中川 政 七 商店 社長。 中川政七(中川淳)の経歴や大学を調査!年収や結婚も気になる!

「設計經營的解剖學」- 中川政七商店與專利局所打造的組織及文化

中川 政 七 商店 社長

中川政七氏:社是や家訓がありそうなものですが、もともと会社にはありませんでした。 父親に聞いても、「それで売上があがるのか。 そんなものでは飯は食えん」と一蹴されました。 ただ、「理念がないと、これから長くずっと働いていくのは難しいよな。 利益のためだけに働くっていうのは、しんどいな」と。 それで理念が必要だと思ったのが2005年ぐらいです。 それまでは赤字だったので、がむしゃらになって走っていたんです。 そこで大手はどうなっているのだろうと思い調べると、「ビジョン」というものがあると。 ただ、ピンとくるビジョンとピンとこないビジョンがあって「その違いは何なんだろう」と考えると、やっていることとビジョンのつながりが見えるものはピンとくる。 つながっていないように感じるものは、ピンとこないんだなと。 自分たちがやっていることとつながっていないといけないし、いわゆるCSRではだめなんだと。 社会貢献と事業とが一体となっていないものはピンとこないというのは、直観的にわかりました。 では、「うちにとってそれは何なんだろう」と考えた時に、なかなか出てこなくて。 そこからずっと考えて、本当に「降りてきた」としか言えないんですが、2007年にやっと定まったのが「日本の工芸を元気にする!」というビジョンです。 それが何で出たかというと、毎年取引先が2~3件廃業の挨拶に来られるんです。 それがあまりにも続くので、「このまま行くと、うちのものづくりができなくなるんじゃないか」という危機感が出てきた。 もう一つは自分の会社を立て直す中で、困っている会社がいっぱいあって潰れていくんだったら、「立て直すことができるかもしれない」と。 単純に一消費者として、「こういうのが無くなるとさみしい。 何とかなった方がいいよね」というこの3つの想いが重なってたどり着いたんだと、後から思います。 それは、『WILL・CAN・MUST』の重なり合いだったんだなと。 言った以上はやらなきゃいけない。 僕はピンとこないものを「張りぼてのビジョン」という呼び方をしているんですが、良いことは言っているけれどやっていることが全然伴っていないのは一番かっこ悪いですよね。 じゃあ、「元気にするとは何なんだ」、「日本の工芸って何なんだ」というのを分解しました。 元気にするというのは、「経済的に自立すること」、「ものづくりに誇りを取り戻すこと」。 日本の工芸というのは生活に必要なものを自分たちでつくっていたのが発祥なので、「暮らしの道具であること」、「手作業が入っていること」を工芸と捉えました。 一般的には靴下を工芸とは言わないと思うんですが、実際に製造現場に行ってみると僕は工芸だと思うので、それも工芸に入れています。 ただ、最初に言った時は全員ぽかんとしていて、「何だそれは」、「そもそも意味がわからない」と。 社員が「自分たちには関係ない」と思っていたところからスタートしました。 僕がコンサルをやって立て直した波佐見焼の「マルヒロ」さんを呼んで、うちで話してもらってなんとなく「社長が一人でやったコンサルというのがあって、ある会社が元気になったんだね、よかったね。 でも、私たちには関係ないね」というのが2010年ぐらいです。 いや、そうじゃないんだと。 「マルヒロが元気になったのは、マルヒロのマグカップを日々店頭であなたが売ってくれたから元気になったんだよ。 全部つながっていて、僕のスタンドプレイではない」ということをずっと言い続けて、それがやっとみんなの肌感覚として「私たちはそこに関わっている」と思えたのが2012年、2013年ぐらい。 言い出してから5年ぐらいかかっているんですね。 今だとみんなそれのためにやっていると思ってくれていると、思います。 例えで「大阪城の石垣の話」を腐るほど話しています。 新店立ち上げの際にもスタッフに「あなたたちの仕事は、日々の売上をつくることではない。 大切なことではあるけれど、日本の工芸を元気にするために、そのマグカップを売っているんだ」という話をし続けています。

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中川政七商店:名経営者の後を継いだ千石あや、創業302年目の挑戦

中川 政 七 商店 社長

十三代 中川政七 株式会社中川政七商店 代表取締役会長 1974年奈良県生まれ。 京都大学法学部卒業後、2000年富士通入社。 2002年に株式会社中川政七商店に入社し、2008年に代表取締役社長に就任。 製造から小売まで、業界初のSPAモデルを構築。 「遊 中川」「中川政七商店」「日本市」など、工芸品をベースにした雑貨の自社ブランドを確立し、全国に約50店舗の直営店を展開している。 また、2009年より業界特化型の経営コンサルティング事業を開始し、日本各地の企業・ブランドの経営再建に尽力している。 2016年11月、同社創業300周年を機に十三代 中川政七を襲名。 2017年には全国の工芸産地の存続を目的に「産地の一番星」が集う日本工芸産地協会を発足させる。 2015年に独自性のある戦略により高い収益性を維持している企業を表彰する「ポーター賞」、2016年に「日本イノベーター大賞」優秀賞を受賞。 「カンブリア宮殿」や「SWITCHインタビュー達人達」などテレビ出演のほか、経営者・デザイナー向けのセミナーや講演も多く行っている。 著書に『奈良の小さな会社が表参道ヒルズに店を出すまでの道のり。 』『経営とデザインの幸せな関係』 以上、日経BP社 、『小さな会社の生きる道。 』 CCCメディアハウス などがある。 二人の出会いは、偶然や誰かの紹介などという幸運ではない。 中川自身が、デザインに関する本を読む中で目に止まった人物にメールを送り、自ら会いに行く。 その相手が水野だった。 中川自らがアポイントを取ったというから驚きだ。 いまでこそ中川と水野はビジネスパートナーとして対等だが、当時の水野はすでに大きな仕事を手がける有名人で、中川にとっては身の丈を超えた存在だったという。 しかしそんなことはおかまいなしにコンタクトを取り、熱心に思いを伝えた。 だからこそ、いまの中川政七商店がある。 300年という歴史を背負い、企業の成長を実現させた敏腕経営者は、社外に出て、様々な人に意見を求め、知恵を借りる。 それが、ビジネスにとってどれほど意味のあることかを、本書が教えてくれた。 新たな価値を生み出すヒントは社内を見渡しても見つからない。 積極的に外に出ていくべきだと。 ということは、Eightのネットワークもビジネスのヒントの宝庫だ。 出会うことで自分だけでは思いもつかなかった面白いアイデアが生まれるかもしれない。 臆さず、厭わず、会いたい人に連絡してみる。 きっと、新たな価値創造の第一歩になるはずだから。 (Amazon) 要約者レビュー 日本は、世界でも類を見ないほど長寿企業が多く残る国である。 2016年に創業300年を迎えた奈良の老舗、中川政七商店もそのひとつだ。 中川政七商店は、手績み手織りの麻織物をつくり続けてきており、いまでは日常生活でも気負わず使える生活雑貨ブランド「遊 中川」などがよく知られている。 本書では、十三代 中川政七自らが、家業に携わるようになってからの中川政七商店を振り返り、長い歴史を背負った同社のこれからの100年を語る。 中心となるビジョンは、「日本の工芸を元気にする!」というもので、その実現のために様々な取り組みがなされている。 自分の会社の利益のためだけではなく、日本全国の工芸メーカーがともに元気になれる方法を模索しているのだ。 いまでこそ知名度があり、工芸業界をリードしているように見える中川政七商店だが、ここに至るまでは経営者の奮闘があった。 そもそも、旗振り役となる中川政七商店が「元気」になったのは、著者の大胆な業務の改革とブランディングによるといえる。 決して順風満帆ではなかったその道のりから、地方の中小企業のあり方、企業がビジョンを持つことの大切さや、ビジネスモデルなど、企業の経営を行う上で大切なことを学び取ることができるだろう。 「これから生まれてくる多くの会社も、100年経てば老舗企業」と著者は語る。 企業のミッションの1つは継続することだという。 未来の老舗を生み出したい経営者必読の1冊だ。 限りのある営業力に頼らず、ブランド力を高めることで、商品に「下駄」を履かせ、勝手にものが売れる状況をつくるのである。 それを社員一人ひとりと共有し、社員全員のベクトルをそろえる。 工芸大国となれば、日本も世界にプレゼンスを示せる。 本書の要約 工芸大国日本をつくる! Photo: by Nobuyuki Kondo 中川政七商店の「100年の計」 著者は、2016年に、十三代 中川政七を襲名した。 日本の工芸を取り巻く環境は厳しくなるばかりである。 後継者不足、先が見えない業界の現状を苦にして、廃業する人が少なくない。 工芸は、分業を基本として成り立つ。 たとえば漆器なら、木地師、下地師、漆を塗る塗師など、何人もの手仕事が合わさり、器ができあがる。 なので、1人か2人の作り手の廃業が取返しのつかない結果を招くことがある。 「今、自分の周りで起きていることは、日本の工芸と工芸品とともにある豊かな感性が生み出した日本の暮らしの危機にほかならない。 そう思ったら、日本の工芸を元気にしたいと心から思った。 」と、著者は語る。 工芸の衰退は日本だけの問題にとどまらず、たとえば刃物の町として知られてきたドイツのゾーリンゲンも、深刻な高齢化により、産地としての存続が危機に瀕している。 しかし、世界のこうした状況は日本にとってチャンスであるとの見方もできる。 日本に、もし100年後にも300の工芸品の産地が残っていたとしたら、世界に工芸大国としてのプレゼンスを大いに示せるだろう。 このビジョンを掲げるまで、そして掲げてから、著者は、変化を恐れず、試行錯誤を繰り返してきた。 今年、十四代社長に千石あやが就任した。 【必読ポイント! 】老舗を継ぐ Photo: by 【單格在顯影】 業務の効率化 著者が、富士通に勤めたのち、家業の中川政七商店に入社したのは、2002年のことだ。 しばらくして麻小物を売る第二事業部をのぞいてみるようになると、著者の目に驚くべき実態が明らかになる。 生産管理という概念があまり根づいておらず、売れ筋商品はつねに欠品していた。 業務効率も課題であった。 製品に使う麻ひも20メートルを切るために、パートの女性たちは50センチを40回折り返して切っていたのだという。 結局第二事業部をまかされることになった著者が、やり方を改めようとすると、批判は受けなかったが、社員が一人、また一人と会社を去っていった。 卸しから小売りへ 奈良の「遊 中川 本店」。 次に著者が取り組んだのは、売上と利益の増額だった。 中川政七商店は、卸売りを主としていたが、卸売りでは顧客との接点がないので最終的なコントロールがきかないし、取引先の売上げ次第のところがあり、限界が見えていた。 そこで、同社は思い切って小売り事業に乗り出すことにした。 小売り展開は、ブランドづくりに力を入れるという考えからも必須であった。 「中小メーカーこそもの売りを脱却して、ブランドづくりにシフトしなければならない」、というのが著者の持論だ。 中小企業は、大企業のように広告宣伝費をかけるわけにいかないし、交渉で弱い立場に立たされることもある。 また、そもそも少ない人員でやっているので、十分な営業力の確保も難しい。 したがって、ブランディングによって、商品や会社そのものに「下駄」を履かせて、顧客や取引先から選ばれる存在になる必要がある。 そうして培った中川政七商店のブランドを顧客に直接伝える場が、小売りの現場、つまり店舗である。 ブランドを構成する要素のうち、店の雰囲気やスタッフの接客が占める割合は大きい。 小売店を持つことで、消費者とコミュニケーションをとり、中川政七商店の価値観への共感を抱く人を増やし、結果としてブランド力を高めることができるのだ。 折しも、東京、玉川高島屋ショッピングセンターと伊勢丹新宿店のオファーが舞い込み、著者は出店を決断した。 中川政七商店は、製造小売りに対応するシステム構築に長い時間をかけて取り組むことになるが、工芸の分野でSPA業態を確立した先駆者とみなされることになった。 ビジョンと価値の共有 著者は、自分が描いた地図の上で社員各人が力を発揮すれば、それが組織の力につながると考えていた。 そのため、具体的な指示は出すものの、それによって得られる成果を伝えるということはしてこなかった。 しかし、会社を成長させていく過程のなかで、あるとき、スタッフに「社長が考えていることがわからない」と言われてしまう。 そのできごとをきっかけに、中川政七商店が何を成し遂げようとしているのかというビジョンと、それを実現する上で重視する価値観をわかりやすい言葉で伝えて共有しなければならないと考えるようになったという。 ビジョンを社員一人ひとりに納得してもらい、同じ方向へ進んでゆくための仕掛けとして考え出されたのが、「こころば」と「しごとのものさし」である。 「こころば」は、「正しくあること」などの10項目の仕事の心構えを表したものだ。 折に触れて社員に向けて説明するようにしているそうだ。 「しごとのものさし」は、普段の業務における判断基準を示したもので、オリエンタルランドの行動基準を参考にしているという。 他社に対する「心配り」、常にもつべき「美意識」、いまの仕事を次につなげる「積み上げ」が、その内容だ。 また、年1回、「政七まつり」も、ビジョンを社員の中に落とし込むための方策のひとつだ。 全社員で集まる会を開催し、1つのテーマをもとにディスカッションやグループワークを行う。 日本の工芸を元気にするために 長崎県東彼杵郡波佐見町にある波佐見焼の窯元。 Photo: by Joel ビジョンが生まれた 日本の工芸のメーカーと産地が、自立してプライドを持ってものづくりに取り組めるという状況が、そのまま中川政七商店の生きる道につながっている。 そうした思いを、著者は、家業に携わるようになって2、3年過ぎた頃から抱くようになった。 「日本の工芸を元気にする!」というビジョンが固まったのは、中川政七商店のクリエイティブディレクター、水野学氏と話しているときだという。 水野氏は、著者がこの人しかいないと見込んで、中川政七商店のデザイナーになってもらったという経緯がある。 遊 中川のブランドシンボルとなっている二頭の鹿を配したロゴマークは、水野氏のデザインである。 デザインの仕事以上に、水野氏は著者にとって、経営に関する右脳的、クリエイティブ的な示唆を与えてくれる存在でもある。 著者は2008年に中川政七商店の代表取締役に就任し、ビジョン実現に向けてさらに積極的に動き出すようになる。 工芸メーカーのコンサルティングに乗り出す ビジョンを掲げ、工芸メーカーや小売店に対して実際に何ができるのかを考えた著者は、相手の側に入り込んで中から変えていく方法、つまり工芸業界に特化したコンサルティングを行うというアイディアにたどりつく。 コンサルティングの経験はなかったが、自社でやってきたようなことを行なえば、必ず他の工芸メーカーも立ち直ることができる、という確信があった。 地方の中小企業の多くは会社として基本的なことができておらず、経営自体がない状態にあることが少なくない。 それだけに、当たり前のことを当たり前にできるようになるだけで状況は大きく変わるのだ。 初めにやってきたコンサルティング依頼は、長崎県にある、波佐見焼の産地問屋、マルヒロからであった。 新ブランドの立ち上げと売上げアップが要望として出された。 のちに、工芸メーカーのコンサルティングを続けていくなかで、「新ブランドの立ち上げ」という要望がとても多いことがわかったが、新ブランドの立ち上げは業務改善の次に行なうべきものと著者は位置づけている。 業務や財務の改善には不確定要素が少なく、しかも一度改善すれば経営を支え続けてくれるからだ。 また、最も大事なのは、経営者が事業を通じて何をやりたいのかというビジョンを持つことである。 それを会社全体で共有しない限り、その会社に存在意義はない。 マルヒロの若き後継者、馬場匡平氏に、やりたいことを徹底的に聞き、波佐見に人の集まる場所をつくりたいという夢が出てきたことで、地元の文化を背負って立つブランドを立ち上げるという目標を定めた。 そうしたやり取りを経て、HASAMIという、スタッキングできるマグカップをメイン商品とした新ブランドがつくられた。 HASAMIは、資金繰りや生産管理などの難問を乗り越えつつ、二年目には確実に売り上げをつくることができた。 合同展示会「大日本市」を主催する 2018年8月に行われた大日本市の会場。 日本全国からさまざまなメーカーが集結した。 中川政七商店に入社したころ、販路開拓に苦労した経験を持つ著者は、工芸メーカーを元気にすると決めたとき、流通の出口をサポートしようと考えた。 そうした考えから、中川政七商店単独で始めていた商品の展示会に、先に登場した波佐見焼のマルヒロや、そのほかいくつかのメーカーが加わり、2011年6月から「大日本市」が始まった。 この展示会では、一般によくある展示会と異なり、積極的に商品の売買がなされる。 中川政七商店は主催者であるが、展示会をビジネスにしようというつもりではないので、出展料は取らない。 代わりに、各メーカーから売上げの一定割合を徴収している。 特に、出展者に売ることを意識してもらえるよう、期間中は出展者全員が朝礼に参加し、前日の成約実績と当日の目標を発表することになっている。 小規模な工芸メーカーには、良いものをつくれば誰かが評価してくれるはずと考える傾向が目立つが、その姿勢が現在の工芸をめぐる厳しい環境の一因となっているともいえる。 ものづくりは、人の手に届いてはじめて完結するのだ、と著者は考えている。 経営の心得 Photo: by emmett anderson 「適正利益」を守る 著者は、「適正利益」を大切にしている。 利益は事業を通じて社会に何らかの価値を提供している証であり、企業が存続していくために欠かせないものだ。 しかし、だからといって利益を最大化することを経営の目的とはしていない。 理想とするのは、買い手 お客様 、つくり手 工芸品メーカー 、売り手 中川政七商店 がそれぞれ適正な利益を得て、そして社会にも貢献する、三方よしならぬ「四方よし」だ。 中川政七商店の資本の入ったメーカーを増やしたり、そうしたメーカーが中川政七商店らしい商品をつくったりする、という未来を追求しているわけではない。 つくり手を下請け企業として扱うのではなく、自立化の道のりをサポートする。 メーカーや産地とつながりながら、工芸業界全体が活気づくことを願っているのである。 経営は行き先とスピードを決めること 経営とは、どこに行くのかということと、そこに向かうスピードを決めることである、と著者はいう。 「どこに」は企業や経営者によっても異なるが、スピードに関しては、「倒れないギリギリの速さ」の見極めが大切になる。 スピードを上げすぎると制御しきれないが、遅すぎては話にならない。 倒れるか倒れないかのギリギリのスピードを見極めるのは、経営者にとって重要な仕事だ。 不思議なことにスピードを追求していくと、組織もそれに呼応するように力をつけてくる。 中川政七商店では、新卒採用が始まり、中途採用も積極的に行うようになると、元からいた社員もそれに刺激を受けてさらに力を発揮するようにったという。 一読のすすめ ここで紹介した内容のほかにも、著者である十三代 中川政七は、全国の土産物メーカーと地元の土産物屋さんをつなぐプロジェクトを手がけたり、300周年記念プロジェクトに合わせてポーター賞を獲ろうと動いたり、とにかくエネルギッシュに活動している。 その全貌はぜひ本書を手に取って読んでいただきたい。 経営に対する考えが経営者自身の力強い言葉で語られることも、本書の大きな魅力である。 (1冊10分で読める本の要約サービス ).

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雜貨迷最愛「中川政七商店」 把300年傳統工藝變潮牌|天下雜誌

中川 政 七 商店 社長

中川政七商店 享保元(1716)年創業。 奈良晒を代々扱ってきた奈良の老舗。 奈良晒とは、麻の生平(きびら)をさらして真っ白にした高級な麻織物で、主に武士の裃や僧侶の法衣として使われてきた。 18世紀に最盛期を迎えるが、他産地の織物に押されるようになり、さらに明治に入ると最大の顧客である武士を失い、衰退する。 しかし九代、十代は奈良晒を守り、復興に尽力した。 パリ万国博覧会(1925年)にも出展。 戦後、十一代中川巖吉は機械化を選ばず、生産拠点を海外に移して昔ながらの手績み手織りの製法を守る。 十二代中川巌雄は茶道具全般を扱う卸へと事業を拡大。 1985年には麻小物の小売「遊 中川」を立ち上げる。 2002年、のちに十三代となる中川淳が入社。 新ブランドの立ち上げ、直営店の開発に取り組む。 2008年、中川淳が十三代社長に就任。 コンサルティング事業の開始、新ブランド「中川政七商店」発表、合同展示会「大日本市」の開催など、新機軸を打ち出した。 2018年3月、十四代社長に千石あやが就任。 初めての中川家以外の社長となった。 先代は会長に就任し、コンサルティング・教育事業を率いる。 千石あや 1976年生まれ。 大阪芸術大学を卒業後、大手印刷会社に入社。 デザイナー、制作ディレクターとして勤務。 2011年、中川政七商店入社。 小売課スーパーバイザー、生産管理課、社長秘書、商品企画課課長、minoのコンサルティングアシスタント、山のくじら舎のコンサルティング、「遊 中川」ブランドマネージャー、ブランドマネジメント室室長を経験したのち、2018年3月、社長に就任。 町へ出て、ぶらぶらとお店を見てまわる。 ふと、開放的で清潔感のある店構えに目がとまる。 あ、素敵。 ちょっと入ってみよう。 お、天然素材のアームカバーがある。 欲しかったけど化繊のものばかりで気に入るものがなかったんだった。 わあ、こっちの猫はとってもキュート。 九谷焼の豆皿、猫好きの彼女が喜びそう。 いくつかの心惹かれる出合いがあって、お店の看板をふと見ると「中川政七商店」と書かれている。 そんな経験を何度か繰り返し、その古風な屋号は、すみずみまで気配りの行き届いた暮らしの道具が並ぶ、安心できるお店として記憶される。 中川政七商店を代表する人気の商品。 さまざまな日用品が揃っている。 上段真ん中の「花ふきん」は、奈良県の特産品、蚊帳生地を使用。 中川政七商店は奈良で300年以上続く老舗だが、ブランドとしての「中川政七商店」の誕生はぐっと新しく、2010年のことだ。 テキスタイルブランド「遊 中川」と、日本の土産ものを扱うブランド「日本市」に加えて、機能的で美しい暮らしの道具を扱うブランドとして「中川政七商店」は創設された。 私たちが抱く「中川政七商店」のイメージの多くは、この3本柱が確立されて以降のものである。 1985年、オープン当時の「遊 中川 本店」。 十二代中川巌雄が、麻の良さを日常で感じてもらおうと、麻生地の小物を扱う同店を立ち上げた。 卸から、工芸をベースとした製造小売り(SPA)へ。 改革を行ったのは、2008年に社長に就任した中川淳(2016年に十三代 中川政七を襲名)だ。 中川は2015年に「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」のファイナリストに選ばれている。 すなわち、一連の改革は「第二の創業」と呼ぶにふさわしいものだった。 現在の「遊 中川 本店」。 ロゴ(写真右奥)のリニューアルは、クリエイティブディレクターの水野学が担当。 そして今年3月、中川政七商店は、中川が会長となり、後継社長に千石あやが就任することを発表した。 これは、300年続く老舗の代替わりであると同時に、新興企業が直面する成長のための社長交代でもあった。 初の創業家以外の社長となった千石は、この事業継承をどうとらえ、何を受け継いでいこうとしているのだろうか。 社長を継ぐなんて「あり得ない」 取材前は、ズバッと的確な言葉で切り込んでくるような女性を取材するものと思っていた。 しかし「こんにちは〜」と笑顔であらわれた千石は、そのルックス、声、所作のすべてが驚くほど柔らく穏やかで、相手に心地良さを感じさせる女性だった。 「次の代は中川じゃない人にするということは4、5年前から言ってたんです。 だから、そうなんだろうなとは思っていましたが、まさか自分だとは思ってもみませんでした」 千石が、中川に呼び出されたのは昨年の夏。 千石は入社8年目。 製品管理、商品企画、「遊 中川」ブランドマネージャーなどを経て、ブランドマネジメント室室長の職に就いていた。 入社4年目には社内公募で社長秘書に立候補。 経営者としての中川を近くで見てきた。 「(中川から)『もうわかってると思うけど』と言われたんですが、何もわかってなくて。 冗談だと思って笑ってしまったぐらいです」 呼び出しの理由は、十四代目として社長に就任して欲しいという打診だった。 「考えた結果、千石さんやと思う」。 中川の言葉に、千石は「あり得ない」と思った。 「受けかねます」と伝えると、中川は「この場で『ええよ』と言われてもびっくりするし、しばらく考えて」と言った。 「あり得ない」と思った理由は、自分は経営者タイプではないと思っていたからだ。 では、千石さんが思う経営者タイプとは? と聞くと、間髪入れずこう答えた。 「中川です」 側で見てきた十三代の決断力 時は少しさかのぼり、千石が入社する前後のことだ。 中川は、新しいかたちの展示会の開発に取り組んでいた。 中小メーカーにとって、展示会は販路開拓のための重要な場所だ。 しかし従来の展示会運営会社が主催する展示会や見本市では、手応えを感じることができなかった。 来場者層とのミスマッチや、運営会社の出展者への理解のなさ。 なにより、出展料に見合う売り上げが立たないのでは、出展する意味がなかった。 そこで中川は、中川政七商店単独で展示会を開いた。 そこに中川からコンサルティングを受けた(各地の)の工芸メーカーがひとつ、またひとつと合流。 2011年、工芸メーカーが自ら主導する合同展示会「大日本市」が立ち上がった。 2018年8月に行われた大日本市。 全国各地から工芸産地の未来を背負う気鋭の会社が集まって出展する。 中川の方針はこうだ。 出展料はとらない。 代わりに流通サポートの費用として売り上げの一定の割合をお支払いいただく。 取り引きが発生しなければ主催者にもお金が入らない。 リスクを分け合うことで、出展者のビジネスにコミットするやり方だ。 中川の著書『日本の工芸を元気にする!』には、立ち上げのときに中川が書いた「大日本市宣言」が収録されている。 そこにこんな一節がある。 「受け身でものをつくる職人ではなく、 自らの意思で努力する工房でありたい。 」 中川政七商店 十三代 中川政七『日本の工芸を元気にする!』(東洋経済新報社) そして、「大日本市」の趣旨に賛同した大手百貨店から出店のオファーが届く。 そのときの心境を中川は同書でこう綴っている。 「(さまざまなメーカーが目標にする大手百貨店に)自分たちの売り場を持つなんて、少し前まで地方の小さな工芸メーカーにすぎなかったコンサル卒業組にしてみれば夢のまた夢。 地区予選の一回戦で敗退していた弱小チームがいきなり甲子園に出場するようなものである」 しかし1年後、「中川政七商店」の出店計画をめぐって両者の間にすれ違いが生じた。 何度か話し合いの場が設けられ、慰留もされたが、最終的に中川はその大手百貨店を退店することを決断した。 「私、そのとき秘書だったので、隣にいたんですよ」 千石にとってあの場面は「経営者の心意気」を肌で感じた瞬間だった。 「店舗は売り上げも出ていました。 利益が出ている店を手放すのはなかなかできない決断ですし、なにより『大日本市』のメンバー全員の商品を扱うところだったので、みんなもすごく喜んでいたんですね。 実際中川は、最後の話し合いの場に行く前、『止めてね』と言ってましたから。 ちゃんと打ち合わせもしたんですよ。 隣に座るだろうからここ(太腿のあたり)にすっと触れるのが止めるの合図、って。 でも止める間もなく言いましたね。 『退店させていただきます。 お世話になりました』って。 まじか!と思いました」 緊迫感漂う話し合いシーンを思い出しながら、「はははっ」と大きく笑う姿を見ていると、十三代社長の中川と秘書時代の千石は、お互いを信頼し合う息の合ったコンビだったことが伝わってくる。 一般的に小売市場では、大手流通のほうがメーカーより立場が強いことが多い。 しかもその百貨店は年間2500万人の来店客数を誇る。 多少の理不尽は我慢してその場所を守ろうと考えても不思議ではない。 しかし中川は「対等であること」を重視した。 千石はこう言う。 「あのときに私は『受注産業脳』から『メーカー脳』に切り替わったと思います。 ああ、こういうことか、と。 自分たちがどうありたいかを決めていくってこういうことなんだ、と思った」 念のために書き添えるが、同百貨店とはその後、友好な関係を築いている。 しかし中川ははじめから「対等なんやで。 出させてもらってるわけじゃないんやで」と言っていた。 その言葉が腹に落ちた。 同時に、その決断をするのが経営者なんだと思った。 「中川もあの場で決めたと思いますからね」 千石さんが社長に就任して半年、そのような場面はめぐってきましたか?と聞いてみる。 「まだめぐってきてないです。 あんなの半年に1回ペースであったら大変です。 もし自分だったら...... と考えると、今の胆力ではまだまだだなって思います。 『いったん持ち帰らせていただきます』って言っちゃうと思う。 けど、持ち帰ってももう聞く人はいないんですよね」 その言葉にトップの自覚と孤独がにじむ。 トップダウンからチームワークへ 自分はとてもあんなふうにはできない。 あり得ない。 そう言って社長の話を断ろうとした千石だったが、中川はこう言った。 「ちゃうねんちゃうねん、俺のコピーが欲しいわけじゃないねん」 中川は、工芸の世界で初めてSPA業態を確立し、15年間で店舗数を3から51へ、売り上げを4億円から52億円へと拡大させた。 その足跡を、中川の著書や、インタビューに答えた記事などでたどっていくと、ひとつひとつ着実に布石が打たれていることがわかる。 例えば、現在中川政七商店の事業の柱のひとつとなっている中小工芸メーカーへの経営コンサルティングは、2008年に出版した『奈良の小さな会社が表参道ヒルズに店を出すまでの道のり』にすでにはっきりと打ち出されている。 「同業界非競合の他社を手伝う一つの手段として、コンサルティングを考えている」 「世間でいうコンサルティング会社にお金を払うほどの規模も余裕もないメーカーや工房を対象にしたい」 中川は2002年に富士通を辞め、家業の中川政七商店に入社した。 中小工芸メーカーが生きていくためには、大手流通から品揃えと価格の決定権を取り戻し、自ら小売り業に乗り出すしかない。 日本全国で多くの中小工芸メーカーが苦境に陥り、廃業に追い込まれる状況をなんとかしなければ、自らの生きる道もない。 これらの現状認識は、ひとつのビジョンへと収斂する。 「日本の工芸を元気にする!」 後ろの大きな本棚には、日本全国の伝統工芸に関する歴史本や写真集、雑誌などの書物がずらりと並ぶ。 中川が会社を成長させていく様を間近で見てきた千石はこう言う。 「ビジョンはものすごい『発明』だったと思うんですよ。 そのビジョンのもとに人が集まり始めた。 中川の最もすごいところは徹底したロジカルさです。 普通はひらめきで終わらせるようなことも、すべて説明できる。 ただ、中川がロジックによって導き出したあるべき姿の根底には、『日本の工芸を元気にする!』というビジョンが必ずある。 だから、そのロジックが完成した時点でやったほうがいいことなんです。 できるかどうかは別にして」 15年間で売り上げは10倍以上になった。 これほどの急成長に「成長痛」がなかったとは考えづらい。 中川のリーダーシップを、千石は「(中川が考えることを)みんなが必死のパッチで実現する」と表現した。 それによって伸びてきたし、やれることが増えたのはたしかだ。 しかし、一人の強力なリーダーが引っ張っていくやり方では成長に限界があるのではないか。 そういう思いが今回の社長交代の発端だったと千石は言う。 「カリスマ経営者からカリスマ経営者へのバトンタッチだったら『自分のコピー』を期待したかもしれません。 でも今回は、トップダウンからチームワークへが大きなキーワードでした。 いい企業文化はトップダウンでは作れない。 一人が引っ張るのではなく、個々の戦闘能力を上げるんだ、みんなで早く遠くへ行くんだということです」 ぶれないビジョンがあるから迷わない 千石は自らに期待されていることを「バランスのよい判断」と分析するが、同時に「スピードを落としたくない」と言う。 「なるべく早く100億円を目指したい。 そう言ったら中川に『え、数字? それテンション上がるん?』と言われたんですけど。 ははは。 でも、それぐらい(売り上げが)あると諦めなくていいんじゃないかと思うんです。 いろんなことを」 例えば、産地の魅力を味わえるような観光ツアーや、工芸に特化したリクルーティングのプラットホームなど新事業がいくつかある。 「日本の工芸を元気にする!」というビジョンのためにはやったほうがいいのは間違いないが、収益化のめどがついていないものもある。 企業基盤がしっかりしていなければ挑戦できない。 諦めないために、数字が必要なのだ。 「会社全体の利益がちゃんと出てないとテンションも下がりますしね。 みんながこの会社にいて楽しいと思わないと続かないと思うので。 中川もよく言ってました。 『俺の仕事は飽きさせないことやで』って。 なのでうち、仕事のご褒美は仕事なんです」 入社したばかりの頃、自分に嘘をつかずに仕事ができることが嬉しかった、という千石。 自分たちが本当に良いと思うものだけをゼロからつくれることに大きな価値を感じている。 「なぜ(中川政七商店の)みんながものづくりに真摯に取り組めるかというと、ビジョンがあるからだと思うんです。 商品企画や営業、生産管理など働く場所は他にもたくさんあります。 なのになぜ、わざわざ他の会社をやめて、こんな奈良の片田舎に引っ越してくるかというと、なんらかのかたちでビジョンに共鳴しているからだと思います。 みんな、ここで何かしたいと思ってきている」 それは、30代なかばで転職した千石自身の思いでもあるのだろう。 この厳しくもやりがいのある職場でこれからも働いていく。 お客様によいものを届け、一緒にものづくりをする仲間を増やしていく。 そう思っていたはずだ。 奈良市にある中川政七商店の本社。 コンセプトは、暮らすように仕事する「未来の町屋」。 2010年 グッドデザイン賞 中小企業庁長官賞を受賞した。 「ふふふ。 そうですね。 でもビジョンがありましたから。 『ビジョンも変えていこうと思ってんねん、まかすわ』だったら『お断りします』ってなったと思います。 『日本の工芸を元気にする!』というビジョンと、『こころば』という心構えの10カ条、それは変えない。 一方で、うちの良さは、変わることをいとわない軽やかさにもあると思っています。 そうでなければ、300年前に創業した奈良晒の問屋さんがここまで続くことはなかったと思う」 千石の頭の中には、すでにいくつかの未来予想図が描かれている。 それは例えば、日本と同じように、後継者がいなくなり工芸が衰退しているアジアの国々の人々と、ともにものづくりをしている姿だ。 中国には約2000の工芸があると言われているが、ものすごい勢いでなくなっているという。 「うちでつくっている暮らしの道具のようなものは、機能だけを考えれば100円ショップにもあったりするんです。 何が違うのか、どういう工程で、何をいいと思ってそれを作っているのかを、もっと丁寧にお伝えしていきたいと思っています。 私たちは技術の進歩や効率の追求を否定しているわけではありません。 だけど、なくなったら惜しいと思うものがある。 一人の人間がコツコツとつくった手仕事を『なんかいいな』と思う。 日本の工芸を元気にするために、まずはいちメーカーとして、自分たちのものづくりに真摯に向き合っていきたいと思っています」.

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