くれ ない の 二 尺 伸び たる 薔薇 の 芽 の 針 やわらか に 春雨 の ふる。 【くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る/正岡子規他春雨の短歌

くれ ない の 二 尺 伸び たる 薔薇 の 芽 の 針 やわらか に 春雨 の ふる

咲き初めし 淡きピンクの 紫陽花を 小瓶に活けて 雨の日過ごす 槿 (さきそめし あわきピンクの あじさいを こびんに いけて あめのひすごす) 意味・・今は梅雨、雨がしとしとと降っている。 雨が 降らなければ散歩でも行けるのに、家に閉じ こもっている。 退屈でやり切れないなあ。 ふと庭に目を向けると、紫陽花が咲き始めて いる。 淡く色を付けかけている。 このピンク の色がいい。 そうだこの紫陽花を小瓶に活け ることにしよう。 誠心込めて活け終えた紫陽花。 小瓶に活けた 紫陽花が部屋を優しく包み、心を慰めてくれ る。 作者・・槿=むくげ。 ブログのハンドルネーム。 出典・・インターネット・ライブドアーブログ。

次の

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨の降る(正岡子規)

くれ ない の 二 尺 伸び たる 薔薇 の 芽 の 針 やわらか に 春雨 の ふる

正岡子規の短歌、 ・くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る について教えてください。 特に「二尺伸びたる」はどの名詞を修飾しているのでしょうか。 候補は、薔薇と芽だけれど、二尺って60センチです。 だとすれば、それが修飾しているのは、芽(茎や蔓の意がある)でしょう。 でも、茎が紅色って考えにくいです。 ではと思って、「くれないのバラの芽(蕾)」だと考えると、「二尺伸びたる」のがどこを修飾するかわからなくなってしまいます。 それならと思って、「くれないの」を枕詞だと考えてみるけれど、枕詞の「くれないの」は普通、「色」や「あさ」にかかるのだから、ちょっと無理があります。 正岡子規って、写実主義の歌人だったから、たぶん答えがあると思うのです。 文法的に、どうしたら整合性がつくのか、教えてください。 早蕨の質問がお終いになっていましたので、こちらに回答します。 毎年冬を越すため、ハイブリッドのバラから、去年伸びた茎を毎年スッパリと剪定します。 春になるとまたそこから芽が伸びてきます。 白いバラの茎は柔らかい緑色ですが、赤いバラの茎は紅色といえないこともありません。 細い茎がどっしりとした根元からシューッと伸びてきます。 葉は深い緑色ですから、紅色は映えます。 60センチ伸びたというから、ずいぶん大きな花のつぼみがついていたことでしょう。 そのつぼみに、まるで早く咲けというように、春雨が降りかかっています。 風もなく、シトシトと霧のような春雨です。 そうして、バラの花はまた今年も咲こうとしているのです。 作者がバラに見たものは希望だったか、自然の摂理だったか。 散り際の美しい桜に比べると、バラの美しさは開きかけに尽きます。 その、開きかけよりさらに前、つぼみの景色を歌にした作者は、柔らかな茎を伸ばして、成長してゆくものの命を暖かく包み込む、春雨を詠んでいるように感じます。 彼がつぼみで、春雨は母だったかもしれません。 この回答への補足 皆さまからの回答も止まったようなので、締めようと思います。 どうもありがとうございました。 まず文法のことですが、異説もあったものの、僕としては形容詞節が三つ、「芽」にかかると考える他ないなと思いました。 芽は蕾ではなく、茎の意味です。 ここまでで確実に言えるのは、次のことです。 「季節は春で、雨が降り、桜は散ってしまった。 傍にはバラがある。 それはもう六十センチにも伸び、雨にぬれて、触れてみると、その棘は柔らかだと思える」。 しかしそれ以上先は、解釈の問題が入ります。 一つは「くれなゐ」が紅薔薇の品種を示しているという考え方。 もう一つは、茎がにょきにょき生えてきて、それが紅いという考え方です。 1 の場合、赤があろうとあるまいと問題ではないのだから、蕾がついていて、それはまだ咲きそうにないけれども、うっすらと赤みが覗いているなどと考えてみても許されるでしょう。 2 の方は、なるほど六十センチも伸びたら、蕾くらいついているだろうという推測は成り立つとしても、歌人が焦点を当てたのは茎であると考えて、蕾のことより茎の色合いを中心に考えるべきでしょう。 僕はどちらが精密な解釈か、ちょっとわかりません。 1 のように考えたら、蕾に相当する語が短歌の中に出てこないとはいえ、通説のように、赤い花の蕾を待ち望んでいると言っても、別段、矛盾はないわけです。 ここでは「薔薇が咲いたら赤くてきれいだろうな」という無邪気で楽観的な気持ちが先にあると考えることになります。 僕は自分で思いついたという意味では 1 なのですし、僕の思った正岡子規とは無邪気な人だっただけに、この説を信じたのです。 しかし 2 も言われてみて考えていたら、非常に味があるなと思いました。 つまり「花の無い枝だけの薔薇が植わっており、本当は殺風景なのではある。 桜も雨で散ってしまっただろう。 しかし茎の赤みに感じ入り、棘に触れみると濡れているせいなのか柔らかい。 こうやって薔薇は水を吸って成長しているのだ。 春雨は桜を散らしてしまったかもしれないが、その同じ雨で薔薇は、夏に向けて育っていくのを感じる」。 僕はこれもいいなと思うのです。 寂しさに美を見出すという姿勢に、感じ入りました。 華やかさに寂しさを見出すとした定家の有心とは逆です。 子規が自らの美学を模索している姿を看取るだけに、素晴らしい解釈だと感じました。 そうですか、あの質問に関心をもっていただけたのですか。 それは申し訳ありませんでした。 ご解釈だと、芽に3つの形容詞がかかり、かつその芽が赤いということなのですね。 ハコブルさんという方に、芽かきということを指摘していただきましたが、伸びてきた芽全体が紅色と呼べるかどうかで躊躇いがあったのでした。 僕は薔薇を育てたことが無く、調べるばかりです。 が、芽が赤いとおっしゃるのなら、僕はこの説には同意できます。 というのも、文法に整合性がありますから。 それにこの場合、蕾が紅いかどうかは、あまり問題ではないということになり、春としても納得できます。 春雨に、桜が雨で散った情景を看取ったのは面白いですね。 何かさびしさがあった上で、次の季節に想いを馳せたと言えます。 子規が蕾なら、春雨は妹だったでしょう。 子規は妹に面倒を見てもらっていたのですから。 なぜ、「春雨」なのか? ですが、 この句の季語は「薔薇」でしょうか? それとも「春雨」でしょうか? 季語が「薔薇」の方なら、季節は「夏」に限定されてしまいます。 そうしたら「春雨」を使うのは不自然です。 「秋雨」なら季節は秋ですから、こちらも不自然ですよね。 季語が「薔薇」の方なら、「五月雨」や「梅雨」で季節の「夏」を示すか、 単なる「雨」とするのが自然な使い方です。 でも、季語が「薔薇」ではなく「春雨」の方だとすると、 「春雨」は「春」を示す季語として必要だった。 つまり、この句の季語は「薔薇」ではなく「春雨」の方だと思うのですが。 そして「夏」ではなく、 「春」を示す 強調する 季語として「春雨」が必要だったのではないでしょうか? 何度もありがとうございます。 感謝しております。 季語が春雨であるというのは、同意するところです。 だからこそ、疑問なのです。 わからなかったのは、ケンタウロスさんの針が蕾の先端を示すという解釈のことなのですが、これだと、もう薔薇は開花直前になっているということになりますね。 季節は春と呼べる時期かもしれないが、もう既に薔薇は咲きかけんとしている。 つまり作品は、早咲きの薔薇を描いているということになります。 しかし早咲きの薔薇というテーマの意義それ自体が、僕にはよくわからないのです。 なぜなら、これは春に夏の予兆を求めていることになります。 その季節を楽しんでいないということになります。 テーマとして成立するのかどうか、という疑問を前回は投げたつもりでした。 ケンタウロスさんは、もう一案、棘が赤いという可能性を提示してくださいました。 この場合、薔薇の蕾が紅いかどうかは、関係ないわけで、季語が春を示すことには何ら矛盾はないと言えます。 ハコブルさんという方がその説を支持しています。 が、日本語の文法構造として、「くれなゐ」が直接「針」を修飾することが出来るのかどうか、僕は疑問に思っているところでした。 #8です。 >うーん。 その解釈は無理ですよ。 : たしかに、花や蕾を差し置いて紅色と表現できる針があるかどうか、という点については、わたしも自信はないんですけどね。 ^^; ただ、ケンタウロスさんの写真は棘のように見える芽なのでしょう。 また、 >この棘が二尺でないと、文章にならない : ということもないでしょう。 「二尺伸びたる 薔薇の芽から生えている」「くれなゐの 針」という構造。 >好みとか性格の問題ではなくて、この詩が何を描いているかを知りたいのです。 : ごもっともです。 国語というよりは、薔薇に詳しい方にお聞きすると案外すんなり解決するかもですね。 ガーデニングカテあたりで質問なさってみても面白いかもしれません。 #4です。 >バラの手入れを怠って二尺にもなってしまったなぁ、という歌だという解釈でしょう。 : 表現不足でしたが、そうした諧謔味のある歌と捉えているわけではありません。 >子規が写実であることを考えると、複数の解釈が同時に浮かぶ文法構造をとるとは考えにくいのですが。 : これは鑑賞者の解釈次第だと思います。 この歌の要点は、 針自体の柔らかさと春雨のイメージによるやわらかさが掛かっていることであり、また、「くれなゐ」と春雨の透明性を含んだ白色のイメージが対比的に使われていることではないかと思います。 その意味で、あくまで実際の紅色を目にしての歌でしょう。 肝心の「くれなゐの」が何に懸かるのか、という点に関しては、やはり針と考えます。 たしかに蕾なり花なりのほうが美しいのですが、わたしはへそ曲がりですので。 ^^ 2尺伸びたのは前回同様ですが「(薔薇の)芽」です。 そういった感じでしょうか。 ありがとうございます。 せっかくですが、うーん。 その解釈は無理ですよ。 赤い棘があるということは、それでいいのですが、それならば、この棘が二尺でないと、文章にならないと思います。 形容詞が並んでいる以上は、同じ名詞を修飾することになるでしょう。 赤い色の棘を紹介してくださったケンタウロスさんの写真を見ると、赤い棘が二尺は無理ですね。 だからこの時点で、赤い棘説は、ちょっと成立しないように思うのです。 文法的に解釈しないで読むと、どういうことが起きるかといえば、自分で想像したイメージをもってきて、それに沿って文章を再構成して解釈するということになってしまいます。 これがシュルレアリスムの詩ならいいんですが、これは写実の子規の作品ですから。 それにハコブルさんの説だと、透明とおっしゃいますが、赤以外に、他に色を明示する言葉が入っていないとコントラストを強調するには弱いように思うのです。 詩を読む際に、文法か想像力のどちらを優先するかと言われて、文法と答えるのは、あまり面白くないかもしれませんね。 ただ僕は真面目に、好みとか性格の問題ではなくて、この詩が何を描いているかを知りたいのです。 > 先端を針と呼ぶのは難しそうな気がします。 というのも、植物の場合、針といえば、どうしても棘の用例しかないからです。 比喩だとしても、紛らわしいという点で、歌人なら避けるように思うのです。 こんな写真を発見しました。 茎に付く棘状の芽も紅色をしているようです。 子規はこれを詠んだ可能性もあります。 > 薔薇が春先にすでに咲きそうな状態にまで蕾がなっているというのは考えにくいのです。 正岡子規は幕末に生まれ、明治を生きた歌人ですよね。 当時の暦は旧暦を使っていました。 春は1~3月、夏は4~6月ですよね。 旧暦の1~3月は、新暦の2~4月に当たります。 つまり、季語が春のこの句が書かれた時期は、 旧暦の1~3月(新暦の2~4月)です。 て゛、ここのページを見ると バラの開花時期は新暦の5月~11月ですから、 旧暦に直すと4月~10月になります。 旧暦4月には、すでにバラは開花している可能性は十分に有る と言えます。 もしこの句が旧暦3月末(新暦4月末)に詠まれたとすると、 バラの蕾は開花寸前で、蕾の先端が少し開き、紅色の花弁が見えていたかもしれません。 ありがとうございます。 なるほど。 暦の話はうっかりしていました。 確かに春雨と呼んだものが降っていたのが、仮に旧暦の四月五日ごろだとしたら、それは新暦の五月七日です。 となると、薔薇が開花直前である可能性はあるでしょう。 「薔薇」が旧暦の頃から夏の季語であるから、少し僕にはこの句が「春」を強調したのが腑に落ちませんが(その箇所に初夏の風物詩を入れた方が素直だった)、薔薇が咲くというのは納得しました。 しかし、針はまだ不思議です。 非常に細い糸のようなものがピンと先端に出ているのなら、それが針だというのはわかります。 僕はそういう可能性がないだろうかとも考えてみたのです。 頂いた写真は、僕には針というより、やはり別のもののように見えるのです。 すみません、いろいろ探して頂いたのに。 そして最後の「春雨のふる」ですが、なぜ、こうしたのでしょう。 もちろん子規は写実の人ですから、単に雨が降っていた可能性もあるのですが、植物に雨が何らかの影響を及ぼしたので、それを書いたと思うのです。 あまり影響がないなら、雨があがってから詠めばいいのですから。 僕には、雨にぬれて、本来硬い棘が柔らかく思えたという可能性があると思えるのですが。 あるいは、子規は過剰な水を嫌う薔薇に対して、雨の影響を心配しているということなのでしょうか。 #3です。 再々お邪魔します。 近くに薔薇園があり、薔薇の開花期は一般には5月~6月です。 最近花が咲いているミニ薔薇の鉢植えを買いました。 くれないと言っていい綺麗な赤で花が咲いていますがこれは温室咲きです。 路地咲でも蕾はついていると思います。 赤いバラは赤みを帯びた葉脈で、茎も赤みを帯びていますが、地味な臙脂がかった色で、やはり これをくれないとは言い難いように思います。 「くれないの」は薔薇にかかるのではないでしょうか。 針柔らかにの針はやはり刺だと思います。 新しい枝も60センチも伸びればおしゃるとおり 刺も余り柔らかではないと思います。 春雨の降り掛る様子が柔らかい感じなのではないかと思うのですが、 間違っているでしょうか。 こうなると当人以外分かりませんね。 どうもありがとうございます。 僕は次のように考えるに至りました。 もしよかったらお考えを聞かせてください。 こう考えないと、形容詞が並んで居ながら、別々の名詞を修飾することになって、文法が破綻してしまいます。 ここでいう芽とは茎を含めた全部のことです。 つまり他の方が指摘してくれた通り、もともと子規は芽の状態を見ていたのでしょう。 60センチ伸びたのが、子規は嬉しいのです。 しかし問題は「くれなゐの芽」とは何を意味するのかです。 薔薇が五月に咲くのなら、春雨の時期に赤くなっているというのは、ちょっと辻褄が合わないように思えるのです。 そこで僕は、「くれなゐ」とは紅色の花を咲かせる品種を意味すると考えたのです。 こうすると、赤い品種の薔薇の芽ということになりますから、意味は矛盾しません。 つまり第1句は仮想なのです。 短歌で一番に重きを置くはずの第1句に、仮想が来るのはおかしいと思われるかも知れません。 しかし子規は「わが幼時の美感」で述べたように、赤が好きで、薔薇が欲しかったけれど、貧乏で買えなかったのです。 だから「俺は赤いバラを買ったぞ」と嬉しくて仕方なかったのでしょう。 この喜びを表現したくて、第1句が「くれなゐ」となった。 そして、まだ春ですから咲くはずもないのに、二尺伸びたと言っては嬉しがって、棘を触ってみる。 この棘が春雨にぬれているせいでふやけているのか、それとも子規の嬉しい気持ちの表れなのか、棘という本来、硬いものでさえも、柔らかに感じられてしまう。 「針やわらかに」は文法的に考えて、「棘がやわらかになって」という意味で考えないと、「針」まで続いていた文章が終わってしまいます。 もちろん、情景としては春雨が静かに降っているのだろうなという連想は浮かぶのですが。 ありがとうございます。 全体をまとめると、初め芽は低い位置にあったのに、六十センチにも成長し、赤くなって成熟し、その先端は針のように尖っているが、触れてみると柔らかいという感動を詠ったというのですね。 蕾の先を触ってみるという悪戯もまた、子規ならありうるかもしれません。 しかし、ちょっと辞書を引いてみましたが、先端を針と呼ぶのは難しそうな気がします。 というのも、植物の場合、針といえば、どうしても棘の用例しかないからです。 比喩だとしても、紛らわしいという点で、歌人なら避けるように思うのです。 それともう一点。 薔薇が春先にすでに咲きそうな状態にまで蕾がなっているというのは考えにくいのです。 でも僕は薔薇を育てたことがないのです。 何かご存じのことがあったら教えていただけませんか。 蕾がなってからも、ずっと初夏の辺りまで咲かないものなのでしょうか。 僕はケンタウルスさんのご意見に、これがバラが咲き乱れる成熟の季節(夏)の歌であったら、成熟の喜びを詠った短歌であると解釈して、同意するのですが。 薔薇には「芽かき」という作業があるようですね。 枝分かれするように出てくる芽を摘むのが良いとされているようですが、放置しておく場合も案外多いようです。 それがどんどん伸びて2尺ほどになったのでしょう。 このあたりに関しては、質問者さんもご存知のことだろうと思います。 元々の茎というか、地面から生えている茎にできる針は結構頑丈で硬いもののような気がします。 しかし、芽かきをしなかったために枝分かれするように伸びてきた芽(茎)にも、おそらく針はできるのでしょう。 そして、それは(おそらく)本茎についている針よりはどこか頼りなげで柔らかい。 鮮やかな紅色をして針であることは主張しているものの、その針が柔らかいので、そぼふる春雨とよくマッチしているような優しい印象を受ける。 つまり 「くれなゐの針」という解釈はできないでしょうか。 語調を無視した解説文であれば、 二尺伸びたる 薔薇の芽の くれなゐの 針やわらかに 春雨の降る という感じ。 薔薇に詳しくないのであまり自信はありませんが、あくまで可能性のひとつということで。 ありがとうございます。 この解釈では、雨でさえも柔らかい麗らかな春にうつつを抜かしていたら、バラの手入れを怠って二尺にもなってしまったなぁ、という歌だという解釈でしょう。 しかし、どうなのでしょう。 教えていただきたいのですが、形容詞が並んでいて、同じ名詞ではなく、別々の名詞を修飾するということがありますか。 これを認めると、たとえばNo1の方のように、まったく別の情景が浮かぶということもありえます。 子規が写実であることを考えると、複数の解釈が同時に浮かぶ文法構造をとるとは考えにくいのですが。 質問者ではありますが、実は僕はいま思いついたのですが、「くれなゐの」とは「紅色の花を咲かせる品種」という意味で、まだ赤い色が植物のどこかに出ているわけではないのではないかと思い始めました。 つまり、バラが咲く芽が六十センチになり、まだ針も柔らかくて幼く、そこに雨がしとしと降っているのだけれど、花が咲いたら赤なんだよなぁと思って楽しみにしているという心情を読んだのかなと思い始めたのです。 第一句が「くれないゐの」で始まるように、一番の力点が置かれているわけなので、何かしら彼が、ここに心をうつして歌を詠んだのであろうとは思うのです。 正岡子規の好きな色は、特に赤だと「わが幼時の美感」にありました。 バラは高価なので、子供の時には高嶺の花だったのだそうです。 Q 短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。 感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか? 以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、 ネットで調べてもよくわからないので困っています。 どうぞよろしくお願いします。 ・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌) ・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌) ・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王) ・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂) ・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持) すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。 どうかよろしくお願いします。 A ベストアンサー 「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。 以下のような場合があります。 1、切れ字のあるところ。 「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。 俳句の項目で調べると分かります。 2、係り結びの結んであるところ。 係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。 3、終止形や命令形で言い切っているところ。 4、体言止めで言い切っているところ。 ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。 5、倒置法のあるところ。 6、呼び掛け法のあるところ。 韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。 *防人に・・・ あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。 なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。 *多摩川に・・・ 多摩川に晒して作る布を見ていた。 その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。 *君待つと・・・ 恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。 ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。 単に季節がほんとに秋だっただけ。 女心の寂しさは詠み込まれているけど。 *近江の海・・・ 琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。 *うらうらに・・・ うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。 一人ぼっちで物思いに耽っているので。 春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。 雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。 万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。 五七/五七/七 と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。 (古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます) 五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。 七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。 「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。 以下のような場合があります。 1、切れ字のあるところ。 「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。 俳句の項目で調べると分かります。 2、係り結びの結んであるところ。 係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ... A ベストアンサー >「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」 俳句というのは、元々、これだけで文学作品としては自立せず、状況説明などが必要になります。 詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。 しかし、短歌は、和歌もそうですが、詠まれた状況を外しても、自立した作品となります。 ただし、うたが詠まれた状況が分かっていれば、なお、うたの鑑賞は深くなるとも言えます。 まず、このうたは、正岡子規が病弱で、晩年、病床に伏して多くの作品を造ったことは有名ですが、この作品が果たして、病床にあるときの作品かどうか、わたしは知りません。 しかし、短歌は、字数が多いため、色々な内容を詠むことができます。 この作品の場合、「たたみの上にとどかざりけり」と、短句あるいは下の句で詠っています。 一体、瓶にさした藤の花ぶさが、たたみの上に届くとか届かないとか、普通、そういうことを気にするだろうか、という疑問が素朴に出てきます。 つまり、枯れかかって来た場合などは別ですが、たたみなどに花が触れないように活けるのが、普通です。 ここから、花房がたたみに触れるか触れないかということを、わざわざ短句で詠むということは、作者の視点が、床のたたみ近くにあるからではないかということが出てきます。 そうでない場合は、別の詠み方が可能だからです。 正岡子規が病床に伏して作品を造ったか造らなかったか、この作品は病床に伏していたとき造った作品なのか、元気なときの作品なのか、それは分からないとしても、作品自身のなかに詠み込まれている言葉から、病床か、または何にしろ、たたみ近くに横たわって詠んだうたではないかという推測が当然出てきます。 あるいは、たたみに横たわる場合の視点を想像して詠ったという解釈が出てきます。 「瓶にさす藤の花ぶさ」となっています。 自然に咲いている藤の花ではなく、瓶に活けられたものなのです。 これも重要で、わざわざそう詠うということは、「瓶の花」でなければならない理由があるのです。 たまたま、瓶の藤の花を見たということでもよいのですが、この「たまたま見た」は、歌においては、「必然理由」になります。 先にも述べましたが、「瓶にさす花」が、床のたたみに、その花が届かないのは、ごく当たり前のことです。 そういう風に花をさす、というか活けるからです。 すると、これはあたりまえの何でもない情景を詠っているということになります。 しかし、「詠っている」ということに意味があるのです。 わざわざこれをうたにしたというのは、何故かという疑問です。 ここで、「視点」が、たたみの上に横たわっているか、その状態を想定しての視点だと先に述べたことが関係してきます。 藤の花ぶさが、たたみに届かない、という状況は、横たわっている状況が、そのままで、変えることができない、という事態を平行的に詠んでいるのではないかと解釈できるのです。 「瓶に活けられた藤の花ぶさが、畳に届かない。 届かないのは当たり前で、そのように活けてあるのである。 横たわる私も、この床から出ることができない。 できないのは当然で、わたしは多分、病で、このまま死んで行くはずなのだから。 世のなかの定めはどうしようもないものがある。 人の運命も、どうしようもない。 しかし、そう思いつつも、藤の花が、手元にあれば、ただ見るだけでなく、触れてめでることもできる。 それもできないのが運命である。 わたしのいのちが短いのも、これも運命だろう。 しかし、花は花、短いことも短いこと……自然なことではないか」 ここまで解釈すると、正岡子規が、病床で作品を造り、病床から抜け出すことなく病死したという知識が入っていますが、作者は、「客観的」に「花ぶさの短いこと」「自分のいのちも短いこと」などを、何気ない情景を描写するように詠っていることになります。 自分自身のありようを、「客観視」し、色々な思いや、心の苦悩なども、もしかしてあるかも知れないのを、そういうことを一読感じさせず、何気ない情景を詠んだように作品を造っているところに味わいがあるということになります。 (何気ない情景を詠んだうたではない、というのは、最初に、なぜ、たたみに届かないことを、それほど重要視するかということを述べましたが、ここから、出てきます)。 (また、たたみ近くの視点は、「寝ている状態」「病床にある状態」「死んで横たわっている状態」など色々ありえるのですが、正岡子規が、病床に伏してうたを詠んだなどという知識を前提にしないでも、「寝ている状態」を想定して、こういううたを詠んだということから、この「寝ている状態」は、多分、病床で、しかも、長くないいのちではないか、というのが、うたの言葉を玩味すると出てくるのです)。 >「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」 俳句というのは、元々、これだけで文学作品としては自立せず、状況説明などが必要になります。 詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。 しかし、短歌は、和歌もそうですが、詠まれた状況を外しても、自立した作品となります。 ただし、うたが詠まれた状況が分かっていれば、なお、うたの鑑賞は深くなるとも言えます。 まず、このうたは、正岡子規が病弱で、晩年、病床に伏して多くの作品を... A ベストアンサー 句切れのない歌を出して、句切れの説明をしても分かりにくいだろうなと思います。 最後で切れるのは当たり前過ぎて、「五句切れ」とは言いません。 外にどいう短歌が載っているのか分かりません。 「子規」の歌でしょうか。 適当なのが思い付きません。 仕方がないので啄木の歌を上げておきます。 「柔らかに柳靑める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」(石川啄木) この歌の句切れは、目に見ゆ」の所です。 したがって「4句切れ」になります。 ここに「。 」(句点)を打ってもいいくらいです。 の順序になる所です。 短歌では特に強めたい部分を取り出して別のところにもっていったりします。 そのために、句切れが起こってくるのです。 北上川の柳の葉が青く柔らかく、初夏の芽を吹き始めた、その色が私に向かって泣いてもいいよといってくれているかのようだ。 (作者から言えば、泣きたくなるほど昔の故郷を思い出してしまうのです) まあ、前回の説明では分かりにくかったので、せめてもの、追加説明をしました。 句切れのない歌を出して、句切れの説明をしても分かりにくいだろうなと思います。 最後で切れるのは当たり前過ぎて、「五句切れ」とは言いません。 外にどいう短歌が載っているのか分かりません。 「子規」の歌でしょうか。 適当なのが思い付きません。 仕方がないので啄木の歌を上げておきます。 「柔らかに柳... A ベストアンサー 【不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心】 15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて 私の心は吸い込まれそうだった。 盛岡城は別名不来方(こずかた 城といいます。 啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。 学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで 空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。 啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、 16歳に中学校をやめて、この後上京します。 しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな 釧路の海の水面は月の明かりでしらしらと輝いています。 夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静寂があります。 啄木は明治40年(1907)生活の行き詰まりから北海道に渡ります。 北海道の函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活をすごしました。 76日間の釧路時代に歌った歌でしょう。 注:私は【千鳥なく】を千鳥は夜はいない(なく)と解釈します。 夜は千鳥はいないと思います。 nifty. city. kushiro. hokkaido. html 【不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心】 15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて 私の心は吸い込まれそうだった。 盛岡城は別名不来方(こずかた 城といいます。 啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。 学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで 空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。 啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、 16歳に中学校をやめて、この後上京します。 しらしらと水かがやき千鳥なく釧路... Q 中学2年生です。 明日提出予定の宿題ですので、かなり急いでおります。 その宿題とは、「1つの短歌に注目して、作品についてのまとめを行なう」と いうものなのですが... いまいち表現技法などがわかりません。 その短歌とは、俵万智さんの「思い出の 一つのようで そのままに しておく麦わら 帽子のへこみ」 なのですが... 今、自分なりに分かったのは ・句切れなし ・口語がなめらかに流れるように結句まで続く ・「へこみ」を使用することによって、楽しさだけではなく切なさや悲しさも表現している という3つのみです。 その他、この短歌に使われている表現技法やリズムの工夫などがありましたら 教えていただきたいです。 よろしくお願いします。 Q 「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る」 此の短歌についての質問を他の方の質問ページで拝見していた時に、拙い疑問が思い浮かびました。 酷く拙い私見によりますと、 「形容する修飾節」が掛かっていく被修飾語をその「修飾節」に隣接させる遣り方を採用した方が比較的に読者やら聴衆やらに内容が伝わりやすいのではないか、 と思われたのですが、上記の短歌では、文字数の都合で、 『「名詞+助詞」の修飾節』が並列で繋がっている様ですね。 「くれなゐの」「二尺伸びたる」「薔薇の」 そこで、次の様な疑問が浮かびましたから、 御忙しい中への御邪魔で畏れ入りますが、伺わせて下さいませ。 『複数の「名詞+助詞」が同じ名詞を修飾する場合には、 「連用形」の様な直列繋ぎの方式を適用させられないだろう、 と私は勝手に考えていますが、上記の短歌の様な修飾方法は、 一般的な方式なのでしょうか?』 此の疑問が浮かびました際に拝見していたページは、 既に締め括りの後の状態になっていましたので、 直接的に其処へ参加させて頂き損ねたものですから、 何卒宜しく御願い申し上げます。 「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る」 此の短歌についての質問を他の方の質問ページで拝見していた時に、拙い疑問が思い浮かびました。 酷く拙い私見によりますと、 「形容する修飾節」が掛かっていく被修飾語をその「修飾節」に隣接させる遣り方を採用した方が比較的に読者やら聴衆やらに内容が伝わりやすいのではないか、 と思われたのですが、上記の短歌では、文字数の都合で、 『「名詞+助詞」の修飾節』が並列で繋がっている様ですね。 「くれなゐの」「二尺伸びたる」... A ベストアンサー #9に続けます。 くれないの雨が春限定かとの問いかけ自体は#10でご納得いただけたようですが、それは実は季重なりではないかの示唆もまた含まれているのかとも思い立ち、ここで少し続ける形で触れてみます。 まず、この短歌の季語は「春雨」と見られます。 「薔薇の芽」も次の俳句の場合などそれだけで季語となります。 薔薇の芽の真紅を洗う雨となりぬ 岡田日郎 ただ、この短歌において、散文的な表現の整合性を求めた場合には、芽の「の」と針の「に」を入れ替えてしまえば、「二尺伸びたる」「針やわらか<の>」「薔薇の芽<に>」「春雨の降る」となります。 それを敢えてこの語用を転換して見せた事によって、これこそ韻文ならではのある種アクロバティックな、しかしそこに日本語ならではの奥行きと陰影を齎す事で、それが春雨と薔薇の芽との「やはらかさ」という主題の微細なコントラストとハーモニーを引出して見せてくれているのだと思えてなりません。 しかも、末尾の「春雨の降る」についても、上接の「春雨」に意味上の重点をおく「が」格ではなく、敢えて「の」格を使うことで言い切りの力を弱めなお一層の「やはらかさ」を導いていると見る事もできるのではないでしょうか。 そもそもの疑問に関わる「くれなゐの」「薔薇の」「芽の」という「no」の3連発は、リズミカルなだけに簡単に誘導されやすく、それでいてどう繋がるのか、どれと繋がるのかとそこで読み手が戸惑い始める。 初5字の「くれなゐの」は続くべき名詞が見当たらず、では枕詞かと思い出もするが明確な相手が見つからず、頭でっかちのままフラフラしている内での3連発を食らうことになる。 しかも下句の頭の「針やわらかに」をぶつけられて、「やはらかに」は最後の7字に繋がるとしても「針」とはどう関わって読めばよいのか、それさえ「芽」とはどう関わるのかと悩みかねない。 ただしここでは頭韻のように「針…」「春…」と「ha」のリズムは心地よく、 「春雨の降る」というさりげない言い切りで軟着陸できる。 そこでもう一度上の句から辿り始めて、まずは「くれなゐの」が呼び込む「万葉ぶり」や、「薔薇の芽」の一連語を拾い、上末5と下始め7の助詞の交差などを、主題は薔薇の芽と雨との「やはらか」な関係であることに焦点を合わせると、ようやく詠み手の隅々まで廻らされた巧みさと素朴さのコントラストに驚かされる次第です。 まさに、少しくは鋭かるべき針の箇所においてこそ、しとつく春雨のしずくは和毛(にこげ)様のそこに宿して水玉を生(な)しており、そうであればこそ春雨の「やはらかに」降る様がこよなき鮮明さで表現されているのでしょう。 ここに来てようやく、「くれなゐ」とは、「(多くは赤系の色についていわれる)美しく映える色、ほんのりした色合い」 小学館「古語大辞典」 としての「にほひ」なのだ。 そして、その「ほんのりした色合い」は更には、薔薇の芽の針と春雨の生み出した水玉が伝える「ほんのりとした色合い」として、のほのかにして「やはらかな」「光」の色合いなのだとしたら、例えば草野心平の詩「富士山 第肆」のごとく、「川面に春の光はまぶしく溢れ。 そよ風が吹けば光たちの鬼ごつこ。 葦の葉のささやき。 行行子は鳴く。 行行子の舌にも春の光。 」の如く、よしきりの舌に見出した「春の光」にも通じるものがあるのかもしれません。 「くれなゐの」と詠いだしたその色は何に係る、どこへ行った。 それは薔薇に、その芽に、その針に、また春雨には紅として、さらにはその融合では「ほんのりの色合い」に、遂には「春の光」を見出す。 それを視続けている詠み手の心模様もいつしか「やはらかに」の心境へと治まっていく。 そこでこの短歌は詠まれたのかもしれないと。 この頃に次のような歌もあります。 くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花の王 #9に続けます。 くれないの雨が春限定かとの問いかけ自体は#10でご納得いただけたようですが、それは実は季重なりではないかの示唆もまた含まれているのかとも思い立ち、ここで少し続ける形で触れてみます。 まず、この短歌の季語は「春雨」と見られます。 「薔薇の芽」も次の俳句の場合などそれだけで季語となります。 薔薇の芽の真紅を洗う雨となりぬ 岡田日郎 ただ、この短歌において、散文的な表現の整合性を求めた場合には、芽の「の」と針の「に」を入れ替えてしまえば、「二尺伸びたる」... A ベストアンサー 短歌から推測される、詠まれた時の情景・心理なども説明したほうがいいんじゃないかな、と思います。 質問者さんもお気づきのようですがこの歌は、おそらく金魚すくいの時に詠まれた歌であり、金魚すくいが行われるのは縁日など、とてもハッピーな雰囲気、雑踏の中で行われます。 そんな中で掬った後の金魚の姿を見て、詠み手はがく然とするわけですので、詠み手の心理を鑑賞するのはもちろんですが、それだけではなく、1匹だけ掬われた金魚の「思い」を、人間の楽しい雰囲気・雑踏などと対比して推測してみると、もう少し深みのある鑑賞文になるかもしれません。 詠み手自身も、金魚の思いに想到して、歌を詠んだのかもしれませんし。 例えばそうすると、「濡れる」とは、単に金魚の体が水に濡れているということだけではなくて、詠み手は金魚がべつなものに濡れていると感じたのかもしれないと想像する余地も出てきそうです。 Q 与謝野晶子の詩集?の"みだれ髪"について教えて頂きたく投稿しました。 全くこの手のことには知識がありませんが、仕事上内容を理解しないといけなくなりまして 汗; 、時間も無いのにほとほと困っております。 ネットで探したのですがうまく意味としてはヒットしないので。 [1]「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」。 この一文の意味は一般的に 独自解釈でなく どういったものでしょうか。 なるべく詳しく伺いたいです。 [2]みだれ髪全体の意味はどういったものでしょうか。 同じく独自解釈でなく一般的な捉えられ方をなるべく詳しく教えて下さいませんか。 自分が調べてわかっているところは、与謝野晶子自身の恋を題材にした恋愛集というものなのかと。 また、与謝野鉄幹という人物に出会ってからの作品であり、この詩集?を発刊した直後くらいに鉄幹と結婚したということ。 当時としてはとても大胆なというか、時代の先端をいった内容だったような感じ かな?。 以上、どうぞ宜しくお願いします。 A ベストアンサー 「みだれ髪」(歌集ですね)は5年位前に俵万智さんが「みだ髪チョコレート語訳」を出しています。 「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」は、「なんとなくあなたが待っているような気持ちがして外へ出てみたら、花の咲く野辺に出た。 月がキレイなこと。 」かな。 とまあ、恋する女心のなせる業ですね。 ほかの人の解釈の方もどうぞ。 biglobe. htm チョコレート語訳はURLからどうぞ。 これはなかなか今風でよいですよ。 与謝野晶子ファンサイトのようなものもあります。 yosanoakiko. for-you. tabiken. for-you. htm 「みだれ髪」(歌集ですね)は5年位前に俵万智さんが「みだ髪チョコレート語訳」を出しています。 「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」は、「なんとなくあなたが待っているような気持ちがして外へ出てみたら、花の咲く野辺に出た。 月がキレイなこと。 」かな。 とまあ、恋する女心のなせる業ですね。 ほかの人の解釈の方もどうぞ。 biglobe. htm チョコレート語訳はURLからどうぞ。 これはなかなか今風でよいですよ。 Q 中学校で国語の講師をしています。 選択の国語で漢字検定のクラスを持っています。 授業の流れは、毎週、目標とする級の漢字60問を40分ほどで覚えさせて、10分ほどで書き取りテストするというやり方をです。 (採点は教師が行い、次の週に返却。 その際には間違いの多い漢字についてプリントをつくって解説。 ) しかし、この授業だと、回を追うごとに飽きてくる生徒が出てきてしまい、騒ぐ生徒を怒鳴って、むりやりさせることがしばしばありました。 この授業の目標は漢字検定合格ですが、なんとなく選択してきた子どもたちが多いためモチベーションが低く、小学校での漢字が身についていない生徒もいます。 そこで、質問です。 子どもたちが飽きずに漢字が覚えられるアイデアはありませんか。 60問の漢字を30問ずつ、時間を区切って学習させるとか、先にテストをさせて、間違えた問題を練習させて、最後にまた確認のテストをさせるなど、いろいろと考えてみたのですが、50分の授業に耐えられる内容かというと無理だと思います。 また、ゲームのように楽しみながら学習を進めたいとも思っているのですが、そのアイデアも浮かびません。 漢字検定にこだわらないアイデアで結構です。 こんなことをしたら漢字の授業が盛り上がった、こんなことをしたら、生徒が集中して学習に取り組んだという実践をお持ちの方、いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。 なんとかして、子どもたちに楽しんで授業を受けてもらいたいのです。 よろしくお願いします。 中学校で国語の講師をしています。 選択の国語で漢字検定のクラスを持っています。 授業の流れは、毎週、目標とする級の漢字60問を40分ほどで覚えさせて、10分ほどで書き取りテストするというやり方をです。 (採点は教師が行い、次の週に返却。 その際には間違いの多い漢字についてプリントをつくって解説。 ) しかし、この授業だと、回を追うごとに飽きてくる生徒が出てきてしまい、騒ぐ生徒を怒鳴って、むりやりさせることがしばしばありました。 この授業の目標は漢字検定合格ですが、なんとなく選択して... A ベストアンサー 小学校に勤務しています。 その小学校の校長先生が教えてくれたんですが。 ひらがなで書かれた文章(これは教科書にのっている文章でも何でもO. K)を子どもに渡します。 それを漢字で書き直してもらいます。 書かれた漢字の数によって、点数をつけていきます。 当然、知っている漢字を使って書いていくわけですが、それだけでは、たくさんの漢字を書けません。 そうすると、自主的に自分で辞書を使って調べて書いていきます。 それが、この方法のすごいところです! 教師も脱帽するような難しい漢字を調べて書く子もいたそうです。 (ちなみに、その子は東大に行ったそうです) お勧めです! おまけですが、下記アドレスのサイトは、よく参考にします。 「漢字」で検索してみてください。 ヒントが得られるかもしれませんよ。 がんばってくださいね。 tos-land.

次の

正岡子規のこの短歌の意味や特長、表現技法を教えてください。...

くれ ない の 二 尺 伸び たる 薔薇 の 芽 の 針 やわらか に 春雨 の ふる

短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。 感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか? 以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、 ネットで調べてもよくわからないので困っています。 どうぞよろしくお願いします。 ・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌) ・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌) ・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王) ・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂) ・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持) すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。 どうかよろしくお願いします。 「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。 以下のような場合があります。 1、切れ字のあるところ。 「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。 俳句の項目で調べると分かります。 2、係り結びの結んであるところ。 係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。 3、終止形や命令形で言い切っているところ。 4、体言止めで言い切っているところ。 ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。 5、倒置法のあるところ。 6、呼び掛け法のあるところ。 韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。 *防人に・・・ あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。 なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。 *多摩川に・・・ 多摩川に晒して作る布を見ていた。 その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。 *君待つと・・・ 恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。 ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。 単に季節がほんとに秋だっただけ。 女心の寂しさは詠み込まれているけど。 *近江の海・・・ 琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。 *うらうらに・・・ うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。 一人ぼっちで物思いに耽っているので。 春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。 雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。 万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。 五七/五七/七 と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。 (古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます) 五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。 七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。 A ベストアンサー 「句切れ」を単純に説明すると、「普通の文章にしたときに『。 』をつけるところで切れる」ということになります。 だから、俳句を普通の文章(つまり私たちが普段使っている文章)に訳せないと句切れの位置を理解することはできません。 ただ、それだと中学生には難しいですよね。 そこで、教科書か参考書を見て「切れ字」を覚えましょう。 「切れ字」は「だなあ。 」という意味なので、切れ字があればそこで切れます。 」という意味なのでそこで切れるのです。 もうひとつは動詞が「けり」で終わっていたらそこで切れます。 「走りけり」は「走った。 」という意味で、普通の文章なら「。 」をつけるところですからそこで切れるのです。 これだけでは完璧に句切れをみつけることはできませんが、まずはこれをマスターして下さいね。 季語についてはがんばって覚えるしかありません。 A ベストアンサー 五七調の句切れは、次のようになります。 二句切れ 五 七。 五 七 七 四句切れ 五 七 五 七。 七 つまり、いずれも「五 七」で文が切れることから、五七調と呼びます。 一方、七五調の句切れは、次のようになります。 初句切れ 五。 七 五 七 七 三句切れ 五 七 五。 七 七 「七 五」で切れるから七五調です。 なお、一首の中で二句と四句の二か所で切れる歌はありますが、初句と三句で切れる歌は非常に少ないようです(見たことがありません)。 また、二句と三句といった、破格の組み合わせの二か所で切れる歌も見たことがありません(絶対にないとは言い切れませんが。 以下、旺文社古語辞典巻末付録の「国語・国文法用語解説」にあった記述ですが、 1 ・ 2 のご質問に対する回答としてよくまとまっていると思うので、そのまま引用します。 【 】は私がつけたもので、特に強調したいところ(ご質問に直接かかわるところ)を囲んでいます。 五七調 >わが国の詩歌は、五音・七音を音数律の基本単位として、その反復・配列によって構成されることが多い。 【五七調は、上五音、下七音の結合から成る調子で、上軽く、下重く、そのために安定感があって、典雅・荘重なリズムを形成する。 】古く万葉集の長歌に多く見られたが、古今集を経て新古今集時代になると、七五調が盛んとなり、五七調は衰えた。 【長歌の場合は五音・七音の反復でそのまま五七調であるが、短歌では二句切れや四句切れになる場合を五七調とよぶ。 】なお、五七調は和歌以外の詩歌にも用いられ、特に明治以降は詩のスタイルとして用いられている。 七五調 >(略。 上記五七調の第一文に同じ)【七五調は、上七音、下五音の結合から成る調子で、上重く、下軽く、そのために不安定な感じがある反面、軽妙流暢なリズムを形成する。 】和歌においては、古今集から多くなり、新古今集において最も多く用いられた。 【短歌における七五調とは、三句切れになる場合をいう。 】なお、七五調は和歌以外の種々の歌謡、散文の道行文などにも用いられ、明治以降は詩のスタイルとして広く盛んに用いられている。 私事に渡り恐縮ですが、爾来、もともと韻文(及び古典全般)が苦手ということもあって、各種教材や模試で、突っ込んだ問題は出してきませんでした。 もし、短歌に関して一家言あるのならともかく、そうでなければ、あまり深入りしない方がいいと思います。 五七調の句切れは、次のようになります。 二句切れ 五 七。 五 七 七 四句切れ 五 七 五 七。 七 つまり、いずれも「五 七」で文が切れることから、五七調と呼びます。 一方、七五調の句切れは、次のようになります。 初句切れ 五。 七 五 七 七 三句切れ 五 七 五。 七 七 「七 五」で切れるから七五調です。 なお、一首の中で二句と四句の二か所で切れる歌はありますが、初句と三句で切れる歌は非常に少ないようです(見たことがありません)。 また、二句と三句といった、破格の... たとえば、doという動詞の場合 do (原形、または現在形で複数の主語を受ける) does (現在形で単数の主語を受ける) did (過去形) done (過去分詞) doing (いわゆるing形)ーー現在分詞と動名詞があります の5つがあります。 この変化のうちdoneが過去分詞にあたります。 なお、doingは、名詞の働きをしていなければ現在分詞です。 「過去」という語がまぎらわしく「受け身・完了形」という呼び名にすればいいのにと私は思っています。 受け身・完了形ーーなのです。 つまり、受け身(受動態とも言います)と完了に使うからです。 分詞というのは、2つの役割に分かれるということを意味します。 動詞としての役割と形容詞としての役割です。 Tom and I do the work every day. Tom does the work every day. Tom did the work yesterday. The work is done by Tom. Tom has done the work. Tom is doing the work now. このうち、4番目と5番目が過去分詞の例です。 The work is done by Tom. (その仕事はトムによってなされる) 5. Tom has done the work. (トムはその仕事をやったところです) 4は受動態(受け身)の例です。 be動詞+過去分詞で使います。 他の例題と主語が違うところが注意です。 他の例で動詞の後にくるthe workが主語になっていますね。 その仕事はトムによってなされるーーという受け身の意味となるからです。 5は4の受動態とは全く関係がありません。 別物です。 have 主語が単数ならhas)+過去分詞で使う現在完了形です。 もう1度確認します。 例 work 原形 worked 過去形 worked 過去分詞 ところがdoのようないくつかの動詞は、不規則な変化をし、その中でも過去形と過去分詞が違うものがあります。 例 do 原形 did 過去形 done 過去分詞 go 原形 went 過去形 gone 過去分詞 take 原形 took 過去形 taken 過去分詞 以上、ご参考になればと思います。 たとえば、doという動詞の場合 do (原形、または現在形で複数の主語を受ける) does (現在形で単数の主語を受ける) did (過去形) done (過去分詞) doing (いわゆるing形)ーー現在分詞と動名詞があります の5つがあります。 この変化のうちdoneが過去分詞にあたります。 なお、doingは、名詞の働きをしていなければ現在分詞です。 Q アルトリコーダー(バロック式)の初心者です。 ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。 以下の運指は、間違っていませんか? お教え下さいますでしょうか。 ハ長調の簡単な曲でも吹けたらと思いつつ、ドレミファを順に吹いているのですが、添付されていた運指表の見方すら、頼りない状態です。 以下の運指は、間違っていませんか? お教え下さいますでしょうか。 A ベストアンサー 良い子は早く寝るのだ。 おっちゃんは子供じゃないから夜更かしして……かあちゃんに叱られる始末だ。 国語の文章問題の解き方は、論説文と物語文とで分かれる。 今回は論説文について考えよう。 論説文は、要するに「筆者は何が言いたいか」を突きとめればいい。 そのためにこそ、読解するのである。 次の 1 ~ 3 の手順を踏む。 1 まず、問題を先に読む。 先に文章全部読むのは、残念な子(アホな子)だ。 とは言っても、問題は細かくいろいろなことを要求して来るので、問題をすべて頭に入れてから文章を読むのは、なかなか無理である。 だいたいでいいから、問題をひととおり読む。 2 次に文章を全部読む。 このとき、線を引きながら読む。 波線または直線である。 波線 指示代名詞、接続詞に波線を引く。 これは文法の品詞分類が目的じゃなくて、文章全体の中で文や段落がどうつながっているかを知るためである。 この段落でいうと、「これ」に波線を引くわけだ。 指示語的な語句、接続語的な語句にも波線を引く。 例を挙げると、「というわけで」は文法的には接続詞ではないが、接続語的な語句といえる。 直線 「たぶんここが筆者の言いたいポイントかも」と思われるところに、線を引いておく。 3 もっかい問題を読んで、それに対応する文章の部分を読み、解いていく。 波線を引いた語句が、それぞれどこを指しているか、あるいは、どことどう接続しているかを考えると、役に立つ。 「どう接続しているか」には、逆接、言い換え、具体例、理由、結論などがある。 文章全体の中で文や段落がどうつながっているかが分かれば、話の流れが見えて来て、筆者が結局何を言いたいかを把握できる。 ちなみに、物語文の読解は「追体験」が大切である。 「登場人物(または筆者)はどう感じたか」を、読者が追体験する、すなわち相手の気持ちになって考えてみるのである。 良い子は早く寝るのだ。 おっちゃんは子供じゃないから夜更かしして……かあちゃんに叱られる始末だ。 国語の文章問題の解き方は、論説文と物語文とで分かれる。 今回は論説文について考えよう。 論説文は、要するに「筆者は何が言いたいか」を突きとめればいい。 そのためにこそ、読解するのである。 次の 1 ~ 3 の手順を踏む。 1 まず、問題を先に読む。 先に文章全部読むのは、残念な子(アホな子)だ。 とは言っても、問題は細かくいろいろなことを要求して来るので、問題をすべて頭に入れてから文章を読む... Q 正岡子規の短歌、 ・くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る について教えてください。 特に「二尺伸びたる」はどの名詞を修飾しているのでしょうか。 候補は、薔薇と芽だけれど、二尺って60センチです。 だとすれば、それが修飾しているのは、芽(茎や蔓の意がある)でしょう。 でも、茎が紅色って考えにくいです。 ではと思って、「くれないのバラの芽(蕾)」だと考えると、「二尺伸びたる」のがどこを修飾するかわからなくなってしまいます。 それならと思って、「くれないの」を枕詞だと考えてみるけれど、枕詞の「くれないの」は普通、「色」や「あさ」にかかるのだから、ちょっと無理があります。 正岡子規って、写実主義の歌人だったから、たぶん答えがあると思うのです。 文法的に、どうしたら整合性がつくのか、教えてください。 A ベストアンサー 早蕨の質問がお終いになっていましたので、こちらに回答します。 毎年冬を越すため、ハイブリッドのバラから、去年伸びた茎を毎年スッパリと剪定します。 春になるとまたそこから芽が伸びてきます。 白いバラの茎は柔らかい緑色ですが、赤いバラの茎は紅色といえないこともありません。 細い茎がどっしりとした根元からシューッと伸びてきます。 葉は深い緑色ですから、紅色は映えます。 60センチ伸びたというから、ずいぶん大きな花のつぼみがついていたことでしょう。 そのつぼみに、まるで早く咲けというように、春雨が降りかかっています。 風もなく、シトシトと霧のような春雨です。 そうして、バラの花はまた今年も咲こうとしているのです。 作者がバラに見たものは希望だったか、自然の摂理だったか。 散り際の美しい桜に比べると、バラの美しさは開きかけに尽きます。 その、開きかけよりさらに前、つぼみの景色を歌にした作者は、柔らかな茎を伸ばして、成長してゆくものの命を暖かく包み込む、春雨を詠んでいるように感じます。 彼がつぼみで、春雨は母だったかもしれません。 A ベストアンサー 他の方のおっしゃるように「首」で数えます。 なお、「和歌」は、中国の詩(日本人が作ったものもありますが)である「漢詩」に対して、「日本の歌」を意味するもので、広い意味では、「短歌(五七五七七)」の他に、「長歌(長歌=五七を二回以上繰り返して、最後五七七で終わる)や旋頭歌(せどうか=五七七五七七)なども含みます。 その、広い意味での「和歌」の中で、平安時代以降は短歌以外はあまり(ほとんど)作られなくなったので、「和歌」は、五七五七七の「短歌」を表す狭い意味で使われるようにもなりました。 現代では和歌というとほとんどの場合、五七五七七の短歌のことです。 だだし、その場合でも五七五七七の「短歌」を和歌と呼ぶのは江戸時代の作品までで、明治以降の作品は短歌と呼び、和歌とは呼びません。 したがって、与謝野晶子や斎藤茂吉、近いところでは俵万智などの作品は「短歌」と呼び、和歌とは言いません。 A ベストアンサー まず連体詞と形容詞(形容動詞)の違いとして ・形容詞:(自立語であり、活用できて、言い切る形が「い」で終わる)性質、状態を表す。 ・形容動詞:(自立語であり、活用できて、言い切る形が「だ・です」で終わる)性質、状態を表す。 ・連体詞:(自立語であり、活用できず、修飾語になれる)体言のみを修飾する(=連体修飾語) (連用修飾語すなわち用言を修飾するときは副詞になる) …です。 連体詞と形容詞の大きな違いとして、「活用」があります。 形容 動 詞は語形が後の言葉によって変化しますが(=活用できる)、連体詞は変化しません。 紛らわしいときは上の法則に当てはまれば形容詞、と分かりますね。 ですから連体詞となります。 また、連体詞については種類が少ないので、以下のパターンを覚えるのが理屈云々より手っ取り早いかと思います…。 「~の」タイプ:この、その、あの、どの、例の、など 「~な」タイプ:大きな、小さな、おかしな、など 「~た(だ)」タイプ:たいした、とんだ、など 「~る」タイプ:ある、さる、きたる、いわゆる、など 「~が」タイプ:我が、など 最後に練習問題です。 次の文の()は連体詞、形容詞のどちらでしょう。 1 景色は(美しかっ)た。 2 (おかしな)話を聞いた。 3 (大きな)仏像だ。 4 (大きい)仏像だ。 5 (例の)ブツはどこだ。 答えは 1 形容詞 2 連体詞 3 連体詞 4 形容詞 5 連体詞 です。 1 4 は形容詞の活用法に当てはまりますね。 2 3 は連体詞の「~な」タイプ、 5 は「~の」タイプです。 …大分見えてきたでしょうか。 ご参考になれば幸いです。 まず連体詞と形容詞(形容動詞)の違いとして ・形容詞:(自立語であり、活用できて、言い切る形が「い」で終わる)性質、状態を表す。 ・形容動詞:(自立語であり、活用できて、言い切る形が「だ・です」で終わる)性質、状態を表す。 ・連体詞:(自立語であり、活用できず、修飾語になれる)体言のみを修飾する(=連体修飾語) (連用修飾語すなわち用言を修飾するときは副詞になる) …です。 連体詞と形容詞の大きな違いとして、「活用」があります。 形容 動 詞は語形が後の言葉によって変化し...

次の