ほうとう 三国志。 新三国志 相性のいい組み合わせはこれ!至宝と武将(蔵宝閣10)

「泣いて馬謖を斬る」の意味と使い方!三国志の背景と合わせて解説

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この記事の目次• 最初は劉備に嫌われていた? 若かりし頃の龐統は周囲から過小評価を受けていました。 それは龐統が身なりの冴えない人物であったからであると言います。 『三国志演義』では、色黒で太いゲジ眉、おまけに鷲鼻という醜男として描かれています。 実は劉備も、龐統の見た目を嫌い、彼を軽んじた一人でした。 龐統は劉備に仕えますが、劉備は彼を閑職に追いやって遠ざけてしまいます。 龐統はそのことが不服で仕事をサボり、それを知って怒った劉備は彼を一端はクビにしてしまいます。 龐統と旧知の中であった呉の魯粛はこの顛末を聞き、劉備に手紙を送ります。 その内容は「龐統は与えられる仕事が大きくなるほど、その才能を発揮する人物です」というものでした。 さらに孔明のとりなしを受けた劉備は致し方なく龐統を呼び出し、一晩語り明かします。 ようやく龐統の才覚を理解した劉備は、彼を孔明と同じ役職に抜擢しました。 劉備の入蜀に尽力するも戦死 荊州を勢力下に置いた劉備は、孔明を荊州に残して守らせる一方、自身は益州(蜀)攻略に向かいました。 実は当初、劉備は益州攻略には乗り気ではありませんでした。 それは石州を収めている人物、劉璋が劉備と同じく漢王朝の末裔であり、つまり劉備自身とは同族に当たる人物であったためでした。 この劉備の優柔不断を諌めたのが 龐統です。 その言葉に劉備は益州攻略の決心を固め、龐統を軍師として同行させました。 益州攻略に当たり、龐統は三つの作戦を立案、速攻で益州の都の成都を突く作戦を上策とします。 しかし劉備はこの上策を取ることを避け、敵将を騙して兵を奪ってから成都を目指す別の案を採用しました。 龐統の作戦通り、劉備は龍勝配下の将軍を騙し討ちにして戦果をあげます。 しかし成都の前にある雒城(らくじょう)の最中、龐統は流れ矢に当り、36歳の若さで戦死してしまいました。 劉備は龐統を失ったことを悲しみ、思い出す度に涙を流したと言います。 龐統が戦死したとされる場所には、後の時代に『落鳳坡(らくほうは)』=鳳凰が落ちる場、という地名が与えられています。 三国志演義では『落鳳坡』という地名に龐統が嫌な予感を感じ、その予感が的中してしまうという顛末が描かれています。 関連記事: 関連記事: 実は呉と縁が深かった龐統 さて。 劉備に仕える以前の龐統は、どこで何をしていたのでしょうか? 正史三国志には、龐統が周瑜に仕えていたとする劉備の言が残されています。 同じく正史に、病死した周瑜の遺体を送り届ける役を龐統が務めたという記述もあることから、 彼が周瑜の配下であった可能性が高いと考えられます。 龐統を一端はクビにした劉備をとりなし、もう一度彼を起用するきっかけを作ったのは呉のでした。 また、龐統は陸績(りくせき)や全琮(ぜんそう)、顧邵(こしょう)といった呉の重臣たちと懇意にしており、 互いに褒め称えあう関係であったとも言います。 これだけ呉と縁の深い龐統がなぜ、孫権ではなく劉備に仕えたのでしょうか? 一説には、なきあと、孫権に軽んじられた龐統がその元を離れたとも言われています。 また、孫権の密命を受け劉備の動向を探るスパイであった、という説もあるようですが、定かではありません。 関連記事: 関連記事: 龐統を起用した劉備の思惑とは? 一度はクビにしながらも、龐統を重用した劉備ですが、彼はただその才覚のみを欲したのでしょうか? 呉と龐統の関係を考えると、すこし違った解釈も可能と思われます。 荊州入りする以前の劉備軍は、治める土地を持たない流浪の軍隊でした。 華北の都を押さえる曹操の魏や、揚州を代々治めて来た孫権の呉に対し、劉備の足元は極めておぼつかないものでした。 思うに、劉備は龐統の人脈に期待を寄せていたのではないでしょうか? 諸国を流浪し、荊州にたどり着いた劉備には曹操や孫権のような確たる地盤を持っていません。 彼は荊州や益州の人から見れば、あくまで『よそ者』に過ぎないのです。 そんな劉備にとって、龐統が呉の重臣たちとの間に築いていた人脈は大いに役に立つものと思われた可能性は高いのではないでしょうか? 龐統が歴史の表舞台に立ったのはごく短い期間でしかなく、その逸話も多くは残されていません。 しかし、龐統の才能は孔明と並び立つものであったとされています。 もし彼が落鳳坡で戦死していなければ、その後の蜀はどうなったでしょうか? 孔明と龐統を、漢の高祖劉邦に仕えた二人の名軍師、張良と韓信になぞらえ、 龐統が生きていれば劉備による全土統一も可能だったかもしれない、という人もいます。 いずれにせよ、歴史の流れが大きく変わった可能性が高いことだけは確かです。 関連記事: 関連記事: 関連記事:.

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三国志を彩る個性豊かな知将7選

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龐統、字は士元(しげん)。 才能がありながら口下手で身なりが冴えなかったためあまり評判が良くありませんでしたが、人物鑑定で有名な司馬徽(しばき)に、その才能を認められたことでようやく名が広がっていきます。 龐統は俗にいう天才肌の知将だと思います。 劉備配下になりたての頃、耒陽(らいよう、現在の湖南省耒陽市)の県令の職を任されたものの、龐統は1か月の間お酒ばかり飲んで仕事を全くしなかったため、村人から訴えられました。 しかし、劉備が派遣した張飛に仕事をしないことを問いただされると、溜まっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまたという逸話があります。 赤壁の戦いでは、曹操の軍営に潜り込み曹操に船酔い対策として、船同士を鎖で繋げることを進言することにより。 周瑜の連環計が成功します。 諸葛亮(しょかつりょう)の臥龍(ふくりゅう)に対して龐統は鳳雛(ほうすう)と称されるほどの人物でしたが、益州の戦いで矢にあたり36歳の若さで死去します。 郭嘉、字は奉孝(ほうこう)。 郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に大変優れていました。 曹操に呼び出された際に郭嘉は天下のことを議論しました。 曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と才能を高く評価し、郭嘉は「真に我が主君だ」と言っていたそうです。 そして曹操の軍師として仕え、数々の助言をおこないました。 呂布(りょふ)を討伐を進言し、籠城する呂布を攻めあぐねたところ水計を行うように進言をし呂布に勝利しました。 曹操が劉備を討伐しようとしていましたが袁紹に背後を襲われることを心配していましたが、郭嘉は袁紹(えんしょう)が決断を欠く人物であるから迅速に行動できないと判断して、劉備(玄徳)を討伐することを進言しました。 曹操は劉備(玄徳)を攻撃し敗走させました。 この際、袁紹は攻撃してこなかったそうです。 袁紹死後、袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)が袁家の後継争いをしていました。 曹操は内紛につけこんで袁譚と袁尚の討伐を考えていましたが、郭嘉は「袁紹は、袁譚と袁尚のどちらが後継者か指名しないまま死んだので、このまま攻撃して両者を団結させずとも、放っておけば後継者争いを始めます。 南の劉表を討伐すると見せかけて変化が起こるのを待つのがよいでしょう」と進言しました。 郭嘉の進言は当たり袁譚と袁尚は骨肉の争いを始めした。 このように将来を見通す洞察力よる的確な進言により軍師として貢献しました。 陸遜、字は伯言(はくげん)。 本名は陸議(りくぎ)。 「呉の四姓 ごのしせい 」といわれる有力豪族の陸家の出身と言われています。 軍事と政治における才能のある軍師でした。 先見の明(事が起こる前にそれを見抜く見識)があり、周到に熟考してことをなす性格でした。 陸遜は異民族である山越の討伐での活躍が孫権に認められ重要視されるようになりました。 夷陵の戦いでは大都督に任命され荊州を取り戻すために劉備(玄徳)討伐を行います。 侵攻してきた劉備(玄徳)軍の伏兵を見破り、火計などで攻撃し、劉備(玄徳)軍に壊滅ダメージを与えます。 また、石亭の戦いでは魏の曹休(ソウキュウ)率いる10万を相手に石亭に誘い込み、曹休に大勝しました。 功績の割に陸遜の評価が低いことがありますが、諸葛亮と並ぶほど知将でした。

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龐統士元 諸葛亮と並び称され、鳳雛と呼ばれた名軍師の生涯|三国志

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【スポンサードリンク】 当サイトをご覧の方の中には、 まだ三国志についてほとんど知らないという方 もいらっしゃるかと思います。 そこで今回、 『三国志』ってどんな話なんだろう? という方のために、おおまかに理解するためのまとめを作ってみました。 名づけて 『ざっくりとわかる三国志 Part. 2』です。 今回はその前編、王朝末期の混乱の中から、 劉備(りゅうび) 曹操(そうそう) 孫堅(そんけん) といった英雄たちが現れ、 三国志の時代の基礎を作りあげるまでを紹介します。 なお、このまとめは『三国志演義』(史実をもとに制作された小説版)に準拠しています。 歴史上の事実と、 フィクションである『三国志演義』では細部にいろいろな違いがあるのですが、 まずは ストーリーとして有名な『三国志演義』の概要をざっくりと知った上で、 興味を持った部分から細かいところを攻めていく、 というのが 『三国志』を知る 良い方法ではないでしょうか? 前回をご覧になっていらっしゃらない方は、まずそちらからご覧戴くことをオススメします。 前回の それでは、 ざっくりと行ってみましょーう!!! 【スポンサードリンク】 曹操は袁氏を滅ぼす 官渡の戦いで大敗した袁紹は大きく後退を強いられ、2年後に病死しちゃいます。 アディオス!袁紹! 袁紹の後を継いだのは三男の袁尚(えんしょう)でしたが、 長男の袁譚(えんたん)はこれに不服で、二人は対立することになります。 曹操は袁尚と袁譚の争いに乗じてこれを攻めます。 勝手に自滅していく袁家に 曹操は笑いが止まりません(笑) まず先に袁譚が曹操に降伏 袁尚は次男の袁煕(えんき)と共に更に遼東半島を支配していた 公孫康(こうそんこう)を頼って落ち延びます。 しかし、曹操を恐れていた公孫康は二人をだまし討ちにし、その首を曹操に届けました。 こうして袁氏は滅び、 曹操は河北をその支配下において自身の権力を確立します。 三顧の礼をもって孔明を軍師に迎える 曹操が袁氏を攻め滅ぼした頃、 劉備は南方、荊州(けいしゅう)を支配していた 劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていました。 劉備は地元で名を知られた学者の司馬徽(しばき)と出会い 彼に『臥龍』(がりゅう)と『鳳雛』(ほうすう) と呼ばれる二人の優秀な人材がいることを聞かされます。 ようやく三度目にして劉備と対面した孔明は、 北部を平定して強大になった曹操や南東に一大勢力を持つ孫権(そんけん)と直接戦うのではなく、 まずいま劉備のいる荊州とその西に当たる益州(えきしゅう)を手中にして足元を固め、 その後に曹操の魏(ぎ)と孫権の呉(ご)と天下を争うべきであるという 『天下三分の計』(てんかさんぶんのけい)を説きます。 孔明の見識にほれこんだ劉備は彼を軍師に迎えました。 これが有名な『三顧の礼』(さんこのれい)です。 南方へ侵攻する曹操軍 劉備は呉と同盟して赤壁の戦い 208年、河北を手中に収めた曹操は献帝から皇帝に代わって国を動かすことのできる 最高権力の地位である丞相(じょうしょう)に任命され、 いよいよ南方の制圧に本格的に乗り出します。 曹操軍の侵攻を前に、荊州を支配していた劉表が病死 後継ぎの地位を巡って対立が起こります。 この混乱に乗じて曹操軍は侵攻を進め、 劉備は更に南方の地、江夏(こうか)へと逃れます。 その頃、孫権は? 曹操の荊州侵攻の様子を探らせようと、 呉の孫権は配下の魯粛(ろしゅく)を劉表の弔問を名目として荊州に送ります。 孔明はこれを好機と捉え、 劉備に呉の孫権と組んで曹操に対抗することを提案 魯粛と共に呉へとおもむき、孫権以下の呉の重臣との議論を制して同盟することに成功します。 呉軍は孔明と共に劉備の配下となった『鳳雛』こと龐統(ほうとう)の作戦を起用 揚子江の赤壁に集結した魏の艦隊を火攻めにします。 魏軍は大損害を出し、曹操は撤退せざるを得なくなります。 これが有名な赤壁の戦いです。 劉備が荊州を支配下に置き、 益州への侵出を図る 荊州を支配下に置いた劉備は西の益州への侵出を図ります。 その頃益州では、その北方に位置する漢中(かんちゅう)の地を支配する 新興宗教の五斗米道(ごとべいどう)の指導者、張魯(ちょうろ)による侵略が懸念されていました。 張魯の侵攻を恐れた益州の領主の劉璋(りゅうしょう)は曹操に助けを求めますが、 配下の張松(ちょうしょう)は彼を裏切って、 劉備を益州に導き入れることを画策します。 曹操の助けを得られなかった劉璋は劉備に援軍を求めてきます。 劉備はその機に乗じて益州へ軍勢を進めますが、その最中に張松の裏切りが発覚 彼は死罪となり 劉備に付き従った龐統は落鳳坡(らくほうは)という場所で戦死してしまいます。 荊州の留守を預かっていた孔明は張飛を援軍に送り、 体制を立て直した劉備軍は益州を掌握、劉璋は降伏します。 曹操と孫権の争いはこう着状態に 劉備が益州を攻略している頃、 一時的に曹操と停戦していた孫権が軍を動かし、 魏の攻略に乗り出します。 魏と呉の国境に当たる合肥(がっぴ)城を孫権は大軍で包囲しますが、 城を守る武将、張遼(ちょうりょう)や楽進(がくしん)の奮戦によって敗北、 魏と呉の争いはこう着状態に陥ります。 漢中を支配していた張魯の降伏を受けた曹操は、益州の劉備討伐に乗り出します。 しかし、劉備は孔明の作戦に従い、曹操軍を大敗させて漢中を手中におさめ、 献帝から漢中王(かんちゅうおう)に任じられます。 ここに孔明の考えた『天下三分の計』は成立したかに見えましたが……。 関羽が敗死し、劉備は荊州を失う 曹操と不可侵条約を締結した孫権は、西暦220年、荊州奪取のため、 配下の呂蒙(りょもう)に侵攻を命じます。 呂蒙は荊州城にいた虞翻(ぐほん)や糜芳(びほう)を説得して城を占拠。 荊州の守りについていた関羽は曹仁率いる魏軍と呂蒙の呉軍に挟み撃ちとなり、 敗走の上に呂蒙に捉えられ、処刑されてしまいます。 呂蒙は討ち取った関羽の首を曹操に贈りますが、 曹操は関羽の亡霊を恐れるようになり、 衰弱した上に死んでしまいます 関羽を討ち取った呂蒙も、関羽の呪いを受けて死に至ります。 曹操が死に、後を継いだ曹丕が皇帝の座に 曹操亡き後を継いだ曹丕(そうひ)は献帝に帝位を譲ることを迫り、 献帝は曹丕にその地位を明け渡します。 漢王朝400年の歴史に幕が降り、 新たに魏王朝が誕生します。 劉備、蜀の皇帝となる 漢王朝がついえたことを受け、孔明は劉備に帝位につくことを進めます。 劉備は孔明の提案を受けて皇帝へと即位し、 蜀(しょく)を建国します。 関羽の仇を討つ為に呉へと出兵 関羽の仇討ちを諦められない劉備は、呉へと出兵します。 しかし、その最中、 張飛に暴力を受けた配下の者が彼を暗殺するという事件が置きてしまいます。 劉備は関羽の息子である関興(かんこう)と、 張飛の息子である張苞(ちょうほう)を従え63万の大軍を持って呉の軍勢と激突します。 呉軍は多大な損害を受け、劉備との和平を図りますが拒絶されてしまいます。 呉の窮地を救う陸遜(りくそん) 孫権から新たに総大将に命じられた陸遜(りくそん)は 劉備の軍勢を火攻めで打ち破り、劉備は白帝城(はくていじょう)へ撤退を余儀なくされます。 劉備は心痛のために病の床につき、 孔明に後のことを託して息を引き取ります。 孔明、劉禅に『出師の表』を捧げて 魏討伐の軍を起こす 劉備の死後、 皇太子であった息子の劉禅(りゅうぜん)が蜀の皇帝の地位に就きます。 孔明は蜀の「後顧の憂い」(こうこのうれい)であった南方の孟獲率いる蛮族の平定に乗り出します。 孟獲は7度にわたって孔明に囚われますがその都度解き放たれ、ついに孔明に心服し、蜀に降伏します。 南方討伐を終えた孔明は、魏を打倒することを決意 その心情を『出師の表』(すいしのひょう)にしたためて劉禅に捧げます。 ここから、孔明の五度に渡る魏攻略=北伐(ほくばつ)が始まります。 乞うご期待!.

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