 黄河の肥沃な土地の影響から治水や灌漑の仕組みが発達して農耕文化として発展した 世界四大文明の共通項と違いを表で比較 世界四大文明について、それぞれを見てきましたが、ここで最後にそれぞれの共通項と違いを比較表としてまとめておきます。 メソポタミア文明 前3500頃に誕生 エジプト文明 前3000年頃に誕生 インダス文明 前2300年頃に誕生 黄河文明 前4800頃?に誕生 共通項 大きな川の流域に栄える 違いや特徴 ・楔形文字の利用 ・太陰暦を使用 ・60進法の発達 ・聖書の世界の原型 ・ハンムラビ法典 ・象形文字を利用 ・太陽暦を使用 ・宗教は多神教 ・王はファラオ ・ピラミッドの建設 ・パピルスの発明 ・インダス文字を使用 ・青銅器を使用 ・優れた都市計画&技術 ・甲骨文字を利用 ・実は他にも文明があった ・新石器から青銅器時代まで ・農耕文明として栄える 次の世界雑学記事もおすすめ!• 世界四大文明(古代四大文明)とは?地図付きで比較!共通点や場所までも確認してみようのまとめ 人類史上を見るときの一つの解釈として存在する、世界四大文明(古代四大文明)について見てきました。 世界を理解する上で、参考にしてください。

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