ボブ ホーナー。 ヤクルトに来たボブホーナーは、すごい選手だったんですか

「なにしろ日本を舐めてた」 元ヤクルト・ホーナー氏に広澤克実氏も呆れ顔

ボブ ホーナー

いよいよ今週末から、ゴールデンウイークが始まる。 ヤクルトOBの私にとって、この季節の思い出といえばプロ野球史上最強の助っ人、ボブ・ホーナーだ。 現役バリバリ29歳の強打者は、米大リーグ通算215本塁打の実績をひっさげ、1987年4月27日に来日。 5月5日のこどもの日にデビューしていきなり本塁打を放ち、翌6日も3本塁打の離れ業で「ホーナー旋風」を巻き起こした。 前年はブレーブスの看板打者として27本塁打。 その超大物が遠い日本までやってきたのは、年俸高騰を嫌った各球団のオーナーが共謀してフリーエージェント宣言した高給取りの選手を締め出したから。 浪人の危機となったホーナーにヤクルトが提示した年俸は、前年比3000万円アップの3億円。 当時の日本人の最高給は、中日・落合博満さんの1億3000万円だから、いかに破格だったかがわかる。 来日直前まで、私を含めヤクルトナインは「あんな大物が本当に来るのかな」と半信半疑。 夜の神宮球場で初めて打撃練習をしたときは、みんな居残ってその打球を見守り、度肝を抜かれた。 76スイング中23本がサク越え。 実に軽いスイングで、左翼スタンドにポンポンと放り込んだ。 本物の大リーガーを見ようと、神宮はデビュー戦から超満員。 1試合3本塁打を打った2戦目では、ヤクルト最後の攻撃となる8回2死で2番の角富士夫さん(現ヤクルト編成部)に打席が回ると、観客から「おまえは絶対(バットを)振るな! 四球でいいんだ!」などと珍しいヤジが飛んだ。 次打者のホーナーにプロ野球タイ記録の4本目がかかっていたからだ。 凡退した角さんは罵声の集中砲火を受け「やりにくくてしゃあないわ」と苦笑していた。 角さんは、ホーナーともう1人の助っ人野手のレオンと同じマンションに住んでいたため、球場の行き帰りは運転手代わりを務めていた。 ホーナーは帰宅前に必ず車を停め、ケンタッキーフライドチキンと缶ビールを買い込んだそうだ。 私も何度か一緒に飲みに行ったが、ビールの後は当時まだ珍しかったバーボンソーダを、ひたすら頼んでいた印象がある。 酒好きだが、性格は物静かで口数も少なめ。 練習はまるでしなかったが、オンとオフの切り替えはさすがで、試合になると赤鬼の形相で全力プレーした。 一塁を守るホーナーの金髪が神宮の夜風になびくのを見て、私は「大リーガーは格好いいな…」とあこがれのような思いを抱いた。 試合前はロッカーを背にして目を閉じ、瞑想(めいそう)しているのが常だった。 周囲は「すごいな。 これがメジャー流の精神統一か」と感心していたものだが…。 今思えば、ただ二日酔いで眠たかっただけかも。 単身赴任のホーナーは、来日10年目で日本通のレオンと連れだって、毎晩のように夜の街に繰り出していた。 それでもホーナーは打ちまくった。 地力に差があるレオンは、夜遊び疲れで成績を下げてしまったが…。 それでもホーナーは実働5カ月間の規定打席未満でセ・リーグ初の30本塁打越え(31本)を果たした。 その中身については次回にお話ししたい。 アリゾナ州立大時代の78年、原辰徳を擁する東海大との親善試合で来日し、全試合で本塁打。 同年の大リーグドラフトで全米1位指名を受け、ブレーブス入り。 いきなりメジャーデビューし、23本塁打で新人王。 1試合4本塁打を記録した86年オフにFA宣言。 交渉が不調に終わり、87年4月にヤクルトと契約。 93試合出場で31本塁打、打率・327、73打点を残した。 同オフにカージナルスと契約し米球界復帰。 4番を期待されたが、左肩故障で6月から戦列を離れ現役引退。 右投右打。 大リーグ通算1047安打、打率・277、218本塁打、685打点。 高知高時代は小柄なスラッガーとして「土佐の怪童」の異名を取り、高校3年時の1975年春の甲子園決勝では、原辰徳を擁する東海大相模高を自らの決勝打で破り優勝。 同年ドラフトでヤクルトに1位指名され入団。 87年限りで現役引退後は長く球団広報を務めた。 水島新司氏の野球漫画「ドカベン」に登場する微笑三太郎のモデル。 今年から本紙評論家を務める。

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記憶に残る輝き 2 〜日本を震撼させた選手たち ボブ・ホーナー、セシル・フィルダー〜

ボブ ホーナー

経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 時代のには、を擁するとの親善試合に来日。 東海大学との5試合を含む全7試合においてを放った。 同年に創設されたの最初の受賞者となり、当時のの通算本塁打58本とシーズン本塁打25本の新記録を樹立した(2013年現在はが通算本塁打100本とシーズン本塁打48本の記録を保持)。 プロ入りとブレーブス時代 [ ] のでよりを指名受ける。 での出場を拒み、いきなりデビューし(メジャーリーグではマイナー経験無しの選手は非常に稀)、6月16日のデビュー戦(対戦)では第3打席に(通算287勝、のちに入り)から2ラン本塁打を放つ。 89試合出場で. 266、23本塁打、66を記録し、らを抑えてを獲得する。 、と2年連続で30本塁打以上を放つ。 は肩や足の故障に悩まされて79試合出場で15本塁打に終わったが、は大きな故障もなく、2シーズンぶりの30本塁打以上を記録し、キャリア唯一の出場を果たすなど、ブレーブスの4番打者として成績を重ねた。 1983年1月、4年間550万ドルの契約を結んだ。 この時の契約は、体重109kgの彼が、シーズン中の金曜日に13回体重を計量し、97. 5kg以下の場合に1回あたり約7,700ドル、合計10万ドルのボーナスの出来高契約を含むものであった。 、は右手首の故障に悩まされるものの、には幾分回復し、27本塁打を記録。 7月6日の対戦で、メジャー史上11人目の1試合4本塁打を達成したが、チームは敗れた。 1試合4本塁打を記録した選手が居ながらチームが敗れたのはメジャー史上2回目で、20世紀では唯一であった。 また、「デビューから210本連続満塁本塁打なし」という当時のメジャー記録を打ち立てたが、対パイレーツ戦で211本目にして初の満塁本塁打を放ち、この試合での4-2の勝利に貢献した(にが通算248本目で初満塁本塁打を記録して更新した)。 同年オフにとなったが、年俸高騰により各球団のオーナーが示し合わせ、FA選手を締め出したためどこの球団とも契約できなかった。 ヤクルト時代 [ ] 浪人寸前のところを4月13日に率いるへの入団が内定し、27日に来日した。 は「シーズン50本塁打」という期待を込めて 50に決まった。 ヤクルトでのデビュー戦(5月5日対阪神4回戦、神宮)の来日第3打席での初球の外角低めの速球を905グラムの日本製バットで叩いて右翼ポール際へ1号2ラン本塁打。 翌6日の2戦目ではからなんと3本のソロ本塁打を放った。 1回二死での第1打席(来日第5打席)に0ボール2ストライクでの3球目真ん中低めのスライダーを左翼へ、3回の第2打席は3ボール1ストライクから四球、5回無死での第3打席は2ボール1ストライクでの4球目内角高めの速球を左中間へ、7回無死での第4打席はフルカウントでの6球目外角高めの直球をバックスクリーン中央へ叩き込んだ。 2試合目の本塁打は3本とも打った瞬間にそれと分かるものであり(3本合計の推定飛距離380m)、その際の観客の反応も大歓声というよりは、明らかに呆気にとられたような歓声と拍手が多くを占めていた。 最初の2試合で6打数5安打、打率. 833、本塁打4、打点5、四球2の日本球界デビューで、5月7日の3試合目に対戦した、、はストライクでの勝負を避け、事実上の敬遠策であった。 5月9日の4試合目は佐世保でが真っ向勝負して、初回二死の第1打席で外角高めの直球を右翼へ5号ソロ、6回の先頭打者での第3打席ではストライクゾーンから約3インチ(7センチ)外れた内角シュートを左翼場外へ6号ソロ本塁打を放ち、4試合で11打数7安打、本塁打6のデビューを飾り、黒船級の「 ホーナー旋風」を巻き起こし、シーズン終了までにいったい何本打つのだろうという期待をファンに抱かせた。 にもセリーグ一塁手部門でファン投票で選出された(腰を痛め出場辞退)。 最終的には故障で規定打席に達しなかったものの、93試合で打率. 327、31本塁打、73打点を記録した。 外国人選手が規定打席不足で30本塁打以上を記録したのは、この年のホーナーとの()、の()、の()、の()らがいる。 なお、8月9日のでの対阪神17回戦で7回表の先頭打者としてから18号本塁打となったはずの中越え同点ソロアーチを放ったが、続くが左飛に倒れて一死となった後、雷雨で49分間の中断を経て、21時18分にコールドゲームが成立し、6回で試合終了となったため、幻の本塁打が1本ある。 18号本塁打の打ち直しは8月12日での対広島16回戦で行われ、またもや7回表の先頭打者での打席で、投手交代したばかりのが投じた肩口から入る内角のパームボールを叩いた左翼へのソロ本塁打であった。 また、8月30日横浜での対大洋21回戦の3回表二死満塁の場面での直球を捉えた左中間への23号本塁打は来日して唯一の満塁弾であり、10月2日神宮での対阪神24回戦の5回一死一塁での高めのカーブを捉えて左翼フェンスぎりぎりに運んだ31号2ランが日本での最後の本塁打であった。 はホーナーの本塁打を「所属球団が勝利至上主義ではなかったため、チームの勝利に拘泥せず、伸び伸びと打った雄大なアーチ」と評した。 ホーナーは同年、プレーでの活躍のみならず、製品CMの出演料や、著書「地球の裏側にもうひとつの野球があった」の原稿料など、しめて5億円を稼いだと言われている。 ヤクルトのCMでは「おなかに菌力」と日本語のセリフを放った。 また、のCMではと共演している。 このほか、の向けゲーム『』に登場する敵キャラ「あかおにホーマー」のモデルにもなっている。 日本での生活を「とてもエキサイティングなものだった」という発言も残している。 国際スカウト中島国章は、現役引退後のホーナーに「日本では大きなケガをしなくて良かった。 (打率3割、30本塁打以上記録し)ヤクルトに迷惑をかけなくて良かったと今でも思っているよ」と声を掛けられたので、決してホーナーは日本が嫌いな訳ではなかったと振り返っている。 ホーナー旋風で神宮球場は連日満員となり、ヤクルトの観客動員はチーム成績が4位だったにも関わらず年間200万人を超えた。 カージナルス時代 [ ] 1987年オフにをFA(に移籍)で失い、クラークに代わる四番打者の補強を急務としていたと1年間総額わずか約1億円(当時)の契約で合意し入団した。 は監督であるがホーナーの獲得には否定的だったが、フロントが4番打者として期待しての入団だった。 しかし結局、開幕直後の4月にはから、さらに7月にはからをで獲得し、4番打者として起用することとなった。 ホーナーは左肩の故障のため、60試合の出場で、わずか3本塁打に終わる。 はのに招かれたが、契約には至らず、現役を引退した。 引退後 [ ] 、ホーナーはヤクルトの春季キャンプに臨時コーチとして招聘された。 データを駆使して、投手の配球を読んで打つんだ」と持論を展開した。 この講義に野村は「わが意を得たり。 俺と同じ考えだ」と舌を巻いたという。 (当時監督だったのたってのリクエストにより実現したものではないと野村本人が言っている) 引退後のホーナーはまた、石油とガスの会社を設立・経営したものの事業に失敗し多額の借金を抱え込んでいたが、メジャー選手会はFA選手締め出しを労使協約違反として訴え、賠償金2億8000万ドル(約308億円)が支払われた。 、元利合計4億3400万ドル(約477億円)に増えていた賠償金が分配され、ホーナーにも700万ドル(約7億7000万円)が支払われる事となった。 7月4日にはアメリカ大学野球殿堂入りを果たした。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 球 団 89 359 323 50 86 17 1 23 174 63 0 0 1 9 24 2 2 42 7. 266. 313. 539. 852 121 515 487 66 153 15 1 33 269 98 0 2 0 3 22 6 3 74 9. 314. 346. 552. 898 124 495 463 81 124 14 1 35 245 89 3 1 0 4 27 3 1 50 16. 268. 307. 529. 836 79 336 300 42 83 10 0 15 138 42 2 3 0 3 32 3 1 39 6. 277. 345. 460. 805 140 572 499 85 130 24 0 32 250 97 3 5 0 3 66 3 4 75 13. 261. 350. 501. 851 104 439 386 75 117 25 1 20 204 68 4 2 0 2 50 2 1 63 14. 303. 383. 528. 911 32 129 113 15 31 8 0 3 48 19 0 0 0 2 14 2 0 17 3. 274. 349. 425. 774 130 540 483 61 129 25 3 27 241 89 1 1 0 6 50 4 1 57 18. 267. 333. 499. 832 141 581 517 70 141 22 0 27 244 87 1 4 0 10 52 8 2 72 16. 273. 336. 472. 808 93 355 303 60 99 15 0 31 207 73 0 0 0 1 50 3 1 65 9. 327. 423. 683 1. 106 60 247 206 15 53 9 1 3 73 33 0 0 0 8 32 6 1 23 9. 257. 348. 354. 703 :10年 1020 4213 3777 560 1047 169 8 218 1886 685 14 18 1 50 369 39 16 512 111. 277. 340. 499. 839 :1年 93 355 303 60 99 15 0 31 207 73 0 0 0 1 50 3 1 65 9. 327. 423. 683 1. 106 年度別守備成績 [ ] 年 度 球 団 試 合 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 1978 ATL - 89 81 199 13 17. 956 1979 45 414 24 7 32. 984 82 56 143 15 11. 930 1980 1 2 2 0 0 1. 000 121 78 251 23 20. 935 1981 - 79 51 129 12 6. 938 1982 - 137 102 217 10 20. 970 1983 1 2 0 0 0 1. 000 104 76 153 10 18. 958 1984 - 32 21 61 3 6. 965 1985 87 892 58 0 105 1. 000 40 25 61 11 6. 887 1986 139 1378 102 8 138. 995 - 1988 STL 57 463 40 5 39. 990 - MLB 330 3151 226 20 314. 994 684 490 1214 97 104. 946• 各年度の 太字はリーグ最高 表彰 [ ] MLB• (1978年)• :1回 (1980年7月) 記録 [ ] MLB• 選出:1回 () NPB• 初出場・初先発出場:1987年5月5日、対4回戦()、3番・として先発出場• 初打席:同上、1回裏にから四球• 初安打:同上、3回裏にから遊撃内野安打• 初本塁打・初打点:同上、5回裏に仲田幸司から右越2ラン• 初三振:1987年5月10日、対戦(長崎)、の前に見逃し三振 背番号 [ ]• 5(1978年 - 1984年、1988年)• 11(1985年 - 1986年)• 50(1987年) CM出演 [ ]• サントリー缶ビール 関連情報 [ ] 著書 [ ]• 『地球のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった』安西達夫(中島国章)訳(, 1988年3月) 脚注 [ ].

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「なにしろ日本を舐めてた」 元ヤクルト・ホーナー氏に広澤克実氏も呆れ顔

ボブ ホーナー

いよいよ今週末から、ゴールデンウイークが始まる。 ヤクルトOBの私にとって、この季節の思い出といえばプロ野球史上最強の助っ人、ボブ・ホーナーだ。 現役バリバリ29歳の強打者は、米大リーグ通算215本塁打の実績をひっさげ、1987年4月27日に来日。 5月5日のこどもの日にデビューしていきなり本塁打を放ち、翌6日も3本塁打の離れ業で「ホーナー旋風」を巻き起こした。 前年はブレーブスの看板打者として27本塁打。 その超大物が遠い日本までやってきたのは、年俸高騰を嫌った各球団のオーナーが共謀してフリーエージェント宣言した高給取りの選手を締め出したから。 浪人の危機となったホーナーにヤクルトが提示した年俸は、前年比3000万円アップの3億円。 当時の日本人の最高給は、中日・落合博満さんの1億3000万円だから、いかに破格だったかがわかる。 来日直前まで、私を含めヤクルトナインは「あんな大物が本当に来るのかな」と半信半疑。 夜の神宮球場で初めて打撃練習をしたときは、みんな居残ってその打球を見守り、度肝を抜かれた。 76スイング中23本がサク越え。 実に軽いスイングで、左翼スタンドにポンポンと放り込んだ。 本物の大リーガーを見ようと、神宮はデビュー戦から超満員。 1試合3本塁打を打った2戦目では、ヤクルト最後の攻撃となる8回2死で2番の角富士夫さん(現ヤクルト編成部)に打席が回ると、観客から「おまえは絶対(バットを)振るな! 四球でいいんだ!」などと珍しいヤジが飛んだ。 次打者のホーナーにプロ野球タイ記録の4本目がかかっていたからだ。 凡退した角さんは罵声の集中砲火を受け「やりにくくてしゃあないわ」と苦笑していた。 角さんは、ホーナーともう1人の助っ人野手のレオンと同じマンションに住んでいたため、球場の行き帰りは運転手代わりを務めていた。 ホーナーは帰宅前に必ず車を停め、ケンタッキーフライドチキンと缶ビールを買い込んだそうだ。 私も何度か一緒に飲みに行ったが、ビールの後は当時まだ珍しかったバーボンソーダを、ひたすら頼んでいた印象がある。 酒好きだが、性格は物静かで口数も少なめ。 練習はまるでしなかったが、オンとオフの切り替えはさすがで、試合になると赤鬼の形相で全力プレーした。 一塁を守るホーナーの金髪が神宮の夜風になびくのを見て、私は「大リーガーは格好いいな…」とあこがれのような思いを抱いた。 試合前はロッカーを背にして目を閉じ、瞑想(めいそう)しているのが常だった。 周囲は「すごいな。 これがメジャー流の精神統一か」と感心していたものだが…。 今思えば、ただ二日酔いで眠たかっただけかも。 単身赴任のホーナーは、来日10年目で日本通のレオンと連れだって、毎晩のように夜の街に繰り出していた。 それでもホーナーは打ちまくった。 地力に差があるレオンは、夜遊び疲れで成績を下げてしまったが…。 それでもホーナーは実働5カ月間の規定打席未満でセ・リーグ初の30本塁打越え(31本)を果たした。 その中身については次回にお話ししたい。 アリゾナ州立大時代の78年、原辰徳を擁する東海大との親善試合で来日し、全試合で本塁打。 同年の大リーグドラフトで全米1位指名を受け、ブレーブス入り。 いきなりメジャーデビューし、23本塁打で新人王。 1試合4本塁打を記録した86年オフにFA宣言。 交渉が不調に終わり、87年4月にヤクルトと契約。 93試合出場で31本塁打、打率・327、73打点を残した。 同オフにカージナルスと契約し米球界復帰。 4番を期待されたが、左肩故障で6月から戦列を離れ現役引退。 右投右打。 大リーグ通算1047安打、打率・277、218本塁打、685打点。 高知高時代は小柄なスラッガーとして「土佐の怪童」の異名を取り、高校3年時の1975年春の甲子園決勝では、原辰徳を擁する東海大相模高を自らの決勝打で破り優勝。 同年ドラフトでヤクルトに1位指名され入団。 87年限りで現役引退後は長く球団広報を務めた。 水島新司氏の野球漫画「ドカベン」に登場する微笑三太郎のモデル。 今年から本紙評論家を務める。

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