古関 裕 而。 文春新書『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』辻田真佐憲

朝ドラ「エール」のモデルの古関裕而と妻・金子の経歴を紹介!作曲した楽曲一覧!

古関 裕 而

〜もくじ〜• 窪田正孝が演じる古山裕一(こやまゆういち)ってどんな役? 裕一が音に、「ネギはのどに良い」と持ってきてくれました。 いじめられて傷を作って帰った日に、父親から新しく買った舶来品のレコードを効かないかと誘われるが裕一は興味を持たなかったが、レコードから流れる「威風堂々」のメロディーに裕一は心を奪われます。 運動が苦手な裕一は運動会の徒競走で転んで起き上がれなくなります。 するとハーモニカの音色とともに会場中に手拍子が広がり、裕一は立ち上がり音楽に包まれながらゴールします。 これが人生で初めて自分へ向けてのエールでした。 小学5年生になり、担任で音楽教師の藤堂先生から作曲の課題が与えられます。 父親から五線紙と作曲の教本を渡され読むもどうすればいいかわからないまま。 その時、藤堂先生の言葉を思い出し、学校のオルガンを鳴らしたところ閃いたかのように音符を書きはじめます。 藤堂先生はその曲を見て驚愕し、裕一は自身の才能に気付きます。 【第2週・運命のかぐや姫】 豊橋で陸軍向けの馬具の製作販売している関内家は5人家族で、三姉妹の真ん中の音は11歳。 学芸会で「竹取物語」の演目をクラスですることになります。 音は主役のかぐや姫を演じたかったが役に選ばれず落ち込みます。 落ち込んでいた音は教会でオペラ歌手の双浦環(ふたうらたまき)が歌っているのを見て心を奪われ、父親の安隆に歌を習いたいと告げます。 ある日、安隆は事故で亡くなってしまいます。 母親の光子が商売を続けようとするが取引先から契約切れをちらつかされ、職人も去ってしまう危機に家族で乗り越えようとします。 【第3週・いばらの道】 大正15年、裕一は商業高校に通いハーモニカ倶楽部に所属し独学で音楽を勉強続けていたところ、定期演奏会でメンバーの自作した曲から選んだ作品を演奏することになり、裕一は作曲に励みます。 ある日裕一は「喜多一」を弟の浩二に継がせ、裕一の夢を応援すると言われます。 だが、不況の影響で経営が傾き、裕一は夢を諦めることになってしまいます。 高校卒業後に「川俣銀行」に勤めていた裕一は同僚の誘いでダンスホールである女性に出逢い恋に落ちます。 【第4週・君ははるか】 1年後銀行員として働いていた裕一の元に「国際作曲コンクール」に挑戦しないかという話しが舞い込んできます。 長く音楽から離れていたためなかなか曲ができずにいた裕一は友人のヒントからメロディーが湧いてきます。 そして、裕一は今回のこれを区切りに音楽に分かれを告げる決心をします。 一方、歌手を夢見る音は御手洗清太郎の下で声楽を学んでいました。 そして、あることをきっかけに裕一と文通でつながります。 さらに裕一は夢への道が開かれるが、現実と夢の間で家族も巻き込み、自身の恋心も揺れ動きます。 【第5週・愛の狂騒曲】 豊橋の関内家に突然裕一が訪問してきます。 翌日、音は裕一に思い出の地を案内し、二人は距離を縮めていきます。 そして、裕一のことを聞いた興行師の鶴亀寅吉から裕一に演奏会の話しを持ち出され、演奏会を行うことに。 しかし、音の母親の光子と福島から裕一を探しに豊橋まできた裕一の父親の三郎は二人を別れさせようとします。 【第6週・ふたりの決意】 福島に戻った裕一は音と一緒になることに反対する家族の気持ちを知り気持ちが揺れます。 そして、音楽の夢を打ち破る知らせが裕一に届きます。 音は裕一が音楽の道を諦めることを知ります。 どうしても裕一に夢を諦めてほしくない音は、東京のレコード会社に裕一を売り込みます。 そして、裕一は東京に向かう決意をします。 【第7週・夢の新婚生活】 周囲の反対を押し切り上京した裕一は音との新婚生活をスタートさせ、レコード会社と専属契約も交わします。 音は音楽学校に入学をします。 多くの曲を作曲するが一つも採用されず、同期の木枯正人(こがらしまさと)の曲がレコードにあると聞き裕一は焦ります。 そして、裕一は音の上級生であり幼馴染の佐藤久志と再開を果たします。 なかなか曲が採用されない裕一にレコード会社から二年目の契約金の減額が言い渡されてしまいます。 そして、音は音楽学校の記念公演で主役の選考を受けることになります。 【第8週・紺碧の空】 裕一の元に早稲田大学応援部の田中隆が訪れます。 早慶戦で慶応義塾大学に連敗中の早稲田大学のために新しい応援歌を作曲してほしいという依頼でした。 締め切りまで10日後。 しかし、裕一は一向に曲が書けず諦めてしまいます。 音はそんな裕一を見て行動を起こします。 【第9週・福島行進曲】 音楽学校の記念公演の二次審査が行われ、審査員席には音が憧れる双浦環の姿もあります。 音は最終選考まで残りますが、環から厳しいことばを受け落ち込みます。 そして、演目の「椿姫」の世界を理解するためにカフェーで女給として働きます。 カフェーに来店した鉄男はかつての恋人の菜穂子と再会します。 その再会から鉄男は詩を書き上げた「福島行進曲」を裕一と久志に見せます。 そして、音は記念公演の最終選考を受けます。 【第10週・ふたりの夢】 仕事を辞め鉄男が上京してきます。 裕一は同僚の木枯から高梨一太郎の詩に曲をつけてほしいという依頼を受けます。 そして、レコード会社からこれが最後のチャンスだと言い渡されます。 音は記念公演に向けて呼吸法や体力作りに取り組みます。 しかし、地道な特訓をしている最中あることが判明し、周囲からも舞台に立つことも反対されてしまいます。 【第11週・故郷の歌】 裕一と音の間に娘の華が生まれ、4歳になります。 裕一に小学校の担任だった藤堂から校歌を作曲してほしいと手紙が届き、同時に母親からも手紙が届き家族3人で故郷の福島に行くことにします。 福島に戻った夜には元同僚やハーモニカ倶楽部、喜多一の元従業員などが集まり宴会が開かれます。 裕一と浩二のわだかまりは癒えぬまま、音は三郎の体調の異変に気づきます。 【第12週・あの世、パリ、神田】 ある日、音の元に亡き父親の安隆が白装束に三角頭巾を着けた姿で現れます。 そして、残した娘三人と妻・光子のもとに向かいます。 大正2年、若き日の双浦環が歌手を目指して舞台の本場のパリにやってきます。 そこである男と出会います。 彼女の知られていない過去が描かれます。 裕一たちは喫茶店「バンブー」の保と妻の恵のなれ初めを聞きます。 二人が一緒になったきっかけと現在の裕一と音につながる過去に驚きます。 【第13週・新人歌手は誰だ】 昭和11年、裕一は球団歌やご当地ソングを手掛け安定した生活を送っています。 音楽学校を卒業した久志だが、オペラ歌手としてデビューできずにいました。 そこで、裕一はレコード会社の新人歌手募集に応募することを勧めます。 時同じく、豊橋から音の声楽の先生であった御手洗が新人歌手募集に応募する上京します。 久志は御手洗はライバルとなります。 そして、裕一の元に田ノ上五郎が訪ねてきます。 【第14週・弟子の恋】 田ノ上五郎は裕一と同じように独学で音楽を学んできて、裕一の弟子になるために上京をしてきました。 音の妹の梅が作家としての執筆活動のため古山家に居候することになります。 梅は自分の目指した世界に少し絶望し、五郎も自分の才能のなさに悩みます。 やがて二人に心を通わせる展開が待ち受けます。 母・ヒサさんの実家は、 福島県有数の資産家・川俣の武藤家なんだって! 楽しそうに聴いている息子の姿を見た母親が、小さなピアノを購入すると古関裕而さんは、喜んで夢中でピアノに向かいます。 弾いているうちに音符の意味がわかるようになり、小学校を卒業する頃には、 楽譜が読めるようになっていました。 古関裕而さんの青年期 1916年(大正5年)、7歳のときに 福島県師範学校附属小学校へ入学。 10歳の頃には楽譜が読めるようになり、市販の 妹尾楽譜などを買い求めるようになります。 作曲に夢中になった古関裕而さんのもとには、クラスメイトが詩を持って作曲を依頼してくるようになりました。 朝ドラ決定の古関裕而先生の母校は福島商業高校。 昭和30年前後の旧校舎、商業実践室付近の写真です。 家業を継ぐために商業高校に通いますが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中でした。 この頃も、 妹尾楽譜や山田耕筰著の 「作曲法」等を買い集め、独学で作曲法の勉強を続けています。 1927年(昭和2年)18歳の頃に、ペンネームを「古関裕而」にします。 ラジオが大好きだった古関裕而さんは、福島商業学校時代に 楽治雄(らじお)というペンネームも使用していました。 前年に即位した昭和天皇の名前が「裕仁」(ひろひと)であったため、世間では名前に「裕」の漢字を使用するのが遠慮されていました。 古関裕而さんは「裕」と「而」の漢字の組み合わせを好んでこのペンネームにしたと説明しています。 真意はわかりませんが、昭和2年から古関裕而という名前を使い始めたので、昭和天皇の名前から字を拝領しているのではないかとも言われています。 卒業後は、 川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職。 この頃、学生時代から憧れていた山田耕筰さんの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りをします。 1929年(昭和4年)、古関裕而さんが作曲した管弦楽のための 舞踊組曲 『竹取物語』が、ロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールで 2位に入賞しました。 はじめてのレコードは 『福島行進曲』です。 1931(昭和6)年には、 早稲田大学応援歌 『紺碧の空』を作曲しました。 同年9月、コロムビアの顧問山田耕筰さんの推薦で コロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京します。 東京では菅原明朗さんに師事しました。 しかし実家が破綻してからは一族を養うため、クラシックの作曲から離れることに・・・。 東京に移ってからのオーケストラ作品に、 関東大震災を描いた交響詩 『大地の反逆』があります。 また、無調的な歌曲 『海を呼ぶ』なども作曲しました。 古関裕而さんが、養っていたんだね! 1935年(昭和10年)、古関裕而さん26歳の時に 『船頭可愛や』 詩:高橋掬太郎・唄:音丸 が 大ヒット!この頃、声楽家志望だった妻・金子さんは 帝国音楽学校へすすんでいました。 そして1937年(昭和12年)に発表された古関裕而さん作曲の 『露営の歌』は、 60万枚を記録しました。 1938年(昭和13年)、 中支派遣軍報道部の依頼により、 従軍音楽部隊として上海・南京を訪れます。 1940年(昭和15年)には 『暁に祈る』を発表!古関裕而さんが作曲した軍歌で、最もヒットした曲です。 翌年は 『海の進軍』が発表されました。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な 鎮魂歌 『長崎の鐘』。 戦災孤児の救済がテーマの ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌 『とんがり帽子』。 1964年、東京オリンピックの開会式に鳴り響いた 『オリンピック・マーチ』。 現在も毎年夏の甲子園に流れている 高校野球大会歌 『栄冠は君に輝く』。 その後、 劇作家の菊田一夫さんとコンビを組んで、数々のラジオドラマ・テレビドラマ・映画・演劇・ミュージカルのヒット作品を世に送り出します。 1961年に菊田さんと手がけた、 森光子さん主演の 「放浪記」は長期公演舞台となりました。 菊田さんと共同したミュージカル 『敦煌』から交響組曲 『敦煌』を編んでいます。 この頃、古関裕而さんはすでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来ませんでした! 半寿の誕生日から1週間足らずの、1989年(平成元年)8月18日午後9時30分に 脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で死去(享年80歳) しました。 実在モデルについて 代表作に1964年の東京オリンピックの開会式で流れた「オリンピック・マーチ」や甲子園のテーマ曲「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」などがあります。 また、長崎の原爆で被爆した永井隆さんの随筆を元に作曲した「長崎の鐘」は昭和24年7月に発表され、大ヒットします。 歌手の美輪明宏さんは「長崎の鐘」に思い入れがあると語っています。 実は、美輪明宏さんは10歳の時に被爆地から4キロのところに住んでいて原爆から逃れたという被爆体験をしています。 そして、「長崎の鐘」を書いた永井隆さんの長男の永井誠一さんと中学の同級生でした。 そのため、被爆した永井隆さんのお見舞いにも行ったことがあり、「長崎の鐘」はその頃を思い出す曲だそうです。 晩年は音楽番組の司会を務めるなどし、1989年に脳梗塞のため80歳でなくなりました。 1969年に紫綬褒章、1979年に勲三等瑞宝章を受賞するなど近代に日本のマーチ作曲者の代表的な存在とされています。 名前:窪田正孝(くぼたまさたか) 誕生日:1988年8月6日 血液型:B型 出身地:神奈川県 身長:175cm 所属事務所:スターダストプロモーション 窪田正孝が芸能界に入ったきっかけは? 窪田正孝さんは2006年4月に放送されたフジテレビ系で放送された深夜ドラマ「チェケラッチョ!!in TOKYO」で初主演を務め俳優デビューを果たしました。 元々、芸能界には興味がなかったそうで、車の整備士を目指し工業高校に通っていました。 高校1年生の時に、オーディション情報誌に掲載されていたスターダストプロモーションのオーディションに母親の勧めで募集し、合格をし事務所に所属しました。 最初はダンスユニットとして活動をし、後に俳優としてデビューしました。 初のドラマ出演で主演を務めましたが、その後はオーディションで落ち続ける苦労もしてきたみたいです。 ・窪田正孝の可愛さと健気さと守ってあげたさと危機管理がなってない度…100点 ・松田翔太の窪田正孝くん好き好き〜と近づきつつ影での変態行為が超楽しそう度…100点 ・空手の黒帯保持者の山本舞香のアクションと彼女に命令されたい度…100点 — ヒナタカ 映画 HinatakaJeF 累計発行部数が全世界で4000万部を越える大人気漫画の実写版映画。 東京を舞台に、人間の姿をした人肉を食べる生き物「喰種」(グール)をテーマにしたダーク・ファンタジー。 喰種に襲われ半喰種になってしまう主人公の金木研を演じています。 上手過ぎて浮いてしまったり、他の俳優さんを潰してしまう程の演技力という評価もありました。 真剣な役から、コメディ要素のある役、漫画の実写版、アクションまでもこなせるとても器用な俳優さんみたいですね。 「エール」でも見せる演技もますます楽しみで期待がもてます。 エールでの窪田正孝に期待! いかがでしたでしょうか? エールでの役柄は実家の跡取りと期待され、銀行務めをするものの、音楽に対する思いを断ち切れず、歌手を目指す女性とめぐり合い音楽の道に進む主人公の古山裕一を演じます。 子どもの頃から優しい心を持ち、音楽の才能に恵まれた主人公がヒット曲を生み出し、戦争を経験し、戦後の混乱した時代でも音楽の力で勇気を与えるため夫婦で奮闘する作曲家の役です。 誰もが一度は聞いたことある曲を作った古関裕而さんがモデルとなっていて、その波乱の人生と愛する奥さんとの絆を窪田正孝さんがどのようにに演じるのかが楽しみです。 30歳になっても高校生役もできてしまう窪田正孝さんの演技の幅を更に広げる作品になるのではないかと期待しちゃいます。 久しぶりの男性主演の朝ドラということも注目されているエール。 これからも窪田正孝さんの演じる古山裕一を楽しみにしていきましょう。

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NHK

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安藤サクラさん、広瀬すずさん、戸田恵梨香さん、窪田正孝さんって 「若手の登竜門」じゃなくなったね 笑 古関裕而さんは、1972年から1984年まで、フジテレビ系で放送されていた『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員としてテレビ出演していました。 司会は萩本欽一さん。 ある程度の年齢の人なら、偉ぶらない、いつもニコニコと優しい笑顔の古関さんを覚えている人も多いと思います。 古関裕而さんとは4ヶ月ほど文通のやりとりをし、互いに恋心が芽生えます!豊橋まで会いに行った、古関裕而さんと一緒に福島に行き、そのまま結婚しました。 1935年(昭和5年)の秋に、日本コロムビアから招かれ、古関裕而さんと金子さんは上京。 古関裕而さんが、 コロムビアの専属作曲家になった1936年(昭和6年)に、世田谷代田に家を構えます。 その後、 帝国音楽学校で本格的に声楽の勉強を始めた金子さんですが、その才能は中山晋平さんにも絶賛されていました! しかし戦後に長男が生まれ、子育てに専念するため声楽は辞めています。 そして1980年7月23日に、乳ガンが全身に転移して、68歳で亡くなりました。 声楽は辞めたけど、家では毎日歌っていたんだって! 長男・正裕さん 1946年(昭和21年)、古関裕而さんと金子さんの長男として東京で生まれました。 大学卒業後は、 日本経済新聞社に就職しました。 データベース・システム、オンライン情報サービス・システムの開発などに携わりますが、早期退職(定年扱)します。 その後は、青山で輸入婦人服のセレクト・ショップ 「ブティック・ラフィーナ」を営みながら小説 「緋色のラプソディー」を執筆し出版! 父・古関裕而さんの 生誕100年記念CD全集の企画・監修で 2009年日本レコード大賞企画賞を受賞します。 2013年には、鈴木聖子さん・齊藤早苗さんと共にライブユニット 「喜多三」を立ち上げました。 歌や演奏だけではなく、楽曲の紹介や曲にまつわるエピソードなどのトーク・ライブも行い、都内のホールやライブハウスを中心に活動しています。 正裕さんにとっては、 過干渉な過保護の母で、しょっちゅう反発していたそうです!次第に、うまく対処することを覚え、金子さんの意見や小言は適当に「ハイハイ」と聞き流すようになります。 金子さんは、正裕さんは素直で良い子だと思っていたようです。 正裕さんは、結婚して子供も生まれているようですが、詳しい情報がありませんでした。 分かり次第、追記します! 長女・雅子さんと次女・紀子さん 2020年4月30日放送の「あさイチ」に、古関裕而さん・金子さんの長女の雅子さん(88歳)が電話で出演。 近江アナウンサーのインタビューに答え、戦争中でも明るい太陽のようだった母・金子さんの思い出を語っていました。 そのときに紹介された家族写真には、古関裕而さん・金子さん夫妻を中心に、二人の少女(一人は雅子さん、20歳くらい?)と男の子一人の五人が写っていました。 古関さん夫妻には、現在74歳の長男、古関正裕さんがいますので、男の子がその正裕さんだと思われます。 もう一人、雅子さんと正裕さんの間の年齢になる少女が、次女の紀子(みちこ)さんだと思われます。 先日、NHKで古関裕而さんを特集した番組が放送され、その中で、1983年に放送された「この人『古関裕而ショー』~いとしきはわが調べ 激動の昭和を生きて~」の一場面が紹介され、紀子さんが出演していました。 紀子さんが、結婚するときに父親の古関裕而さんからもらった手紙を読み上げて、それを聞いていた当時73歳の裕而さんが涙ぐんでいる様子が印象的でした。 そんな作曲された曲には、いろんなエピソードがありそうですよね!2020年前期の朝ドラ「エール」では、そんなエピソードも観れるかもしれません。 そのせいでいじめられたり、先生に叱られたりしたことも。 大人になった裕一も、ときどきどもったりしています。 くん 男前な登場だ。 — 花形右京 ukhanagata この症状を「吃音」と言います。 「どもり」と言われることもありますが、差別的なニュアンスがあるため、最近では「どもり」という言い方は避けられるようになってきています。 実在モデルの古関裕而さんにも、吃音の症状があったという記録があります。 エールでは、北里大学の専任講師である原由紀さんが、吃音考証として参加しています。 交響曲『竹取物語』の実在モデル エールで裕一が国際作曲コンクールに応募し、2等を受賞した交響曲『竹取物語』。 鉄男が募集の記事を裕一に見せて、応募するように勧めました。 川俣銀行の同僚+鉄男の作戦会議も印象的でしたね。 鉄男はすぐさま、裕一が働く川俣銀行へ。 そして、作曲投稿募集の記事を裕一に見せ、もう一度作曲をするように背中を押そうとする。 しかし、裕一はなかなかその気にはなれない。 子供の頃とは打ってかわって、今は鉄男が裕一を励ましてる。 — blues安兵衛 1968Wizard このエピソードも、実際の出来事をドラマにアレンジしています。 「古関裕而さんの青年期」で紹介したように、1929年に古関さんが作曲した舞踏組曲『竹取物語』が、国際的な作曲コンクールで実際に2位を受賞しています。 残念なことに、そのときの楽譜は今は行方不明に。 聴くことのできない幻の曲になってしまっています。 その他にも、実家の家業が傾いたり、『竹取物語』の受賞が結婚のきっかけになったりと、古関裕而さんの生涯に沿ったエピソードはたくさんあります。

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古関裕而・金子夫妻をモデルとした連続テレビ小説が2020年前期に放映されます!

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音楽の戦争責任について 日本のマーチは課題曲ばかりではありません。 音楽の戦争責任について 平成6年卒 大元佳奈 4 丈余の櫓櫂 操りて 行手定めぬ 浪まくら 百尋千尋 海の底 遊びなれたる 庭広し 5 幾年ここに きたへたる 鉄より堅き 腕あり。 吹く塩風に 黒みたる はだは赤銅 さながらに。 6 浪にただよう 氷山も 来らば来れ 恐れんや。 海まき上ぐる たつまきも 起らば起れ 驚かじ。 7 いで大船を 乗出して 我は拾わん 海の富。 いで軍艦に 乗組みて 我は護らん 海の国。 これは「われは海の子」の歌詞である。 軍国主義を思わせるとのことでGHQの指示で教科書からはこの4番以降が消え、歌碑にも載っていない。 「汽車、汽車ポッポポッポ」でおなじみのも原曲は「兵隊さんの汽車」であり、出征兵士を万歳で送る歌だった。 他にも、なども、歌詞の改変などを経て今も歌われている。 これらの曲は問題のある歌詞が消え、曲が後世に残ったものである。 戦時にはたくさんの楽曲が国策や、時局に対する忖度で作られた。 今回の演奏会で古関裕而作品を演奏するにあたって、彼の作品を多く聴いたが、歌謡曲やスポーツ関連のヒット曲の影には戦時中の楽曲が多く存在し、古関裕而を語るにあたっては避けることはできない。 古関裕而はコロムビアの専属作曲家であった。 (戦時下もレコードは生産されていた。 ビクター、ポリドール、キングレコード、テイチクレコード、タイヘイレコードなどは戦前からあった会社である)当時、新聞社や放送局、陸軍省などの公募による楽曲がさかんに作られた。 レコード会社からの依頼があって、断ることもできず作曲したとも言い切れないが、望むと望まざるとに関わらず、古関裕而の歌は大ヒットし、戦場や銃後でひろく歌われていた。 「露営の歌」はS11年作曲、60万枚の大ヒット曲。 毎日新聞の公募によって選ばれた歌詞に曲を付けたもので、勇壮な曲ではなく、戦地における兵士の生と死への思いが哀愁を込めて歌われる。 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国をでたからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパきくたびに 瞼に浮かぶ旗の波 詞:藪内喜一郎 「愛国の花」 S13年作曲。 大阪中央放送局の国民歌謡として作られた。 S17年の同名映画はこの曲のヒットを受けて後に作られたもの。 銃後の女性を桜・梅・椿・菊の花になぞらえた、とても美しい楽曲である。 ましろき富士のけだかさを こころのつよい楯として 御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地に咲き匂う 国の花 詞:福田正夫 「暁に祈る」 S15年作曲。 松竹映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」の主題歌。 力強くドラマティックなメロディが印象的。 ああ あの顔で あの声で 手柄頼むと妻や子が ちぎれる程に振った旗 遠い雲間にまた浮かぶ 詞:野村俊夫 「英国東洋艦隊潰滅」 S16年作曲。 この曲はニュース歌謡と呼ばれるものであり、戦果のニュースを国民に知らせるために古関は放送局に常駐し、即座に作曲したものに、歌を付けてラジオで放送していた。 この曲はマレー海戦勝利の大本営発表後、3時間で放送までこぎつけたとされている。 S17年に歌詞を変え「断じて勝つぞ」としてレコード化。 元の詞ではS41年にレコード化されている。 滅びたり 滅びたり 敵東洋艦隊は マレー半島 クワンタン沖に いまぞ 沈みゆきぬ 勲し赫たり 海の荒鷲よ 沈むレパルス 沈むプリンス・オブ・ウェールズ 詞:高橋掬太郎 「断じて勝つぞ」 君の為 国の為 我が命捧げて 微笑みて 働くは 限り無き名誉 剣を執る身も はたまた執らぬも 断じて勝つぞ 断じて勝つぞ 詞:サトウハチロー 「若鷲の歌(予科練のうた)」 S18年作曲。 23万枚の売り上げ。 東宝映画「決戦の大空へ」の挿入歌。 明るい曲調で始まるが、どこかもの悲しくもある。 覚えやすいメロディで、今でも歌える人も多いだろう。 若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧 く 詞:西条八十 「ラバウル海軍航空隊」 S19年作曲。 NHKの放送用に作られた。 すでに戦局は悪化していたが、はるか南半球で健闘していた航空隊を題材にすることで、戦意昂揚につなげようとした。 曲調は明るく、スポーツショー行進曲にも似ている。 銀翼連ねて 南の前線 ゆるがぬ守りの 海鷲たちが 肉弾くだく 敵の主力 栄えあるわれら ラバウル航空隊 詞:佐伯孝夫 これらの作品は、現在ふつうには演奏されることはめったにない。 当時の流行歌であった戦時歌謡も企画もののCDなどでしか聴くことはない。 古関作品にはGHQによって廃棄された譜面もあるそうだ。 これらの楽曲で戦地に家族を送った人や、実際に戦場へ行った人にとってこれらの楽曲は耳にするのも嫌かもしれない。 また、街宣車が大音量で流すのを快く思う者は少ないだろう。 街宣車では鶴田浩二が歌うものが人気のようだが、戦時中のラジオやレコードは霧島昇、藤山一郎、伊藤久男、岡本敦郎ら正統派歌手が美しく歌い上げている。 言葉は音楽に乗り、より広く深く人々に浸透する。 音楽はプロパガンダに都合のいい手段であったことは間違いない。 戦時下の音楽はその依頼主を見ても、国民を軍国主義に染めていく恐ろしい力を持っていたと言えるだろう。 そうなれば、戦後において演奏されなくなったのも仕方のないことであろうか。 世界に目を向けると、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は「ライン軍のための軍歌」である。 「リパブリック讃歌」はアメリカの愛国歌で、南北戦争の北軍の行軍曲である。 フランス軍もアメリカ軍ももちろん現存するので、これらの曲が演奏されるのは当然かもしれない。 日本軍はもう無いが、自衛隊音楽隊では「陸軍分列行進曲」や行進曲「軍艦」、「君が代行進曲」などは演奏会の定番の曲目である(いずれも古関作品ではない)。 しかし、これらの曲の歌詞が歌われることは少ないだろう。 「抜刀隊」(陸軍分列行進曲) 我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ 敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で 之に從ふ兵は 共に慓悍决死の士 鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を 起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ 敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし 詞:外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎 「軍艦」 守るも攻むるも鋼鐵の 浮べる城ぞたのみなる 浮べるその城日の本の 皇國の四方を守るべし まがねのその艦日の本に 仇なす國を攻めよかし 詞:鳥山啓 私は戦争を知らない世代である。 今回「古関裕而全集」を聴いてみて、とくに「愛国の花」の美しさに感動し、なぜこの曲がいま聴かれないのかを考察したものである。 偏見がなければ、演奏されないのがもったいない曲ばかりである。 「嗚呼神風特別攻撃隊」は荘厳で格調高い名曲であるが、ラジオで流れたのはS19年。 S20年に「神風特別攻撃隊の歌」としてレコード化された。 しかし空襲で音源や原譜は失われ、ようやく正式にレコードが発売されたのはS44年になってからだった。 今回参考資料とした「歌と戦争」(櫻本富雄著)は、服部良一、古関裕而、古賀政男、山田耕筰についてかなり厳しくその責任について書いている。 サトウハチローをはじめとする作詞家も同様だ。 筆者はS8年生まれなので、戦時中はすでに少国民と呼ばれる年代であったろうから、戦時歌謡に対する思いは私とまったく異なるだろう。 しかし先に挙げた唱歌のように、楽曲だけでも残すことはできないかと考えるのは間違っているのだろうか。 R2年春放送予定のNHKの放送用の朝ドラ「エール」は古関裕而をモデルにしたドラマである。 大河ではないので、役名も古山裕一になっているし、ストーリーも史実どおりではないだろう。 戦時下の作曲活動についてどのように描かれるのか気になるところだ。 R2年は古関裕而イヤーになるだろう。 「東京オリンピックマーチ」の栄光と、戦時中の作曲活動の影。 どちらも偉大な作曲家古関裕而の功績なのであり、近代日本の軌跡なのである。 参考資料 「歌と戦争-みんなが軍歌をうたっていた-」 櫻本富雄 アテネ書房 CD「古関裕而全集」別冊解説書 日本コロムビア株式会社.

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