ファイヤー ヨーコ。 花電車芸とは、女性器を使って芸をすること “最後の芸人”に秘技はどう受け継がれたのか

「ノーノーノー」と泣き叫んでも見知らぬ男とステージ上で…

ファイヤー ヨーコ

花電車とは、もともとは祝典などのために花などで飾られた路面電車など、客を乗せない電車を指す。 本来の目的では使われない電車という意味から転じ、セックスのためではなく女性器でさまざまな芸を行うことを「花電車芸」と呼ぶようになったという。 ここには正史では決して語られない日本の歴史が記されている。 女性器から火を噴く「ファイヤーヨーコ」 著者いわく、現在、日本で花電車芸を披露している人は十指にも満たないそう。 警察の手が伸びたり、女性の裸がネットで手軽に見られるようになったりしたことでストリップ劇場から客足が遠のき、花電車芸人は極めて貴重な存在になった。 そんな中で、「生ける伝説」だと語られるのがファイヤーヨーコ。 彼女は女性器から火を噴くという、花電車芸人の中でも飛びぬけた芸を持つ。 本書ではファイヤーヨーコが花電車芸人となった経緯や彼女の自己プロデュース力の凄さを明かしているが、筆者が一番印象的だったのは、芸に対する彼女の想いだ。 ファイヤーヨーコは、ファイヤーが火炎放射器のように飛距離を出すには、どうすべきかと考え、何百もの筒を作り、今日の芸を完成させた。 芸を極めるその姿勢は、まるで職人のよう。 決して公にはならない芸に人生をかけた花電車芸人たちの想いを知ると、今日までひっそりと受け継がれてきた花電車芸に、なんともいえない感情がこみ上げてくる。 「性」に生を見たストリッパーと客 本書は花電車芸人だけでなく、ストリッパーにも光を当てている。 首つり芸を披露する性同一性障害のストリッパーや親子2代のストリッパーなど、著者が取材した人々はみな先鋭的だ。 ストリップは非合法的なもの。 だが、ストリップによって「生」を見出し、救われた人々もたしかにいる。 たとえば、妊娠中もステージに立ち続けたという麻美璃歌子は、リストカットや自殺未遂を経験していたが、ストリップという「生きる場所」を見つけ、新たな命を身ごもるまでになった。 彼女やそこで活躍する女性たちにとって、ストリップ劇場は猥雑な場所ではなく、生命維持装置でもあったのだ。 また、ベトナム戦争中に米兵相手にストリップを披露していたというマリコは、常に死と隣り合わせの人々にとって「生」を実感できる貴重な存在だったという。 もう一曲、もう一曲って、なかなか終わらせてくれないんです。 凄い情熱でした。 数時間後には前線に出て死ぬかもしれないから、最後に見るダンスかもしれないと、とにかく必死なの。 だからできる限り踊りましたよ。 しかし、絶望と恐怖の中で性を通じて「生」を見た人々にとっては、ストリッパーは消えてほしくない存在だったこともたしかなのだ。 こうした背景があるからこそ、ただ一辺倒に環境浄化の波が広がっていく現状に著者はある苦言を呈す。 だが、そのような場所や、何よりもそこに生きる人たちを、これ以上厳しく取り締まる必要などない。 何より、「浄化」という言葉を人に向けるべきではないだろう。 風前の灯となった花電車芸やストリップは、あと何年残っているか分からない。 けれど、白とも黒ともつかないグレーの世界で懸命にプロとして生きる・生きた女性たちがいる。 どうかそんな女性たちに思いを馳せながら、「いかがわしい」ではない視点で本書を読んでみてほしい。 文=古川諭香.

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変態居酒屋で誕生日イベント(ファイヤーヨーコさん編)

ファイヤー ヨーコ

ストリップ劇場が日本から次々と姿を消した「語られざる事情」 あるベテランストリッパーの回想 2018. ベテランの踊り子、大いに語る 「あの時代は、お客さんが黙っていても入った時代だった。 劇場の外までお客さんが押しかけてきたから、入り口のドアが閉められなかったこともよくあったのよ。 一回ごとに入れ替えがあったけれど、たいてい劇場の出入り口は一ヶ所しかないから、出入り口の外までお客さんで溢れていると、中のお客さんを出すことができなかった。 そこで、お客さんに靴を脱いでもらって、ステージから楽屋を抜けさせて、踊り子用の出入り口から出したことがあったぐらいなのよ」 昭和50年代からバブルが弾ける頃までのストリップ劇場の様子を語ってくれたのは、芸歴が40年近くなる現役の踊り子である。 閑古鳥はおろか、潰れていくストリップ劇場があとを絶たない昨今のストリップ業界を思うと、遠い昔話を聞いているような感覚になってくる。 私は今も営業を続けている埼玉県内の劇場の楽屋で、踊り子に話を聞いていた。 訪ねた日は五人の踊り子たちがステージを務めていて、そのうち三人の踊り子は二十代で、目のやり場に困る色気を解き放っていた。 「賑やかだった時代、劇場の雰囲気は如何だったんですか?」 「お客さんも元気だったわね。 まだ音楽が流れたばかりでこちらは脱いでもいないのに、衣装のボタンに手をかけただけで、あちこちでオナニーがはじまる時代だったのよ」 「そんなことが許されたんですか」 私は思わず声を上げていた。 昨今のストリップ劇場では、踊り子の演技に目をやり、時には拍手を送り、行儀よく観覧するというのが、通常の雰囲気だ。 かつてのストリップ劇場は、女に飢えたオスが行き場の無い性欲を発散する場でもあったが、当然ながら今の劇場には、そんな客も空気も存在しない。 「今じゃオナニーなんてしたらすぐにつまみ出されるけど、あの時代はそれが普通だった。 本番まな板ショーだって、みんなの前でやるわけだから、今からじゃ考えられないわよね。 あれ以上過激なものはないから、お客さんが過激なものに慣れてしまって、ストリップが飽きられてしまったことは確かだと思うわよ」 本番まな板ショーとは、ステージ上で客と踊り子がセックスをするサービスである。 「いつぐらいまで、本番まな板ショーはやっていたんですかね?」 「今から十年ぐらい前の西川口じゃないかしらね。 あそこにはピンク部屋もその時ぐらいまではあったから」 ちなみに、ピンク部屋とは本番サービスを提供する個室のことで、主に本番まな板ショーを担当する踊り子がつとめていた。 西川口にあった劇場はすでに潰れているが、ピンク部屋で体を売っていた日本人の踊り子が、話を聞いていた踊り子の隣に座っていた。 彼女の芸歴も三十年以上あり、ベテランの踊り子である。 彼女にピンク部屋について話を聞いてみた。 「西川口には三部屋ピンク部屋があったんですよ。 外人はみんなやっていたけど、日本人もいました。 まな板ショーが無くなってからは、個室が大きな収入源になっていたと思います。 一日に二十人くらい相手しましたよ。 こっちは気持ちいいも何も、何も感じないですよ。 とにかく人数をさばかないといけないですからね。 当時は個室の人気が凄かったから、どんだけサービスが悪くても入ってくるんです」 「ピンクにしろ、本番まな板ショーにしろ、日本人の踊り子さんはどんな思いでやっていたんですかね」 「今の若い子たちは、踊りが好きとかいう理由でストリップに入って来る子が多いけど、昔はみんな生活のためにやっていたのよ。 誰も好き好んで、本番まな板もピンクもやっていないわよ。 東南アジアの子ばかりじゃなくて、日本人だって必死にお金を稼いでいたの」 本番まな板ショーという常軌を逸した宴は、今から三十年ほどの前の日本では普通におこなわれていた。 日本から年々ストリップ劇場が消えた今となっては、本番まな板ショーはどこの劇場に足を運んでも見ることはできない。 高度経済成長時代からバブル景気の頃におこなわれていたこのショーは、日本が生んだストリップの極みともいえる。 そうしたショーは客の要望であったと同時に、貧困から抜け出そうとする東南アジアや一部の日本人の踊り子にとっては、世の中を生き抜くひとつの手段となっていた。 花電車 はじめに話を聞いていた踊り子に、再びかつてストリップ劇場で行われていたことを尋ねた。 「本番まな板ショー以外にも、何か変わったショーはあったんですか?」 「ステージで踊り子とポニーがセックスをする獣姦ショーというのがあったわね。 ポニーをステージの裏に待機させていて、出番になったらポニーは出て行くんだけど、自分の出番の前に楽屋裏に行くと、ポニーが何とも切ない顔をしているのよ。 『お前も大変だね』なんて、声を掛けたら、『フンッ』と鼻息を返されたことがあったわね。 ポニーとセックスする踊り子さんは、ポニーさんと呼ばれていたのよ」 本番まな板ショーに獣姦ショーと、今の時代からは想像もつかないことがおこなわれていたのだ。 私がストリップの取材を初めたのは2007年頃のことで、彼女たちが語ってくれたそれらのショーについては、話では聞いていたがこの目で見たことはない。 そうしたショーは徹底的な取り締まりによって、ストリップ劇場では演じられなくなっていた。 戦後の焼け野原で産声をあげたストリップは、女の裸体を晒し、性を見せる場所であったはずだが、昭和五十年代に入って、性そのものを売る場所となっていき、多くの客が詰めかけた。 ところが風営法の改正などにより、本番まな板ショーなどが消えていくと、集客の柱を失い、衰退の道を辿ることになった。 私が取材で足を踏み入れた時には、ストリップ業界は斜陽産業という有り様であった。 ストリップ業界の夕暮れ時に出会ったのが、今回私が『ストリップの帝王』という評伝にまとめた瀧口義弘であった。 瀧口は元銀行マンという異色の経歴であったが、姉が日本を代表するストリッパーであったことから、ストリップと関わることになる。 ストリップ華やかなりし頃には、月収が一億八千万円もあった人物で、当然ながら、現在のストリップ業界の様子からは伺い知れない業界話が続く。 彼自身も全国指名手配を振り切るなど、破天荒極まりない人物であった。 そんな瀧口の他に、もうひとり印象深い人物がいる。 女性器から火を吹く芸を披露しているファイヤーヨーコである。 ヨーコが披露する花電車とは、女性器を使って芸をすることである。 装飾された路面電車は花電車と呼ばれ、客を乗せなかった。 花電車の呼称は、芸を行った芸者は性器を使うものの男を乗せないことから、そう呼ばれるようになった。 戦前に中国などから大阪の飛田遊郭に伝わり、芸妓たちが女性器を使って書道をしたり、吹き矢を飛ばしたりしたことが、日本における花電車の事始めである。 飛田遊郭から東京にも伝わり、当時一大色街であった玉ノ井などでも盛んに演じられたと言う。 その後、売春防止法が昭和三十四年に施行されると、職を失った芸妓たちはストリップ劇場に流れて芸をした。 それが、今日まで続く花電車のざっとした流れだ。 ヨーコは女性器から火を吹く以外にも、スプーン曲げや鉛筆折り、吹き矢を飛ばしての風船割り、ラッパ音楽を奏でるなど、いくつもの芸を持っている。 ファイヤーが私の生きる術 そもそも彼女が花電車芸人としてデビューしたのは、彼女が三十歳の時のことだ。 「ストリップ劇場の踊り子としては遅過ぎで、普通のアイドル系の踊り子なら、そろそろ肩叩きがはじまる年齢でした。 今は無くなりましたが、デビューは十三ミュージックという劇場で、従業員もなんでこんなオバハンを使うんだと胡散臭い目で見られました」 体の美しさを売りにする踊り子であれば、あり得ない年齢でのデビューであった。 しかし、彼女には花電車という特殊な芸があった故に、常識外れのデビューが許された。 「当時の十三ミュージックと言えば、西のロック座と並んで日本を代表する劇場でした。 数千万円のミラーボールが四つも吊り下がっていて、お客さんも満員で、初めてステージに立った時は震えが止まらなかったことを覚えています。 デビュー当時は、まだまだ先輩で花電車をやる踊り子さんもいて、その人たちを超えてやろうと必死になって芸を磨きましたね」 彼女がデビューした当時、花電車を売り物にする踊り子は十人ほどいたという。 それぞれが持ちネタを持っていて、誰ともかぶらないネタが必要だった。 「私が選んだのはファイヤーだったんです。 花電車をやる場合、お師匠さんについて芸を譲ってもらったりする人が多かったんですけど、私は師匠がいなかったんで、自分で芸を磨いていくしかなかった。 ファイヤーが私の生きる術だったんです」 彼女の話を聞いていると、ストリップ劇場というものが、性だけでなく芸を見せる場所だったことが伺える。 日本各地の芸能に精通した小沢昭一は、ストリップを最後の放浪芸と表現したが、まさにその言葉の通りである。 現在のストリップ劇場は日本全国で二十軒に満たず、ファイヤーヨーコのように立派な芸を持つ踊り子ですら、披露する場所が無くなりつつある。 彼女がステージを務めることがあるのは、アタミ銀座劇場という、静岡県の温泉地熱海にある劇場である。 熱海は、かつて花電車芸の本場であった。 熱海には芸者が多かったことから、座敷芸として花電車が代々演じられてきた。 今でこそ、熱海の劇場はアタミ銀座劇場だけになってしまったが、かつては十一軒の劇場がこの熱海にあった。 小ぢんまりとしたアタミ銀座劇場のステージの脇には、額に入った「夢」と書かれた書が残っている。 かつて、この劇場専属の踊り子だったいろはさんが花電車芸で書いたものだ。 彼女は日頃から書道教室にも通いながら、自身の花電車芸に活かしていたという。 芸に対するプロ意識が高い踊り子であったが、残念ながら2014年に亡くなり、もう二度とステージに立つことはない。 来年をもって平成は終わるが、昭和に全盛期を迎えたストリップは過去のものとなろうとしている。 文中で触れた『ストリップの帝王』を綴ったのは、あの時代の空気や人間たちの生き様を何とか残すことができないかという思いもあった。 ストリップという、社会の片隅にある性文化も、ひとつの時代から紛れもなく影響を受けていたのだ。

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【男を鍛える】2つの体操でチンチンの根っこ鍛えよう!

ファイヤー ヨーコ

ファイヤーが私の生きる術 そもそも彼女が花電車芸人としてデビューしたのは、彼女が三十歳の時のことだ。 「ストリップ劇場の踊り子としては遅過ぎで、普通のアイドル系の踊り子なら、そろそろ肩叩きがはじまる年齢でした。 今は無くなりましたが、デビューは十三ミュージックという劇場で、従業員もなんでこんなオバハンを使うんだと胡散臭い目で見られました」 体の美しさを売りにする踊り子であれば、あり得ない年齢でのデビューであった。 しかし、彼女には花電車という特殊な芸があった故に、常識外れのデビューが許された。 「当時の十三ミュージックと言えば、西のロック座と並んで日本を代表する劇場でした。 数千万円のミラーボールが四つも吊り下がっていて、お客さんも満員で、初めてステージに立った時は震えが止まらなかったことを覚えています。 デビュー当時は、まだまだ先輩で花電車をやる踊り子さんもいて、その人たちを超えてやろうと必死になって芸を磨きましたね」 彼女がデビューした当時、花電車を売り物にする踊り子は十人ほどいたという。 それぞれが持ちネタを持っていて、誰ともかぶらないネタが必要だった。 「私が選んだのはファイヤーだったんです。 花電車をやる場合、お師匠さんについて芸を譲ってもらったりする人が多かったんですけど、私は師匠がいなかったんで、自分で芸を磨いていくしかなかった。 ファイヤーが私の生きる術だったんです」 彼女の話を聞いていると、ストリップ劇場というものが、性だけでなく芸を見せる場所だったことが伺える。 日本各地の芸能に精通した小沢昭一は、ストリップを最後の放浪芸と表現したが、まさにその言葉の通りである。 現在のストリップ劇場は日本全国で二十軒に満たず、ファイヤーヨーコのように立派な芸を持つ踊り子ですら、披露する場所が無くなりつつある。 彼女がステージを務めることがあるのは、アタミ銀座劇場という、静岡県の温泉地熱海にある劇場である。 熱海は、かつて花電車芸の本場であった。 熱海には芸者が多かったことから、座敷芸として花電車が代々演じられてきた。 今でこそ、熱海の劇場はアタミ銀座劇場だけになってしまったが、かつては十一軒の劇場がこの熱海にあった。 小ぢんまりとしたアタミ銀座劇場のステージの脇には、額に入った「夢」と書かれた書が残っている。 かつて、この劇場専属の踊り子だったいろはさんが花電車芸で書いたものだ。 彼女は日頃から書道教室にも通いながら、自身の花電車芸に活かしていたという。 芸に対するプロ意識が高い踊り子であったが、残念ながら2014年に亡くなり、もう二度とステージに立つことはない。 来年をもって平成は終わるが、昭和に全盛期を迎えたストリップは過去のものとなろうとしている。 文中で触れたを綴ったのは、あの時代の空気や人間たちの生き様を何とか残すことができないかという思いもあった。 ストリップという、社会の片隅にある性文化も、ひとつの時代から紛れもなく影響を受けていたのだ。

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