マタギ 意味。 全国マタギの本家「阿仁又鬼」

マタギことば・やまことば

マタギ 意味

国重要有形文化財、マタギ資料館、根子と三面、八木沢、萩形、ぶなホテル、クマの胆、マタギ料理 鈴木松治、秋山郷と秋田マタギ、松橋富松、高関辰五郎、目屋マタギ、巻物、ケボカイ、森吉山登山 2013年3月12日、阿仁マタギの狩猟用具293点が、国の重要有形文化財に指定された。 阿仁のマタギは、全国のマタギ仲間から「本家」と敬われている。 その理由は、1800年代前半以降、 阿仁のマタギたちが旅先で婿養子などで定着し、中部東北の村々に分家のような形で猟師組が形成されていったからである。 阿仁マタギの狩猟用具 国重要有形文化財指定 写真はマタギ資料館 昭和34 年(1959)、「阿仁マタギ用具」126 点が秋田県有形民俗文化財に指定されていた。 今回は、秋田県北秋田市阿仁地域の打当、比立内、根子などの集落に居住したマタギと呼ばれる人々が使用した槍、罠、衣装、山小屋での生活用具、行商関係の用具などの狩猟用具293点が国重要有形文化財に指定された。 阿仁マタギの最大の特徴は、旅マタギである。 彼らは、先々で熊の胆などの薬の行商も行った。 中には 旅先で婿養子になったり、地元にマタギがいない所に移住したりして、その土地にマタギの文化を伝えたという例も少なくない。 今回の国指定は、東日本各地に広く活動した日本を代表する狩猟民として知られている阿仁マタギの狩猟活動と薬の行商活動の実態を示し、日本における狩猟習俗の比較の上でも重要なまとまった一括資料として評価されたものである。 資料館には、国重要有形文化財に指定されたマタギの装束や狩猟道具、行商用具などが多数展示されており、マタギ文化・ブナ帯文化を知るうえで見学必須のオススメ施設である。 マタギ発祥の地・北秋田市阿仁根子 あにねっこ 阿仁根子は、旅マタギの数が最も多かった。 次いで打当集落、比立内集落の順である。 阿仁の旅マタギの活動範囲は広く、東北はもとより、北は北海道、カラフト、南は上信越国境から立山黒部、奈良方面まで及んでいた。 根子の記録によれば、昭和7年、戸数84戸のうち76名が農閑期に鳥獣の毛皮、熊の胆の行商をしていた。 国道105号線の笑内集落周辺に「またぎと番楽の里 根子入口」の看板がある。 坂を上り、車一台しか通れない根子トンネルを抜けると、根子集落に至る。 根子トンネルができる前は、萱草 かやくさ 方面に抜ける断崖の道が利用されていた。 まさしく隠れ里のような村であった。 ちなみに根子トンネルは、過疎基幹農道として建設され、昭和50年3月に完成、延長は576mである。 狭く暗いトンネルを抜けると、一気に視界が開け、隠れ里のような集落が姿を現す。 その感動は、1600年以上前、陶淵明が創作した「桃源郷」の世界と極めて似ていることに気付くであろう。 根子は、 「にほんの里100選」 主催:朝日新聞社/森林文化協会 に選ばれている。 源平落人伝説 根子の語源は、開発を意味すると言われ、源氏の末裔が開いたものと、平家の落人が開いたものとの2つの伝説が残されている。 平家落人説は、壇ノ浦合戦に敗れた一族家臣らが離散したが、信州飯田に落着した一団が 越後の三面、下野日光、羽後の根子に分かれたと言う。 この伝説が正しいとすれば、 根子と三面は同じ一族ということになる。 三面の伝承によれば、狩りの始祖は秋田からきた狩人だという。 三面のマタギは、阿仁マタギについて次のように語っている。 「やっぱり 秋田っていうと本家っていうがな、本場だっていう気持ちがあるな。 ・・・やっぱり 秋田に対しては尊敬してる気持ちが大きいでねぇかな。 」 「マタギ-森と狩人の記録」田口洋美著、慶友社 ・・このように、 阿仁のマタギが全国のマタギの本家と呼ばれていることは事実であり、誇りに思うべきである。 根子小学校の校歌と「又鬼 マタギ 」 毎年8月14日に根子番楽が公開される旧小学校の前には、立派な閉校記念碑が建っている。 その碑には、マタギの発祥の地にふさわしい校歌が刻まれている。 だから必見の価値がある。 根子番楽 根子番楽は、 平成16 年、国重要無形民俗文化財に指定。 山伏神楽の流れをくみ、勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴。 民俗学者の折口信夫は、根子番楽を次のように評している。 「村人は源平落人の子孫と称し、古来弓矢に長じ狩猟を生活としてきただけに、ここの番楽は他のそれに比して勇壮である」 昭和10 年、折口信夫の推薦で、根子番楽が日比谷公会堂で行われた日本民俗芸能大会に参加、翌年は秩父宮夫妻に番楽を公開している。 根子集落はマタギの習俗だけでなく、芸能面でも注目されるようになった。 現在、年に三回公演を行っている。 8月14 日 番楽公開日、9月第2日曜 神社奉納、12 月第1日曜 幕おさめ・・・このうち、 一般に公開しているのは8月14 日午後7時30分から、阿仁公民館根子分館 旧根子小学校 を会場に開催されている。 それに伴い、マタギ文化が広範囲に広がったと言われている。 その一つが上小阿仁村八木沢集落である。 文化10 年(1813)、根子の村田松五郎氏が上小阿仁村を開墾、移住し、後に八木沢村が誕生している。 八木沢の棚田に通じる農道の起点には、文化10年に開墾した記念碑が立っている。 また、集落移転でなくなった萩形集落も同様である。 昭和30 年頃は、根子の山神社の祭りは4月8日に行われ、この日は八木沢や萩形の人達も根子に来て、皆で祭りを楽しんだという。 番楽だけでなく、相撲なども余興で行われ、土産などもふるまわれたという。 昭和40年には、戸数54戸、人口349名の大きな集落であったが、現在は8戸、20人まで減少している。 2009年11月、秋田県初の地域おこし協力隊員2名が八木沢に来村・・・八木沢番楽の復活、休耕田の再生、高齢者の生活支援、そして2012年から「 KAMIKOANIプロジェクト秋田」がスタート・・・今、最も注目される村になった。 ぜひ、マタギの本家とつながる村として訪問してほしい。 周辺関連情報 貸し切り古民家「二又荘」 阿仁の森ぶなホテル」別館 電話0186-82-2400 根子集落にある築120年の古民家「二又荘」は、茅葺きだった家を改装したもの。 名前の由来は、家の前で根子川に備前ノ又川が合流し、二又になっているから。 現在は、グリーン・ツーリズムの交流拠点施設として活用されている。 自炊、賄いとも可能で、長期滞在の田舎暮らしや合宿にも最適である。 農家民宿「阿仁の森ぶなホテル」「二又荘」のオーナーは根子在住の山田博康さん 「アルプフォルン」を吹いている人が オーナー兼森の案内人もしている山田博康さん。 彼は、中学卒業まで根子で学び、その後10年間余所で生活した後、再び根子に戻り、半世紀近くマタギの里で暮らしている。 それだけに マタギ文化はもちろんのこと、マタギの食文化を存分に味わいたい方にはオススメの宿である。 「阿仁の森ぶなホテル」の 電話 0186-82-2400 美の国秋田・桃源郷をゆく 位置図 地域の書籍や視聴覚教材を備えた2Fライブラリー 書棚には、横手市出身の民俗学写真家・須藤功さんの「写真ものがたり 昭和の暮らし」シリーズや「宮本常一と歩いた昭和の日本」シリーズ、「日本の食生活全集5 秋田の食事」、熊谷達也さんの「邂逅の森」「相克の森」「荒蝦夷」など、興味深い書籍が満載。 静かな環境でゆっくり読書を楽しんだり、雪国の民俗文化について学ぶことができる。 クマの胆(い) 上の写真は、山田さん所有の熊の胆・・・熊の胆とは、胆のうのことで、胆汁 液体 を貯えておく袋状のものである。 胆のうを破らないように取り出し、すぐ麻糸で口をきつくしばる。 その写真が上の左の写真で291gもある大きな胆である。 それを囲炉裏の火棚に吊るして乾燥させる。 半乾きになったら板にはさんで形を整え、ひもできつく結わえ、さらに室内で乾燥させて仕上げる。 乾燥後の重さは78. 完成品になるまで一ヶ月余りを要するという。 クマの胆は、漢方薬の中では、最高級品 効能は慢性の胃腸病、食中毒、疲労回復、二日酔いなど、万病に効く薬として取り引きされ、昔からマタギの貴重な収入源であった。 根子の記録によれば、昭和7年当時、戸数84戸のうち76名が全国を股にかけて鳥獣の毛皮、熊の胆の行商をしていた。 熊の胆は絶対量が少なく高価なため、牛や豚、三陸沿岸でとれるマボウザメの胆など、古くから偽物の胆が出回っていた。 その偽物を見分ける方法として、胆を米粒ほど取って水に沈め、真っ直ぐに落ちれば本物であるという。 次に大根を加え、味噌で薄く味付けしたもの。 骨の髄からスープがしみ出し、骨についている肉がハシでそっくりとれるほど軟らかい。 手の肉をていねいに削り取り、これをとろ火で二週間以上もとろりとろりと煎じてあげ、適当な味つけしたものを少しずつなめると効果てきめんだという。 彼が仕留めた多くのクマは、一発で頭を撃ち抜かれていたので 「頭撃ちの松」と呼ばれた伝説のシカリである。 昭和62 年、田村高広主演の映画「イタズ-熊-」では、マタギの演技指導を行った。 また、第20回マタギサミットin阿仁の表紙を飾ったのも、故鈴木松治さん 阿仁打当 であった。 故鈴木松治さんの言葉・・・ 「山っていうものは教わるっていうよりも一緒に歩ぐうちに一人でに覚えてぐものな・・・とにかく、山歩いて体で覚えるしかねぇんだ。 経験積むこどが一番大事だべ。 それと、自分で考えねぇとだめだ。 彼が 秋山郷大赤沢の藤ノ木家の婿として定着。 その 息子・松之助は、父の後を追って大赤沢に来た。 彼も気に入られて 大赤沢の石沢家の婿として定着する。 その松之助の三代目に当たる秋田マタギの子孫がクマ獲り文五郎・・・彼は秋山郷の猟師組の土台を築いた初代親方として活躍した人であった。 さらに鈴木牧之が泊まった湯本の湯守・嶋田彦八も、秋田マタギで婿養子になって定着したという。 越後・信濃両秋山郷に彼らの子孫が婚姻等によって広がり、明治から大正にかけて狩りの組織がつくられていった。 なお、1800年代の前半、秋田マタギが秋山郷で狩猟と川漁をしていた記録は、「」を参照。 阿仁マタギ・松橋富松をモデルにした小説、直木賞作品「邂逅の森」 熊谷達也 2004年6月、第15回マタギサミットinさんぽくには、「邂逅の森」で山本周五郎賞を受賞した作家・熊谷達也さんが講演を行った。 その年の夏に直木賞を受賞。 「邂逅の森」は、秋田県阿仁町比立内出身のマタギ・松橋富松をモデルにした長編小説である。 当初は阿仁鉱山の関係から鉱山労働者だったが、その後、鶴岡市内に住み、クマの胆の行商などをしていた。 昭和23年、彼は 新潟県山北町山熊田の若者を連れて、新潟県関川村の胎内にクマ狩りの遠征をしている。 その後、 胎内の狩人や山形県小国町長者原の猟師組と親交をもち、胎内に頻繁に通った。 また福島山形県境の飯豊連峰も阿仁のマタギの猟場であり・・・この飯豊連峰と尾根つづきである胎内も深いかかわりを持っていた。 一人で撃ち取ったクマが105頭、仲間と獲ったクマが300頭は下らないという。 彼は獲物の多い白神山地に目をつけ、津梅川のそばに小さな小屋を建てて住んでいた。 根子の村田佐吉さんは、彼と6年ほど一緒に白神山地を歩き、「仙人・高関辰五郎だけは別格」であったと述べるほどの伝説の名人マタギであった。 その最後のシカリが、明治生まれの 鈴木忠勝シカリ・・・ 彼の先祖は、阿仁からの移住者である。 なお、目屋マタギの守り本尊である秘巻は、「山達根本之巻」で日光派に属している。 白神山地は、阿仁の旅マタギが活躍した猟場の一つで、伝説にも阿仁のマタギが度々登場してくる。 また、 目屋マタギのクマをとる罠・シラは、秋田マタギから教わったと言い伝えられている。 旅マタギと巻物 マタギ秘伝の巻物について、秋田民俗学の先覚者・奈良環之助氏は「 日光系は天台宗、高野派は真言宗を代表し、ともに密教、高山仏教との関連を物語る。 精神的にはマタギの守り本尊で、実用的には 峰から峰へと藩界越境の許可証となった」という。 つまり、国境を越えて猟をする場合のパスポートと言われている。 しかし、村上一馬さんの「弘前藩庁御国日記」の研究報告書によると、隣の 盛岡藩では秋田藩領へ越境したマタギが打ち首に処されている 享和5年。 弘前藩の猟師は、秋田の猟師と組んで、領内の熊を秋田藩領へ追い出して獲る者もいた。 また、他藩の猟師であろうと、熊を獲って上納する者を歓迎しているなど、各藩は、熊皮や熊胆を確保するために、熊の争奪戦が繰り広げられていたと指摘している。 「巻物の言説は権利を主張するための材料にはなり得ても、それを 認めるか否かは領主権力の判断に委ねられていた」とし、「まとめ」の項では、「密猟や密売の規制は、藩が熊皮や熊胆を確保するためであり、そこには 他藩の領主権力のせめぎ合いが見え隠れしている」と記している。 こうした事例から考えて、「国境を越えて猟をする際のパスポート」という絶対的な効力はなかったと言えるであろう。 江戸時代・・・ 仏教は生き物を殺してはならない、神道では肉を食べるとケガレるといった教えが浸透していた時代で、 公には肉食が禁止されていた。 それでも、猪の肉を「山くじら」あるいは「ぼたん肉」、鹿の肉は「紅葉 もみじ 」、馬肉は「桜」と、言い訳のような名前を付けて食べていたのである。 マタギの世界でも、殺生に対する罪意識はあったに違いない。 「日本中どこの山々でも、鳥獣の殺生を許された」といった 狩猟免許=巻物を必要としたことは確かであろう。 秋田マタギは、山岳信仰や密教、山伏 修験道 と出会って、こうした巻物や様々な宗教儀礼、禁忌などを取り入れ、独特のマタギ文化を形成していったと推測されている。 写真:マタギサミット 鈴木松治シカリによるケボカイの儀式 より 鈴木松治さんが語るケボカイ 「最初は皮を剥ぐごどがらはじめるんだ。 ゛皮ダチ゛っていうけどもな、クマの顎のところからスーッと尻の方さ切って、あとは胸の月ノ輪のあたりから両手を切って、足もな。 それから毛皮をぐるっと剥いでいぐわけだ。 皮ダチすれば、今度はクマを北向きに寝かせて、剥いだ皮を持って、そして山神様に唱え言するな。 唱え言の意味っていうのは、山神様への感謝だな、それとこれからも沢山獲物が授かりますようにという意味だすな。 そして皮を頭と尻逆にしてクマに掛けてやって終わりだ」 「マタギ 森と狩人の記録 田口 洋美著、慶友社 写真:マタギサミット 山形県小国五味沢マタギ 山の神様に感謝する「モチグシ」と「12」 モチグシは、クロキモ 肝 とサンベ 心臓 と左側の首の肉をおのおの3 切れずつ切り取り、火で焙る。 これを 山神様に供えてさらなる豊猟を祈願する。 二頭目を獲ると、一串が倍の6 切れとなり、三頭目は12 切れとなる。 ところが4 頭目は元の3 切れに戻る。 これは、 マタギの間に12 12月12日は山の神様の日 の山の神を祀る風習があり、12 は山の神の数字だから、この数字を超えてはならないとされるためである。 モロビの香りは穢れを払い、魔除けの効力があると信じられていた。 旅立ちの際は、モロビを燻して全身を浄め、旅の安全を祈願した。 また阿仁マタギは、結婚式に出た後は、モロビを焚きお祓いしてから猟に出た。 森吉山登山は、根子だけでなく、打当、比立内などでも行われていた。 また、根子の分村である八木沢、萩形の人々もマタギを行っているため、この日は森吉山に登ったという。 言い換えれば、「 ブナの森に生かされた文化」 ブナ帯文化 と言える。

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マタギについて。マタギの人々は、何故熊を狩るのですか?何の為に狩る

マタギ 意味

お山のおもしえ学校 マタギ資料館 室町時代から続く大川原のマタギ文化 マタギとは、北東北三県の山間に住む猟師の事を言うが、一般で言うと猟師やハンターとは違い、マタギ独自の儀式や習俗を持つ猟師の事を言う。 例えば、山では山言葉を使う、山に入る際には、山立根本記または山立由来記という巻物を身に着ける事等が有名だ。 マタギが北東北三県 青森、秋田、岩手 に限定される理由は、江戸時代の公的資料である各地域の藩日誌に北東北三県の津軽藩、久保田藩、盛岡藩で「マタギ」という語が登場するのである。 他県の藩において猟をする者は、マタギではなく、猟師、山立猟師などと呼ばれていた。 山形や新潟など北東北三県以外で「マタギ」が登場する場合、それは主に秋田の阿仁マタギが江戸時代後期から明治にかけて他県に遠征をして猟をしていたため、彼らのことをマタギと呼んでいたのだ。 そんなマタギたちがこれまで一番活躍した時代は、江戸時代である。 それは、当時「熊の胆」が良薬としての価値が非常に高く、高値で取引され、マタギたちは各藩から優遇された。 津軽のマタギたちは「熊の胆」を弘前藩へ献納し優遇されていた時代だ。 江戸後期においてマタギたちは藩境警備もするようになるが明治期に入ると薬としての「熊の胆」の価値も下がりマタギ文化は衰退していくが、昭和初期までは大型獣の毛皮などが軍需品として取引されていたようだ。 青森県のマタギといえば、目屋マタギ 江戸後期誕生 や赤石マタギ 江戸中期誕生 が有名だが大川原マタギの歴史は古い。 平成二十二年には大川原かつて庄屋であった民家から南部藩第二十六代当主で戦国武将南部信直の狩猟免状が見つかったのだ。 あわせて、マタギたちが山に入る際に身につけていた巻物「山立根本記」も見つかった。 南部信直の狩猟免状は、秋田県大館市の老犬神社にも同じものが保管されている。 そこで、お山のおもしえ学校では「大川原のマタギ」文化を次世代に継承していくため、平成二十六年七月マタギ資料館オープンの運びとなりました。 マタギとは何か。 黒石市大川原のマミの穴掘り(穴ぐま狩り) (「大川原小百年誌」より) マタギという言葉が一体どういう意味なのか、その語源については定説はなく、色々な説が出ています。 例えば菅江真澄は、マダ 級・シナの木 の皮をはぐこと、「マダはぎ」が変わったものだといい、アイヌ語気源説や、インド起源説もあります。 弘法大師が追いはぎに襲われた時に、追いはぎが大師の威厳に打たれて平状し、改心して元の鬼退治に戻ったということで、又鬼の名を賜ったなどというような話もあります。 マタギと、一般の猟師やハンターといわれる人々との違いは、マタギ独特の儀礼や、習俗があることです。 例えば狩りをしている時には山言葉を使わなければならないとか、産火と祝言火を嫌うとか、さまざまな禁忌があり、また、忍者のように巻物を持っていて、マタギの起源というのが色々な形で示されています。 なかでも広範に流布しているのが「山立根本記 巻 」とよばれるもので、そこには磐司万三郎というマタギの祖先が日光の神様を助けた、それで猟をしてもよいことになった、といった話がのっています。 非常に不思議な存在のように見られていますが、これらの多くは修験道との関係が非常に深く、基本的には日本文化の中で説明されることが多いようです。 磐司万三郎の物語も、日光二荒山神社の縁起の変形であり、山寺立石寺の伝承にも関係しています。 マタギ語の分布 マタギについて紹介されている文献には、マタギが東北全体に分布すると書かれているものがあります。 しかしながらマタギという言葉は特に青森県、岩手県、秋田県に特有のものだと考えてよさそうです。 これに対し、他藩ではもっぱら「猟師」であり、仙台藩のみ「山立猟師」という語で出てきます。 猟師については、他の地域では狩人、鉄砲撃ち、殺生人、山子、山人といった言葉が使われますが、これを北東北ではマタギと呼んでおり、北東北特有のものとなっています。 山形県や新潟県にもまたぎの語があるのは、秋田 特に阿仁 の猟師が、江戸時代後期から明治期にかけて反境、県境を越えて南北に広範に行き来をして猟をした経緯があるからで、鈴木牧之の『秋山紀行』にも出てきます。 津軽にも来ていた形跡があり、こうした人々の動きを通じて、マタギの伝承は色々な形で各地に伝わりました。 それ故、南東北の方では「マタギ」という言葉はあっても「マタギというのは秋田の猟師のことだ」と言ったり、さらに「自分たちはマタギではない。 猟師だ」というような言い方をしているわけです。 歴史の中のマタギ マタギの狩猟文化については、およそ次のようにまとめられます。 まず第一に、北東北には「マタギ」という言葉を有する狩猟文化がありました。 その形成の起源にちうては、明らかではありませんが。 民俗学では猟師を表す古語である「山立」の転訛だという説があり。 ぞれが正しいのであれば。 修験道の成立=仏教伝来以降ということになります。 実際に猟師の由来をとく「山立根本記」は天台密教系の物語を踏襲しており、また、高野派という別系統は弘法大師が関わっています。 要するに、マタギ文化は、もともとあった原日本的文化に山んお宗教文化や伝承が混じり、さらに江戸時代の藩による政策 熊の胆の確保と藩境警備 や、阿仁の猟師の広範囲な活動に見られるような、日本国内の経済活性化とも関係した、まさに日本文化の変遷を色濃く反映したものなのです。 現代に続くマタギ文化というのは、こうして古代から現在に続く日本列島の大きな歴史の流れの中で生まれてきたものです。 そもそも猟師は、私たちみんなの歴史の一部、ふつうの歴史の一部と考えてといものなのです。

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マタギ

マタギ 意味

「以下」は改行せずとも次の文章を指す言葉として使える• 「以下」の文章について「記」「以上」はなしで良い• 「下記」は短い文書、「以下」は長い文書で使用する どちらもよく使う言葉なので、使い分けについてはしっかりしていきましょう。 4.「下記」の対義「上記」との使い分け方 「下記」の対義語として使われるのが「上記」です。 この2つの使い分けにも基準があります。 「上記」は「先述した内容」を指す時に使う 「下記」は「これから記載するもの」という意味合いに対し、「上記」は「先述した内容」という意味の言葉になります。 「下記」を使った場合、下に必ず「記」から始まる項目を記述するルールがあります。 しかし、「上記」には特にこのような使用ルールはありません。 相手にわかりやすく伝えたい場合は、「下記」を使い、同じフレーズを何回も使うのを避ける時には「上記」を使うと良いでしょう。 <例文>• They provide examples like the following. (彼らは下記のような例を提示した)• I place an order for the following. (下記のように注文します) 下記の情報:The following information 海外のホテルなどを予約するときなどによく使う言葉なので、覚えておきましょう。 「The following information」が「下記の情報」という意味の言葉となります。 あなたの情報や、相手からのに対して、「下記の情報となります」と記載し、その下にインラインで回答すると、とてもわかりやすいです。 <例文>• I sent the following email to you last month. (私は先月下記のメールをあなたに送りました)• The email address was incorrect. Please change it to the following(いただいたメールの住所に間違いがあったので、下記に変更をお願いします) 下記のとおりです:It is as follows 「follows」の前に「as」を付けることで、「下記のとおりです」という表現として使うことがあります。 「今回の議題は下記のとおりです」といった文章を送る機会は多いかと思うので、こちらを覚えておくととても便利です。

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