醤油 の 魔 人。 メリッサキンレンカの前世(中の人)は96猫か梅田醤油?イラストレーターは?

日本製の醤油は外国人にとっても日常に欠かせない存在

醤油 の 魔 人

皆さん、「福岡の醤油は甘い」ってご存知でしたか? 九州外から福岡に来た人が口にすると「うわっ、何これ!? 甘すぎ」と驚き、福岡育ちで関東や関西に引っ越した人は「スーパーの醤油はどれもしょっぱい! 甘い醤油がない!」と戸惑ってしまうようです。 世界初の醤油テイスティングバーを福岡市でオープンし、自ら醤油づくりに携わる福萬醤油7代目、大浜大地さんです。 今回はそんな大浜さんに、気になる醤油のあれこれを伺ってきました。 本当ですか? 大浜 そうなんです。 全国で醤油を製造している1,250社ほどのうち、約100社は福岡県にあります(平成30年9月現在)。 昔は全国にもっと多くの醤油屋さんがあったけれど、戦後にだんだん減って。 福岡に多く残っているのは、福岡独特の味と文化があり、それを支持する方たちがいるおかげだと思います。 大浜 はい、福岡に限らず九州の醤油は甘くて、バリエーション豊富なのが特徴です。 まずは醤油全体のことからお話ししましょう。 醤油は、大豆と小麦を原料とした麹(こうじ)に食塩水を加えて、発酵させたものを絞った調味料。 一番ポピュラーなのが「濃口醤油」です。 関東あたりの家庭にあるのは濃口だけで、料理もさしみもこれ1本というのが一般的です。 神戸生まれの「薄口醤油」は、食材の旨味を生かせるように味も色も薄い。 ちなみに塩分は濃口とほぼ同じです。 それから、三重県などで愛用されている、色の濃い「たまり醤油」もあります。 醤油の作り方自体は他の地域と同じですが、ここで作る醤油は、全国の品評会で最高賞となる農林水産大臣賞を何度か受賞するほど、非常にレベルが高い。 醤油の決め手となるのは麹菌の管理で、福岡の組合には素晴らしいバイオ発酵学の先生がいらっしゃるんです。 大浜 そうなんです。 福岡の多くのメーカーはこの醤油のもとをベースにして、各社で火入れをした後に甘味料などをブレンドして、オリジナルの醤油を作っています。 他の地域の醤油は火入れしたら完成ですが、福岡はブレンドするというのが一番の特徴。 そのときに甘みを足すので、甘い醤油になるというわけです。 ちなみに、醤油が甘いのは山口県あたりから西側で、九州全域にわたっています。 大浜 福岡では濃口に甘みを加えて「さしみ醤油」や「うまくち醤油」を作っています。 火入れが終わった無添加の濃口醤油は塩分が17~18%くらい。 そこに甘みを足すことで塩分が下がり、うまくちは16%、さしみが15%くらい。 福岡の家庭にはだいたい濃口とさしみの2種があって、使い分けていますね。 さしみ醤油の甘さも、作る地域によって特徴があります。 それは、醤油屋さんが三河屋さんをしていたからなんです。 都市部を離れると、醤油を自宅まで配達してくれるのですが、そのときに「この前の醤油は塩辛かったから、もっと甘くして」などというお客さんの声を聞きながら、地域の味を作っていったという話があります。 江戸時代、醤油は長崎の出島から海外に輸出されていました。 当時、醤油と酒は花形の輸出品。 醤油は今でこそ値段が下がっているけど、その頃は酒と同じくらい値段の高いものでした。 一方、砂糖が輸入品として出島から日本に入ってきて、長崎から佐賀、福岡を通って、大阪や江戸へと運ばれた。 ですから、九州では砂糖が比較的手に入りやすかったのでしょう。 高級な醤油に貴重な砂糖をブレンドして、人をもてなそうという文化があったのかもしれません。 大浜 九州内でも、福岡から南に行けば行くほど甘くなります。 日本で一番甘い醤油は鹿児島産で、一番塩辛いのは北海道産じゃないでしょうか。 私が調べたところでは、北海道の醤油は塩分22%、関東は18%。 さしみ醤油なら福岡は15%、大分13%、鹿児島11%程度まで下がる。 九州内は、基本的には近郊で釣れる魚に合わせて醤油を作っていて、例えば、福岡県内でも宗像や糸島などの海沿いはタイやイカがよくとれるので、タイやイカに合う甘めの醤油を売っている。 北九州や飯塚などの工業地帯に行くと、少し塩分が高かったり。 大分はアジやサバ、ひかりもので脂がのっているので、とろみがかかって甘みが強め、鹿児島はブリやカンパチに合わせて、さらに甘みが強くなっています。 魚の脂には甘い醤油が合うということで、そうなってきたのでしょうね。 その3%の差が大きいのですか? 大浜 3%の違いはすごく大きい。 海水の塩分って約3%なんですよ、この3%で使い方が変わってくる。 関東の醤油で食べるときはちょっとつけるくらいがおいしくて、福岡はベタっとつけたほうがおいしい。 関東の人は、福岡に来たときもいつもの醤油と同じように少ししかつけないと、あまり味を感じない。 反対に、福岡の人が東京に行ったとき、いつものようにベタっとつけちゃうと、「塩っぱい!」となる。 福岡の醤油を初めて味わった人は「甘すぎる!」と言われるけど、福岡の人はそこで落ち込まず、「さしみに多めにつけて食べてみて」とひと押しするといいのですね。 大浜 その通り、ぜひやってみてください。 金沢の濃口と福岡の濃口、2つの香りを比べてみてください。 (実際に匂わせてもらう)どちらがお好みですか? 金沢の濃口は塩みを感じる、とがった香りがするでしょう。 それに対して、福岡の醤油は柔らかくまろやかな香りがする。 だから、福岡の醤油は他のものとブレンドしてもなじみやすく、ブレンドに向いているといえます。 ちなみに、この香りの違いは、菌の違いによって生まれるものです。 大浜 今、香りを比べていただいて福岡のほうが好きなら、味も福岡のほうが好みだと思います。 醸造物は、味の8割が香りで決まります。 舌で感じるよりも、鼻でおいしさを感じる部分が大きい。 だから、醤油やワイン、日本酒などの醸造物を選ぶときは、好きな香りのものを選べば、だいたい間違いありません。 大浜 私はこれまで2,000種以上の醤油を味見してきました。 当店では、その中でも全国の醤油300種ほどを取りそろえています。 九州の醤油は香りがまろやかで、何でもブレンドしやすい。 ですから、甘みを加える以外に、カツオや昆布のダシ、海苔のダシ、ブドウの果汁、イチゴ、オリーブオイル、燻製の香りまで、いろんなものをブレンドした醤油があって、九州では1,200種類ほどが発売されています。 醤油の好みは人それぞれなので、旅先の道の駅で地元の醤油を探してみたり、いろいろ試してみて、ぜひお気に入りを見つけてください。 最後に、AKB48の総選挙にならって、大浜さんが自宅に置いておきたい醤油の「神7(セブン)」を教えてください。 大浜 う~ん、難しいですね。 あえて選ぶなら、本醸造濃口、だしと合わせたうすくち、塩分ゼロ、さしみ2種、玉子ごはん専用昆布醤油、とうふかけ酢、かな…。 醤油の世界って、ものすごく奥が深くて面白い。 昔から日本人の身近にある調味料ですし、お手軽な価格なので、もっと多くの人に気軽に楽しんでもらえるようになるといいですね。 (大浜さんが選ぶ、神7。 写真左から、本醸造濃口、だしと合わせたうすくち、塩分ゼロ、さしみ2種、玉子ごはん専用昆布醤油、とうふかけ酢) 大浜大地 おおはま・だいち さん 「福萬醤油」7代目、「九州醤油研究会」会長。 1981年、北九州市生まれ。 高校の2年間はニューヨークの公立校に通い、九州産業大学の写真専攻を卒業。 福岡のウェブ制作会社勤務を経て、IT会社を設立。 たまたまスペインで醤油の魅力を知り、1821年創業の福萬醤油と出会い、7代目社長に就任。 2009年、天神で醤油をテイスティング販売する 「バル福萬醤油」をオープン。 オリジナルの醤油も製造。

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ハライチ岩井が作った『醤油の魔人と塩の魔人』の歌が大流行 キッコーマンも思わず反応 | ガジェット通信 GetNews

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メリッサキンレンカとは、 2020年 2月現在、登録者数3万人を越えている有名VTuberです。 にじさんじに所属している女性?ですね! 配信中は一人称は僕になっていますが、ヒールを履いていたので一応女性認定です ちなみに名前ですが、メリッサはギリシャ語でミツバチの意味、キンレンカはそのまま日本語で金蓮花のことらしいです。 ギリシャ語と日本語が混ざった名前は珍しいですね。 笑 動画内容は、2月1日から活動を開始しているので何とも言えないですが、主にゲーム実況と雑談配信を行っています。 どちらかというと雑談配信のほうが多いです。 youtube. イケメンな女性の声って感じがしますね!また、『ほな』と言っているところもあったので関西出身の方ではないかと思われます。 そして、Twitterのプロフィール欄には、 『お歌がすき』と書かれています。 96猫 96猫は2006年からニコニコ動画で歌ってみた動画を投稿して活動している歌い手です。 こちらはかなり有名な方なので、知っている方も多いのではないでしょうか?実際、僕も知っていました。 youtube. 声だけで聴くとかなりメリッサキンレンカと似ていますね! 梅田醤油 梅田醤油は、2010年からニコニコ動画で活動していた歌い手らしいです。 偶然にも96猫と一緒ですね!ただ、なぜ『らしい』がついているのかというと、梅田醤油が投稿している動画が全くないからです。 辛うじてニコニコ動画で別の方にあげられている動画があり、そこには梅田醤油のTwitterのアドレスもあったのですが、現在Twitterのアカウントは削除されていると出てきました。 残念ながらニコニコ動画の動画はここに載せることはできませんが、リンクは載せておきます。 nicovideo. 理由ですが、まず、 それぞれがvtuberをやるメリットです。 梅田醤油は2010年から活動をしていますが、現在は引退しています。 なので、今話題のvtuber、しかもにじさんじに所属できるなら喜んでやると思います。 対して96猫ですが、こちらはメジャーデビューしており、さらにアニメのオープニングまで歌っていて活躍中です。 サブチャンネルでも順調ですし、何より96猫はサブチャンネルではvtuberとなって活動しています。 こちらは絵師さんもついているので、もしこの状態でにじさんじの別のvtuberになろうものなら大変なことになります 次に TwitterとYouTubeのアカウントです。 梅田醤油のTwitterとYouTubeのアカウントが削除、もしくは元々ないのに対して、96猫はどちらも存在しています。 YouTubeの動画は今更新が止まっていますが、Twitterのほうは最近リツイートしていたりと更新されています。 vtuberになっていてもTwitterは使うので、もしもの混同を防ぐために普段使っているTwitterのアカウントは削除されると思います。 そして最後は、メリッサキンレンカが投稿したイラストが、梅田醤油のものと酷似していることです。 pixiv. どうでしょうか?個人的には、絵の雰囲気や文字の入れ方などが結構似ていると思いました! 以上の三点が、メリッサキンレンカの前世 中の人 が梅田醤油だと思う理由です。 公開すれば知名度も上がると思うのですが、どうなのでしょうか?いつか公開してくれるといいですね! 結局、メリッサキンレンカはどんな人? いかがでしょうか?今回は メリッサキンレンカの前世 中の人 は96猫か梅田醤油なのか、イラストレーターは誰かをまとめてみました! にじさんじに所属しているvtuberですね!にじさんじといえば、 魔使マオ、笹木咲、イブラヒム、エリーコニファーが所属している事務所ですが、その中でも特に歌が好きなvtuberだと思います! 【関連記事】 【関連記事】 【関連記事】 【関連記事】 前世 中の人 ですが、96猫、梅田醤油の二人の候補がいて、色々な要素を考えた結果、 梅田醤油ではないかと思われます。 ですが、確信に近いものはまだないので、今後の情報に期待がかかりますね! イラストも綺麗ですが、いったい誰が イラストレーターなのかはわかりませんでした。 気になる方も結構いると思うので、いつかイラストレーターが誰なのかも教えてくれるといいですね! 現在登録者数3. 8万人程ですが、たった数日でここまでの登録者数に届くのは凄いと思います!10万人を越える日もそう遠くないと思います!今後のメリッサキンレンカの活躍に期待していきましょう! ここまで見ていただきありがとうございます!.

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醤油を飲み過ぎたら死んでしまう!?致死量はどれくらい?

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日本の伝統的な発酵食品 日本の伝統的食文化(和食)を特徴づける食品や調味料はどれも微生物の力を借りて作られています。 和食における調味料の特徴は、発酵調味料が非常に多く、大豆、麹、塩を発酵させて作る味噌や醤油、米や米焼酎を発酵させた酢、みりん、また、鰹節も黴付けして発酵させています。 日本の調味料の代表ともいえる醤油は、和食はもちろん、あらゆる料理に欠かせない調味料で、塩辛み、うま味、酸味、甘みが混じり合って、料理の味付けの主役といえます。 醤油は味噌と共に、大豆を主原料とする日本独特のグルタミン酸などの成分を多く含む発酵調味料です。 日本は、四季の変化に富み湿度が高いため、この気候を利用した、いろいろな植物性発酵食品(醤油や味噌、日本酒、漬け物、納豆など)が、日本の長い食文化の歴史の中で創意工夫されて発達し、私達の食生活に欠くことのできないものとなりました。 蒸した大豆に炒った小麦を混ぜ、麹菌をつけて麹(こうじ)を造る。 木桶に塩水と麹を入れ、混ぜ合わせて約1年、発酵熟成させて袋に入れて絞った液汁が醤油です。 醤油の栄養分は、原料となる大豆や小麦の栄養分がそのまま含まれています。 <はじめに> 醤油の原料の大豆は、中国では5000年も昔から栽培されていました。 日本に伝わった時期は定かではありませんが、縄文時代の竪穴遺跡から大豆の炭化物が出土していることから、大豆は縄文時代に中国から朝鮮半島を経て、伝来したと推定されています。 大豆は水稲とともに、弥生時代にはすでに栽培が行われていたといわれています。 日本で大豆栽培が広く始まったのは鎌倉時代以降のようです。 また、小麦も朝鮮半島を経由して弥生時代中期頃に日本に伝えられ、水田稲作とともに麦類が栽培されていました。 江戸時代には稲の裏作としての小麦栽培が全国的に広まりました。 日本でいつ頃から醤油が食されるようになったかと言うと、しょうゆのルーツ醤(ひしお)のたぐいが、縄文時代末頃からあったといわれ、縄文時代の遺跡からは、熟鮨( 魚醤 )の原型と思われるものが出土しています。 本格的に醤 ひしお が作られるようになったのは、中国や朝鮮半島から製法が伝えられた大和朝廷時代頃のことでした。 奈良時代に醤(ひしお)が生産されていますが、これは調味料というより、そのまま、おかずとして食べる"なめもの"の一種として食されたものといわれています。 調味料として「しょうゆ」という言葉が最初に文献に現れたのは室町時代です。 室町時代末期(1530年代)に調味料として醤油が生産されるようになり、当時の文化の中心であった関西地方を中心に、醤油製造を家業とする人たちが現れます。 この時代の醤油は現在のものに近いと思われ、その製法や品質についてはほとんど示されず、秘伝口授のようでした。 そして、関西地方 湯浅、龍野、堺)で生まれた醤油はやがて関東(銚子、野田)へ、そして全国に広まっていきます。 江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、さしみに欠かせない調味料として「煎り酒」が使用されました。 醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からです。 この江戸時代中期に、醤油は日本独自の発酵食品の醤油として完成しました。 「たまりしょうゆ」はすでに室町時代の頃に流通しており、「こいくちしょうゆ」と「うすくちしょうゆ」は江戸時代中期頃にその基本が確立されました。 「さいしこみしょうゆ」は江戸時代後期に、「しろしょうゆ」は江戸時代末期から明治時代初めに確立されたとされています。 <醤油の起源> 醤油の起源には諸説あります。 中国の古文書による「醤 しょう/ひしお 」とは、動物・魚類の内臓や生肉、血、骨などを一緒にして、たたき潰して塩と酒とともに百日ほどかけて漬け込み、形も崩れてどろどろになった発酵したものを言い、多種多様なものがあったといいます。 醤油の「醤」という字を使うこの言葉は、広く発酵調味料のことをさして使われています。 「醤」は、魚介・鳥獣の肉や内臓、野菜などを塩漬けにして、熟成させたもので固形に近いものと考えられています。 日本でも縄文時代には、魚を原料とした醤の類のものが利用されていたようですが、本格的につくられるようになったのは、大和朝廷が誕生してからです。 醤 ひしお とは、食品の保存のための塩蔵品の一種に当たる塩漬発酵品のことです。 日本古来からの醤 ひしお としては、3種類があり、魚や肉を使った「魚醤 うおびしお 」や「肉醤 ししびしお 」、果実・野菜・海草等を原料にした「草醤 くさびしお 」が縄文時代末頃から並行して使われていました。 縄文時代につづく弥生時代の遺跡からは、醤(ひしお)と言われる塩漬けの保存食が出土しています。 奈良時代には、中国や朝鮮半島から穀物を原料とする「穀醤 こくびしお 」が日本に伝わりましたが、中国からのものを「唐醤 からびしお 」、朝鮮半島から来たものを「高麗醤 こまびしお 」と呼んで他の醤と区別していました。 これら穀物を材料にした穀醤(こくびしお)が、今日の醤油の元祖といわれています。 日本人は「穀醤」を好みました。 これが醤の最初の醤油の原形のものです。 液体ではなく残った固まりを現在の味噌の祖となる「未醤 みしょう 」と言いました。 (末醤=未醤=味噌で、味噌の由来の もうひとつの説は『大宝令』 701年 には「醤」「豉 くき 」のほかに「末醤 まっしょう 」が収録されていることから、「末醤」は日本独自のものと云える。 日本では醤油に近い系列の醤と末醤は最初から別物と認識していた。 朝鮮の文献に見られる末醤・未醤 みしょう は、明らかに日本語からの借用で、おそらくは、15世紀前半の室町期に3回 1420年、1439年、1443年 来日した朝鮮通信使とは無関係ではなかろうと推測できる。 ちなみに、当時の末醤は水気の多いペースト状であったと推測できる) いろいろな説がありますが、奈良時代にはすでに、大豆を原料にした醤 ひしお という発酵食品があって、醤 ひしお は現在の味噌や醤油の原型と言われています。 醤 ひしお の呼び名は奈良時代の後の平安時代まで継承されたようです。 醤 ひしお をルーツとする発酵調味料や食品としては、魚醤 うおびしお が今の塩辛や塩魚汁 しょっつる に、草醤が今の漬物に、肉醤は塩辛類に、そして、米・麦・豆などの穀物を原料とした 穀醤 がのちの味噌、醤油に発展していったと考えられています。 高麗醤 こまびしお は味噌の原形 未醤 とされ、今日の味噌は江戸時代に完成したと言われています。 醤油に結びつく「穀醤」には大豆が使用されていましたが、江戸時代の初期から中期にかけて 日本人の知恵で大麦、その後、小麦を炒って使用するようになりました。 ほぼ等量の「大豆」と「小麦」を使って全量を散麹 ばらこうじ とし、塩水と混ぜて諸味とする日本独自の醤油製法は独特の豊かな風味を醸し出しました。 現在の日本の紅く澄んで香り高い醤油は、日本人が長い時をかけて、これらの発酵食品を改良し発展させることで独自に作り上げたものなのです。 鎌倉時代の禅僧、覚心 かくしん:1254年 が、中国 宋 の浙江省にある禅宗五山の一つ、径山寺 径山興聖万寿禅寺 で6年間の修行を積み帰国後、紀州・由良 和歌山県湯浅町 に西方寺 後の興国寺 を開きます。 虚無僧 こむそう の開祖でもある覚心は、精進料理として径山寺 きんざんじ で学んだ醸造法で、大豆と大麦をあわせて作った麹に、下漬けをした茄子、瓜、胡瓜、生姜などの野菜を混ぜて桶にいれ、塩水を加えて発酵させた保存食の「なめ味噌」(径山寺味噌)造りを広めました。 なめ味噌の製造過程で塩の浸透圧により野菜から出る水分は、コウジカビの腐る原因になるとして、それまで捨てられていましたが、捨てていた味噌の「上澄み液」で食物を煮ると、これまでにないうま味がついて煮物の味付けに良いことが発見されました。 これが「溜」(たまり)と呼ばれる調味料 醤油の最初の形 の始まりです。 それ以後、水分の多い径山寺味噌(きんざんじみそ)を造るようになり、径山寺味噌の桶の底や味噌の上にたまった液汁 溜 を調理に用いるようになり、今の「溜(たまり)醤油」に近いものが生産されるようになりました。 醤油は、これらの発酵食品を元にして、長い時の中で、その土地の風土・気質に合うように、またよりおいしく生産効率を上げるために改良に改良を重ね、日本で独自に作り上げられた調味料です。 特に、穀醤が発展した奈良や京都を始め、径山寺味噌が作られ始めた紀州の湯浅、明の時代に中国醤油が輸入された大阪の堺など、醤油の発展に関った地域はすべて関西圏に属します。 すなわち、現在の日本の醤油の成立には、関西が大きく関与したといえます。 そして、関西で発展した醤油の製造方法は、その後、湯浅の濃口醤油醸造の技術が現在の千葉県の銚子や野田に伝わり、関西地方だけでなく関東にも日本を代表する醤油メーカーを生み出しました。 さらに、関西では、濃口醤油の製造方法が確立されただけではなく、より関西人の味覚に合う淡口醤油が生み出されたのです。 <醤油誕生・発展の歴史> 日本では、飛鳥・白鳳時代に国家統治の法典として、忍壁親王 おさかべしんのう や藤原不比等 ふじわらのふひと らによって編纂された大宝律令 701年制定、702年施行 に、大豆を原料とする「醤 ひしお 」に関する記述がみられます。 大宝律令は、原始封建国家の職制を確立したもので、中国の「周礼 しゅらい 」に学んだものといわれています。 大宝律令 701年 には、宮内省「大膳職 おおかしわでのつかさ 」の中に「醤 ひしお 」を造る「醤院」 ひしおつかさ が記されています。 食材を塩漬けにして発酵させた塩蔵品のものを醤といい、醤を造る「醤院」という制度のもとに、各地から朝廷に米の代りに醤大豆や小豆類が租税の一部として納められていました。 当時は塩蔵品のことを総称して醤 ひしお と呼んでいたようです。 醤は高級官僚の給料として用いられる上流階級の調味料とあります。 いろいろな「醤」や「未醤 みそ 」(現在の味噌の祖)をつくり、管理されていました。 醤油の原形である「醤 ひしお 」は大豆、米 麹、小麦、塩などであると記されています。 このことから、「醤院」で管理されていた「醤」は、穀醤であり、貴重な調味料として意識されていたことが分かります。 出土した木簡は、馬寮 官馬の飼養などを担当する役所 から食品担当官司に醤 ひしお と末醤 高麗醤 を請求した文書。 左:「謹啓今忽有用処故醤」(表) 右:「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」(裏) 出典:奈良文化財研究所 飛鳥資料館 藤原京 694-710 の遺跡から出土した木簡 奈良時代 奈良時代には、遣唐使によって多くの中国文化が伝えられ、漬け物 醤漬 や味噌 未醤または高麗醤 を始めとするさまざまな発酵食品がつくられるようになりました。 「醤」が急速に発展し、醤 ひしお の種類も増え、その原料も大豆・米・麦・糯米 もちごめ などが用いられました。 それらの材料に塩と麹を混ぜて発酵させて、今の醤油と味噌の中間のような醤や未醤、中には天日干しにして堅味噌のようにした醤も現れました。 当時、中国から「唐醤 からびしお 」が、朝鮮半島から「高麗醤 こまびしお)」が伝えられて種類も多くなり、これら穀類を材料にしたものが「醤」の中心となります。 古代発酵食品、醤 ひしお 復元 (日本では古代の早くから液体状の醤が造られていた可能性があるが、醤はすべて液体状であったとは考えにくい。 醤はドロドロしたもろみ状態で利用されることが多く、液体状の醤は貴重品であったと考えられている) 奈良時代は、庶民の調味料は塩だけであり、塩漬け以外には味をつけて調味をするということはなかったようです。 一方、醤 ひしお は上流階級の調味料とされ、寺院や貴族だけが口に出来る贅沢な食べ物でした。 奈良時代の天平年間に仏教的な観点から鳥獣の殺生禁止令が出されましたが、日本人も奈良時代の後半には平城宮内の役人らが牛や豚の肉を食べていたことが人糞の調査で判明しています。 また、イノシシを献上する木簡の出土などの最近の発掘資料からも肉食の習慣が確認されています。 しかし、穀醤の醤 ひしお は仏教の殺生禁断の精進の根幹を守るために、米を食事の中心とした菜食の味付けとして使用されました。 天平宝字元年(757年)に施行され、古代日本の政治体制を規定した法令である『養老律令』の「大膳職 副食・調味料などの調達・調理 」条には、「主醤(ひしおのつかさ)二人。 造雑醤鼓未醤等事。 」という記述があります。 すなわち、醤(ひしお)や鼓(くき)や未醤といった調味料が朝廷の大膳職という役所で、主醤という役職の役人によって作られていたという内容のことが記されています。 「大膳職下」の「造雑物 ぞうざつぶつ 法」には「供御醤 くごびしお 料。 大豆三石。 米一斗五升。 麹料 よねのもやし。 糯米四升三合三勺二厘。 酒各一斗五升。 塩一石五斗。 得一石五斗。 」「未醤量。 醤大豆一石。 米五升四合。 小麦五升四合。 酒八升。 塩四斗。 得一石。 」という記述が認められます。 醤油の祖の「醤」の材料が大豆、米、もち米の麹、小麦、酒、塩で、味噌の祖の「未醤」の材料が大豆、米、小麦麹、酒、塩であり、それぞれ異なるということが推察できます。 平城宮跡から発掘された木簡 764年に起きた藤原仲麻呂の乱で、法華寺にいた孝謙太上天皇の側近の女官から、平城宮内の食料担当・大膳職に、天皇の食事用として、小豆・醤・酢・末醤(まっしょう)の食材を請求する木簡。 表に「寺請 小豆一斗 醤一斗(斗カ)五升 大床所 酢 末醤等」 裏に「右四種物竹波命婦御所 三月六日」 とあり、「大床所」とは、清涼殿昼御座の御膳のことで、法華寺が竹波命婦(女官)の指示によって、御所の用料として小豆、醤、酢、末醤(味噌)の支給を請求したものである。 「竹波命婦 つくばのみょうぶ 」は、『続日本紀』神護景雲二年(七六八)六月戊寅(六日)条に、「掌膳常陸国筑波采女従五位下勲五等壬生宿禰小家主」とみえ、常陸国筑波郡出身の采女であり、孝謙天皇(称徳天皇)の食膳をつかさどっていた側近の女官であった。 平安時代 平安時代になると、醤(ひしお)の技術も進み、醤の形状が固形に近いものから、ドロドロの液状へと変化し、より醤油に近いものが作られるようになりました。 この時代に編纂された日本最古の漢和辞典『倭名 和名 抄類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』 903年 飲食部には「醤 四聲字苑云醤 即亮反和名比之保別有唐醤 豆醢也」という記述があり、「醤は和名で比之保 ひしお と訓む、別に唐醤あり豆麹なり」と記されています。 四種器 よぐさもの 酒 醤 酢 塩 また、宮中貴族の饗宴では足の付いた高杯 たかつき と呼ばれる置き台に皿をいくつか置いて食材を盛り付けました。 当時は、調味という概念はなかったようで、焼く、煮る、蒸すなどシンプルな調理法しかなく、厨房で味つけをするということはありませんでした。 料理は単品で鯛、鯉、鱒、蛸、雉などが皿に盛られました。 手元には4種類の調味料「酢、塩、醤、酒」が小さな器に盛られて食膳に置かれ、小さく切って盛り付けられた料理を、食べる人が自分で好みの味付けをして食しました。 これらの調味料は『四種器 よぐさもの 』と呼ばれる貴重なものでした。 この場合の醤は酢や酒と同じく液体状と考えられています。 しかし、『四種器』の調味料は高貴な人たちのものであり、少納言や弁官以下(延喜式の律令)そして庶民の調味料は、塩と酢であったといわれています。 平安時代の中期に編纂された格式には、大豆の栽培法や、大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されている。 また、『延喜式』には瀬戸内海の沿岸や畿内、山陰道など、京都に近い・諸国からは、調 ちょう として醤大豆が貢納され、平安京では毎月15日まで東の市、16日以降は西の市に集まるとして「醤」の店を含め51店あったこと、西の市では「味噌」の店を含め33店あったことも記述されています。 (『延喜式』の巻第四十二には、「左右京職 東市司 西市司准此。 …凡毎月十五日以前集東市。 十六日以後集西市。 …醤廛 右五十一廛東市。 …未醤廛 右三十三廛西市」とある) 「料理」という言葉が初めて登場するのは、宮中の儀式や制度を記録した平安時代の『延喜式』という書物で、そこからも日本料理が儀式、つまり〝饗〟の概念と深く関わっていることがうかがい知れます。 麹売り『七十一番職人歌合』より 平安時代の末期から室町時代にかけて、発酵食品を造る上で画期的な発明がありました。 「種麹(たねこうじ)」です。 蒸した米に麹菌を繁殖させ、それを長く続けると麹菌は多数の胞子を着生します。 それを絹製のふるいでふるって米粒と胞子とを分け、胞子だけを多量に集めて乾燥し、保存することを考え出しました。 こうすることにより、得られた胞子を蒸した米や大豆に撒くことによって、確実に多量の米麹や大豆麹を得ることが可能となり、麹を専門に製造・販売する「種麹屋」が生まれます。 種麹屋は酒造家のみならず、醤油屋、みそ屋などにも純粋な麹を供給するようになり、醤油や味噌や酒の大量生産につながったのです。 鎌倉時代 鎌倉時代は、肥料の使用や農具の改良等によって日本の農業の生産性が向上し、西日本に偏っていた大豆栽培も鎌倉時代には国内で広く栽培されるようになりました。 また、鎌倉時代に始まったといわれる精進料理は、菜食を主にした料理で禅宗の僧が広めたのが始まりです。 この時代、仏教や道教の教えの殺生禁断の広まりによって、動物性食材等が禁じられ植物性食材がを主となりました。 従って、醤 ひしお も肉醤・魚醤でなく穀醤が主となり、禅宗寺院で味噌などの大豆食品が大量に作られるようになりました。 また、味噌汁は禅僧が考え出したと言われています。 鎌倉時代に入ると、すり鉢が使われるようになり、粒味噌をすりつぶし溶かして汁状のものが飲まれるようになり、これが味噌汁の原型となったとされます。 みそ汁の登場によって「一汁一菜(主食、汁もの、おかず、香の物)」という鎌倉武士の食事の基本が確立されたと言われています。 鎌倉時代に、醤油の元になったと考えられる調味料「溜」 たまり が現れます。 1249年 建長元年 信州の禅僧、覚信が宋に渡って修行し、1254年 同6年 帰朝して、なめ味噌の製法を持ち帰り紀州でこの作り方を教えたのが金山寺味噌の起こりとされています。 径山寺 金山寺 味噌(きんざんじみそ)をつくる過程で味噌桶に溜まった液体 たまり を調味料として使用しました。 室町時代 室町時代は武家にも食礼式が発達しました。 和食の原型といわれる魚鳥類を中心とする料理法「」(1487年)が奥秘として四条・大草両家に伝わり、味噌からつくる溜醤油状の「たれ味噌」「薄垂れ うすたれ 」など現代の醤油に近いと思われる調味料が記されており、「たれ味噌」は「味噌一升に水三升五合を混ぜ、煮詰めて三升とし袋に入れ、それを締めて垂らした液体」という記述が残っています。 出典:安田女子大学図書館 室町時代初期、応永年間(1394~1428)の『庭訓往来 ていきんおうらい 』の往復書簡の中で、 「不審千万之処、玉章忽到来。 更無貽余欝。 」(御無沙汰のため、あなたの御様子を心配しておりましたら早速お手紙を頂戴いたしましたので、気持ちが晴れ晴れ致しました。 ) …(略)…「能米・大豆・秣・糠・藁・味噌・醤・酢・酒・塩梅、并、初献料、海月・熨斗鮑・梅干。 」…(略)…「或買之、或乞索之、令進候。 猶以、不足事候者、可給使者也。 」(これらを購入したり、探して、貴殿にお届け致しましょう。 このほかに必要なものがあれば、遠慮なく使者を遣わして下さい) とあります。 室町時代・初期は、まだ「塩」の時代であり、「醤 ひしお 」の時代であったと考えられています。 室町時代に、日本で初めて「醤油」の文字が文献に現れました。 「醤油」という言葉が初めて出てくる文献は、室町時代中期から後期にかけての古辞書「文明本節用集」に、「漿醤あるいは醤漿」という記載があります。 そして、京都相国寺鹿苑院の歴代僧録の日記、天文5年 1536年 の『鹿苑日録』 ろくおんにちろく には「漿油 シヤウユ 」が、1559年の中流貴族の権大納言 山科言継 やましなことつぐ が著した日記『言継卿記』 ときつぐきょうき には「シヤウユウ小桶、遣之」 シヤウユウを小桶に入れて贈り物とした といった表記が、永禄11年 1568年 の『多聞院日記』(奈良興福寺の一院である多聞院の記録)では、「醤油」「正ユウ」の名が出てきます。 このように「醤」から「醤油」への変化がこの時代に見てとれます。 そして、安土桃山時代、慶長二年 1597 には「」 えきりんぼん せつようしゅう に「醤油」という名称が見られ、調味料としての液状「醤油」が定着したようです。 金沢の本膳料理(復元) 室町時代は、武家が公家社会のしきたりを次第に吸収し、礼法が確立していきます。 禅宗を中心に起こった武家文化は、室町時代になると茶道や ほんぜんりょうり が武家社会の礼法 主従関係の確認の場 として生まれた。 この時代、四種器 よぐさもの の調味料の他に味噌や醤油、味醂、酢といった現代のものに近い調味料なども使われるようになり、今で言う「たまりしょうゆ」の原型が出来上がったとされています。 当時は貴族階級や武家社会でしか使われない高級な調味料でした。 戦国・安土桃山時代 安土桃山時代は商工業の発達によって、東は下総の野田や市川、西は播磨竜野 1587年 や紀州湯浅 1580年頃 などで醤油醸造業が興りました。 慶長2年(1597年)に刊行された日常用語辞典である『易林本節用集』(えきりんぼんせつようしゅう)の中に初めて「醤油」という名称が見られ、調味料としての液状の「醤油」が定着してきたと考えられています。 安土桃山時代は町人を中心とする貨幣経済が発達し、物資の流通も活発化して醤油も徐々に庶民に普及するようになりました。 易林本中の醤油の文字 江戸時代初期 江戸時代には醤油の工業的生産が始まりました。 江戸時代初期は、醤油の原料に「大豆」と「大麦」が使われていましたが、江戸時代中期 享保17年 には麹菌を造るのにようになり、今日の濃口醤油に近い風味の優れたものが量産されるようになりました。 時代が進むと大麦を混ぜる量は次第に減っていき、後に小麦だけが使われるようになったのです。 文献上に「たまり」が初出したのは1603年 慶長8年 に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso 味噌 から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述があります。 日本イエズス会が刊行した『日葡辞書』は、来日ポルトガル人宣教師が布教のために編纂した日本語辞書です。 (文献に登場し始めた時代の「たまり醤油」は、原料となる大豆を水に浸してその後、蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生 自然種付 してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液 たまり を汲み上げて液体調味料としたものです) 江戸時代初期は、醤油の産地や食文化を含めた文化は上方 関西 が中心で、温暖な気候風土と良質の小麦や塩などの原料を産出するなど、醤油醸造に最適な環境にあった播磨の龍野 1587年 や紀州の湯浅(1580年)、讃岐の小豆島(1592年)などの地域で発達しました。 これらの醤油産地の記録から京都には竜野、備前、尼ケ崎の醤油が、大坂には湯浅、小豆島の醤油が主として需要されたようです。 この後に、紀州湯浅で始まった醤油醸造が房総半島経由で関東に伝えられました。 銚子や野田の近隣には、良質の大豆(常陸)や小麦(下総、武蔵)、塩(行徳)があり、江戸川と利根川の水運を利用して醤油原料を入手できるなど、醤油の醸造業発達の要因が揃っていました。 野田の醤油は江戸川を下り、銚子の醤油は利根川の長流を遡行し、関宿から迂廻して江戸川を下りました。 共に高瀬船を唯一の輪送機関として江戸の市場へ出荷しました。 【天明元年 1781年 には、岩国藩の柳井津で「甘露醤油」というものが作られました。 1619年 元和5年 には、泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を雇い、大坂より江戸への日常物資の木綿、油、酒、酢、そして醤油などを積み入れて、江戸まで海上輸送したことが菱垣 ひがき 廻船の始まりと言われています。 1627年には、大坂に海上輸送の菱垣廻船問屋が成立し、紀州や大坂周辺の廻船を雇って菱垣廻船にしたて、幕府御城米や商人荷物を江戸に輸送するようになりました。 復元した千石船 全長29. 4m、船幅7. 4m、深さ2. 4m、帆柱の長さ約27m、帆の大きさ18mX20m、荷物の積載可能量は千石積で150Ton 参勤交代の行われた江戸は消費都市として巨大化しつつあり、江戸では塩・木綿・酒・味噌・醤油・菜種油・紙などの日用品も一級品が求められました。 醤油が生業として本格的に始まったのは上方(関西)が早く、江戸へ送られた関西の醤油は、下総などの関東醤油に比べて品質が優れており、江戸に「下る」品物は上等なものといわれ、多くの「下りもの」が江戸へ運ばれました。 「醤油」や灘の「酒」のように上方 関西 ものが品質がよく高級品であり、上方から江戸へ、極上の「醤油」や「酒」が樽に入れられて廻船で送られてきたことから「下り醤油」「下り酒」と呼ばれました。 江戸で「下り醤油」と呼ばれた上方産醤油は、輸送費が掛かることから関東で非常に高価なものとなり、酒と値段が変わらないという時代もあったようです。 江戸時代初期の関東で酒と共に上方文化の象徴として扱われた高品質の関西産醤油は関東産のものより2倍近く価格が高かったといいます。 江戸時代中期 江戸時代中期からは、醤油が庶民のあいだにも幅広く使われるようになり、醤油醸造が本格的に手工業化されます。 醤油の原料は「大豆」と「小麦」です。 これに、塩・糀・仕込みの水、燃料の薪炭や樽の材料などが必要です。 これらの原料を買い集め、醤油を江戸に送るために、河川水運は不可欠でした。 江戸は、醤油製造の材料やそれを運ぶための水運などの立地に恵まれていました。 「,銚子・野田の醤油,佐原 さわら の酒と醤油,流山の味醂など有名な産業はすべて下総で、しかも、ほとんどが利根川流域でした。 関東平野の穀倉地帯から原料の大豆・小麦が、江戸湾に面する行徳からは塩が江戸川から運ばれるなど、江戸に近く江戸川・利根川などの水運の便など地理的条件に恵まれた下総国(千葉県)の野田・銚子などで醤油醸造が始まり、醤油生産の中心地として発展し、大消費地であった江戸に中心的に供給されました。 当時、関東に広まった醤油は、大豆を原料とする「溜まり醤油」でしたが、元禄時代から享保時代(1688~1736年)になると、江戸の人口が増えると共に生産量も増大するにつれて江戸商人が台頭し、関東の(濃口醤油)の需要が増えました。 また、独自の江戸食文化(寿司・蕎麦・うなぎの蒲焼きなど)が形成しつつあった元禄時代頃には、濃い口の地廻り醤油が江戸市場を独占するようになり、また、江戸における「下り醤油」の消費量は次第に減っていきました。 商品経済の発達につれて幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、商品流通に財源を求めます。 元和年間 1615~1623年 には、既に問屋と仲買の明確な区別ができていました。 一般に、市売り・入札売り・相対売りの3つの方法で仲買に販売するものを問屋と呼びました。 そして問屋から品物を購入して、地方や市中に転売するものを仲買といいました。 江戸商業の中心をなす問屋商人の営業形態が、荷受 にうけ 問屋から仕入 しいれ 問屋へと変化していきました。 また、酒・味噌・醤油問屋などの特定の商品を取り扱う専業問屋も増加し、業種ごとに問屋株仲間も結成され、商売の独占を認めるように変化し、幕府は問屋株仲間を公認して独占を許すとともに、その対価として冥加金、運上といった「間接税」の徴収を行いました。 醤油問屋行事が江戸町年寄りに提出した上申書によると、享保11年 1726 に上方から江戸に入った下り醤油は全体の76%を占めていましたが、安政3年(1856年)に江戸に入荷した156万5,000樽の内、下り醤油は9万樽、わずか6%以下となっています。 このように下り醤油が減少し、江戸の醤油は上総・下総その他関東域からの地回り醤油となります。 それでも下り物を高級品として尊重する気風は、江戸時代を通じて保たれました。 そして、1700年代に入って地廻り醤油の生産が飛躍的に増大し、地廻り醤油の品質が向上しました。 それまで大坂から江戸へ 約1,700石積み=約250Ton)によって大量に運び込まれていた高価な「下り醤油」が減少し「関東地廻り醤油」が江戸市中の需要を賄うようになりました。 「下り醤油」が減少したのは、寛永年間(1624~44)に江戸川(利根川から分流し、野田・流山・行徳を経て東京湾につながる)開削工事が完成して野田から江戸へ、1隻ので1000樽もの醤油が約1日で出荷され、また、帰り船で利根川沿岸の関東平野で生産された大豆・小麦などの原料が、野田や銚子の醤油生産地に輸送できたことも大坂から来る高価な「下り醤油」が激減した理由のひとつでした。 江戸時代には、薄口醤油、白醤油(小麦主体麹を食塩水で仕込む)も誕生しました。 現在の「薄口醤油」に近いものが誕生したのは、龍野醤油の醸造の始まり天正15年 1587年 から後の寛文年間 1670年 に、当時、醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して搾った色がうすく香りの良い「うすくち醤油」が発明され、独自の風味が、京・大坂の上方の嗜好に合い素材を生かす上方の食文化を作り出しました。 上方の味 関西 と江戸の味 関東 の分化は江戸中期頃であり、その嗜好の違い(濃味の関東、薄味の関西)は、江戸時代から今日まで続いています。 江戸時代後期 シーボルト著『NIPPON』の挿図で、左から「番人小屋」「醤油屋」「名主の住まい」である。 江戸時代、長崎・出島のオランダ商館医として来日したシーボルトは(在日期間1823~1829年 長崎だけでなく江戸参府などを通じて多くの日本情報を収集している。 江戸時代後期の文政年間 1819-1829年 になると、江戸に持ち込まれた醤油は年間約125万樽と10倍となり、その内120万樽は安房、下総、常陸、武蔵、下野、相模などの関東物醤油、残り2万樽が上方醤油という状態になり、「関東地廻り醤油」が江戸に根付くことになりました。 江戸の人口100万人が超えたといわれ、町人の人口は60万~65万人と考えられています。 この人口を養うためには膨大な食料が必要とされ、そこから寿司・天ぷら・蕎麦・鰻の蒲焼などのが形成されました。 これに欠かせないものが醤油でした。 参考:この時代の大坂の人口は、30万人から40 万人台、京都で約40 万人であった) 天ぷら(海老天ぷら) 江戸前寿司 蕎麦 江戸前大蒲焼 江戸に根付いた「関東地廻り醤油」は、江戸食文化特有の料理が発達して、やに、そして、江戸名物の第一とされた鰻の蒲焼き等に地回り醤油を使った外食産業が出揃い、味も江戸の人々の嗜好に合わせて、今日の濃口醤油に近い関東風の醤油になりました。 江戸時代の幕末には醤油は煮物・吸物・焼物などの各料理に、また付け汁や掛け汁としても使われる庶民の調味料として定着しました。 明治時代 明治時代には醤油は庶民の生活必需品として定着し、消費量が増えていきました。 醤油産業もまだ手工業的要素が強く、明治中期までは江戸時代の延長で醤油醸造が行なわれており醤油醸造の近代化が進んでいませんでした。 日本の醤油産業は明治15年以降に西欧の科学知識が導入され、味噌・醤油の旨み成分の微生物学的、化学成分的研究が進みました。 その結果、明治時代以前は醤油の製造に種麹を使用することがほとんどなく、蒸した穀物に自然に発生したカビや前回製造した麹の残りを混合して麹を造っていましたが、明治中期以降には醤油製造に種麹が使用されるようになり、醤油製造設備も原料貯蔵、原料処理、製麹、仕込み、圧搾・火入れ、詰め、輸送などすべての工程で近代化が進みました。 明治の末期には、全面的に諸味の加温を採用して醤油を市場に提供する企業が現れますが品質に問題があり販売を中止しました。 諸味の加温など現在に繋がる各種速醸法の研究が歩みだしました。 大正時代 第一次世界大戦後(1918年)の好景気で醤油が一気に増産され、家庭へ普及しました。 大正期以降には家業的醤油生産から会社化され、醤油製造の機械化などの近代化や醤油醸造業の合併や企業合同による近代企業の設立によって大量生産体制に移行していきました。 醤油工場の設立は、大正9年(1920)以降生産過剰をもたらして過当競争時代を迎えることになりました。 昭和時代 昭和になるまでは、多くの醤油は江戸時代後期に確立した醤油醸造法とほぼ変わらない製法で作られてきました。 しかし、現在では一部の「手づくり醤油」を除いては自動化された大量生産の工場で造られています。 昭和の初め頃には、さらに、戦後の原料不足により、本物の天然醸造(本醸造)醤油が次々と姿を消していきました。 昭和30年(1955)になると著しい技術革新が行われて製麹技術が人力から全工程にわたり設備が刷新され機械化が進みました。 その後、もろみ管理技術の著しい進歩によって従来は一年ないし一年半の期間を要した醤油醸造が3ヶ月から半年足らずの期間に短縮されるという早醸技術まで進歩しました。 現在 平成から令和に変った現在では、消費者の本物志向・自然志向により、日本の伝統製法で大豆・小麦・塩水だけを使い天然熟成させてつくるが再び見直されています。 昔ながらの醸造方法で作られる天然醸造醤油には、他に調味料を加えなくても、十分なコクと旨みがあります。 同じ本醸造醤油といっても、加温し発酵熟成を早め、約半年の短期間で大量生産する醤油大手メーカの本醸造醤油と昔ながらの長い年月をかけて日本伝統製法で造られる「天然醸造(本醸造)醤油」とは全く醸造(熟成)方式が違う醤油です。 醤油製造業の全国事業所数は、平成28年度で1230社あまり。 醤油製造業は大手メーカーの寡占化が進み、上位5メーカーで全国の総出荷額の53%を占めています。 しかし、同じ「濃口醤油」と言っても、製造メーカーや地方特有の食文化から、味はかなり異なっています。 例えば、九州の醤油の濃口醤油でも関東のものに比べ甘みが多く、同じ濃口醤油でも「うまくち醤油」と呼称して区別する場合があります。 醤油の旨味は、冷や奴や刺身に用いると醤油が持つ味の違いがわかります。 各地で長い歴史と環境のもとに育まれた各地方独自の食文化に応じた地方色豊かな醤油が、自分の好みにあった醤油を探す多様な消費者に求められる時代になったといえます。 日本から世界へ 日本の濃口醤油は、江戸時代後期には鎖国状態だったにもかかわらず、日蘭貿易の最盛期・1650年頃から明治末期頃まで、欧州に向けてからオランダ商人らによって、醤油を伊万里焼の瓶に詰め、「金富良(こんぷら)醤油」の名で輸出されていました。 その量はの1年間の生産量から推測すると年間40万本(約200KL)にまで達していたようです。 しかも、諸外国に輸出された醤油の品質はまったく劣らなかったそうです。 宮廷や王室専用の調味料として貴重品に扱われていたようで、フランスのルイ14世が宮廷料理に、肉料理の隠し味に醤油が用いられました。 ヨーロッパ人が醤油を知ったのは、18世紀フランスのの記述が最初でした。 日本の伝統的な発酵食品しょうゆの輸出は「日本食文化」の輸出と言えるでしょう。 醤油は大豆と小麦粉を原材料とし、その汎用性の高さから万能調味料とも呼ばれる日本の食卓には欠かせない調味料の一つです。 醤油の全国需要は年間約80万キロリットルにもなります。 昨今の健康食・日本食ブームからその利用は国内に留まらず、世界各国へも多く輸出されており、その国々で広く受け入れられています。 海外での醤油需要は健康志向による日本食ブームを要因として醤油の輸出量が年々増加しています。 現在、醤油はアメリカ、中国、オーストラリア、英国、韓国、香港、フランスなど、世界各国100カ国以上に輸出されています。 東欧やロシアを含めた欧州でも、醤油の市場は急速に成長しているようです。 さらに、南米やアフリカなどでも、肉との相性がいい醤油は市場拡大の可能性があります。 醤油の全世界への輸出実績は、平成20年の22,281トン 41. 1億円 から平成29年には38,693トン 71. 5億円 へと増加(資料:財務省「貿易統計」平成30年)しています。 日本の醤油はアメリカ、中国等を中心に万能調味料として認知されており、和・洋・中の様々な料理に使用されて、醤油は日本ばかりでなく世界の調味料「ソイ・ソース Soy Sauce 」として定着し、世界の食文化との融合を果たしつつあると言えるでしょう。

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