いつまでも 変わら ぬ 愛 を 楽譜。 織田哲郎「いつまでも変わらぬ愛を」レビュー ~音楽に救われたあの日の兄と自分、そして今のあなたへ~|犬山翔太|note

いつまでも変わらぬ愛を(織田哲郎)

いつまでも 変わら ぬ 愛 を 楽譜

UPCH-1541 ¥3,000(税込) 1. もう少しがんばってみよう。 青空 3. 瞳閉じれば〜Let's dance〜 4. TONIGHT 5. インソムニア 6. 最後の恋 7. 真夏の夜の甘い夢 8. キズナ 9. Sunrise Sunset 10. 祈り 11. 真夜中の虹 12. 明日へ UPCH-1517 ¥3,059(税込) 1. 負けないで 2. シーズン・イン・ザ・サン 3. ボクの背中には羽根がある 4. 愛のために。 碧いうさぎ 6. 突然 7. 世界中の誰よりきっと 8. この愛に泳ぎ疲れても 9. Anniversary 10. 世界が終るまでは… 11. 恋心 12. この大きな出来事が音楽に戻るキッカケのひとつにもなったことは前回伺いました。 今回は1991年、当時の織田さんの仕事を振り返ってみたいと思います。 この年西城秀樹さんの『MAD DOG』というアルバムをプロデュースされていますね。 まずそのお話からお伺いします。 織田 西城さんとのご縁も「ちびまる子ちゃん」で使われた「走れ正直者」からでした。 このアルバムは全体の構成を考え、制作も歌入れまですべて関わっています。 作詞・作曲・編曲を自分で担当した楽曲も多かったけど、他の人に発注することもありました。 奥田民生くんに作詞、作曲を発注した曲もあります。 サエキけんぞうさんにシングルでも発売した『Rock Your Fire』という曲の作詞を依頼したり、参加ミュージシャンの人選なども含め、楽しくプロデュースの仕事をさせてもらいました。 織田 実はこの曲が日本で最初にスカでヒットした曲だといわれているんですよ(笑)。 つい最近まで、スカだのレゲエだのっていうのはヒットしないと音楽業界でも言われていてね。 レコード会社のスタッフも「スカやレゲエはヒットしない」という鉄則があると言っていたし。 盆踊りでも裏アクセントな曲はあるし、特に沖縄民謡なんてもともと裏打ちで、レゲエ調の音楽にもすごく良くハマるんだけどね。 不思議なことに当時はなかなか裏打ちは大きなヒットには結びつかなかった。 それまで西城さんとの接点はなかったのでしょうか? 織田 実はそれ以前に「織田哲郎&9th IMAGE」でアルバムの一曲目に収録した「Dreamer」という曲を秀樹さんがテレビの音楽番組でカバーして歌ってくれたことがあったんです。 あの頃秀樹さんはアダルトな雰囲気のイメージを前面に押し出していたんだけれど、秀樹さんにはストレートなロックを歌って欲しいと、実は俺が中学生の頃から思っていたのよ(笑)秀樹さんにロックは良く似合うと。 の「Careless Whisper」やバリー・マニロウなどの曲をカバーするなどバラード系の楽曲も多かった。 織田 そうだね。 そういう路線だった。 彼はドラマーでもあるし。 それにしても俺が中学生の頃なんて日本ではロックというと地味なルックスの人が汚い格好でやってると本物、みたいな感じだったんですよ。 ロバート・プラントだってデビッド・ボウイだってあんなにかっこいいじゃない(笑)。 というか本来かっこよくてナンボでしょうロックは(笑)。 だから秀樹さんのようなカッコイイ人にロックを歌って欲しい、もっとロックを歌えばいいのに、という当時の思いがずっと俺の中に残っていてね。 『MAD DOG』というアルバムを作ることによって、そういう思いが結実したんです。 TBSで「ザ・ベストテン」という番組が始まって、人気番組として定着していた、そんな時代ですね。 織田 そうだね。 それ以前「歌謡曲の時代」というのは、歌謡曲がメジャー、ロックはマイナーというイメージがあった。 秀樹さんはそのメジャーな「歌謡曲」の世界のど真ん中にいたよね。 1970年代後半になって世良公則&ツイストや原田真二、Char、さらにサザンオールスターズがロックをメジャーにしたことで、日本の音楽シーンの流れが大きく変わりましたね。 すごく仕事はしやすかったし、一緒に仕事をしてみて、やっぱりロックが良く似合うアーティストだと思ったし、さまざまな場面で「一流」を感じました。 さすがです。 織田 そうそう、後に結婚式にもご招待いただいたよね。 これぞ芸能界の結婚式というくらい招待客も披露宴も豪華だったよ。 俺はあまり芸能人の知りあい、友人もいないし、初めての体験だったなぁ「芸能界の結婚式」。 クィーンズの『ぼくらの七日間戦争〜Seven Days Dream』、ZARD『Good-bye My Loneliness』『不思議ね…』『もう探さない』、Mi-Ke『想い出の九十九里浜』『ブルーライト・ヨコスカ』の作曲=楽曲提供をされています。 この頃の忙しさはどうでしたか? 織田 最盛期に比べるとグッとペースを落として、休養もキチンと取りながら、イイペースで仕事が出来ていたと思うよ。 ちょこちょこ旅にも出掛けてたり、この年の後半からは自分のアルバムを作り始めたし、心身共にダメージを受けない程度の仕事量だったね。 遊び心溢れる楽しい曲です。 織田 純粋に遊びで作った曲だから、とても楽しめた。 それにしても良く売れたよね。 以前話したテレビ番組のホスト、ラジオのレギュラーを経験して、やっぱり俺には向いていないなと本当に思ったし、そもそも取材で喋るのも苦手なのよ(笑)。 メディアに露出することに苦手意識が強かった時期なので、当時はほとんどインタビュー取材も受けていないと思うよ。 記憶にあるのは雑誌「SPA」の取材を受けたこととTOKYO FMの番組に出たくらいかぁ?(笑)なんでその取材だけ受けたのかはまったく覚えていない(笑)。 年明け早々にブルースシンガー近藤房之助さんとの共演が話題になり、今もライブで多くのファンの皆さんに愛される名曲『Bomber Girl』をリリース。 3月織田さんご自身の作品としてオリコンシングルチャート初の1位を獲得、ミリオンセラーとなる『いつまでも変わらぬ愛を』が世に送り出されます。 織田 「いつまでも変わらぬ愛を」は俺の中で復活宣言なんです。 俺にとって本気でもう一度音楽に取り組むということはオファーに応えて、他人に楽曲提供するということではなく、大切なのは自分の曲、自分のソロアルバムを出すことだったんだ。 でも一方、自分や亡くなった兄貴もそうだったように音楽によって救われた部分がある。 自分たちがそうであったように、音楽によって救われる人が世の中にいて、自分の作る音楽が人の悲しみを癒したり、誰かの心を励ましたり、苦しみをやわらげることに少しでも繋がるのであれば、それはとても意味のあることだし、もしそれが俺に出来るのであれば、音楽は作り続けるべきだと考えた。 だからこの曲は「これからもう一度しっかりと音楽を届け続けます」という決意表明みたいなものです。 織田 「いつまでも変わらぬ愛を君に届けてあげたい」というフレーズに込めた思いは、「届けてあげたい」というからにはその相手、対象はそばにいないんです。 ある時期の俺のような、あるいはある時期の兄貴のような人間にとって俺の音楽が届く事で少しでも楽になってくれるなら音楽を作り続けたい、と思った。 だからこそ「届けてあげたい」ということだったんです。 ただそういうと大仰な感じがするし、CMソングとして採用されることも決まっていたので、ポップスとして成立して、しかも一般的な恋愛の歌としても受けとめられるように詞は書いています。 でも目の前にいない相手だからこそ届けたい、「届けてあげたい」という思いや意味は強いんだよね。 もちろん皆さんにはいろいろな受けとめ方をしてもらって構わないんだけど。 3年ぶりのライブツアーも再開されました。 この時のツアーはどういう感じでしたか? 織田 「ENDLESS DREAM」を完成させ、全国8ヶ所を回ったんですよ。 ブラスセクション、女性コーラス2名を含め12人の大所帯バンドでした。 キーボードはのちにDIMENTIONをやることになる小野塚くんや難波弘之さんにも参加してもらったし、サックスもまだ勝田くんだったね。 『SEASON』以降だいぶお客さんが変わったけれど、このライブでお客さんの層はまたかなり入れ替わった感じがしたよ。 1993年織田さんも作曲家として日本記録を樹立した年でもありますが、そのお話はまた次回伺うことにします。 よろしくお願いします。 織田 了解。 カラオケブームとも重なって、大きな波がやってくるんだけど、その辺はまた次回だね 笑。 どうぞお楽しみに シンガーソングライター/プロデューサー 1958年3月11日生まれ。 東京都出身。 中学時代をロンドンで過ごし、15歳で帰国。 高校時代にバンドを組みエレキギターを弾きはじめ、同時にオリジナル曲の創作をはじめる。 1979年にギタリストの北島健二(現FENCE OF DEFENSE、PEARL)らと共にプロデュースユニットWHYを結成し、アルバム『WHY』でデビュー。 それと並行し、プロデュース業も開始する。 そして1983年にアルバム『VOICES』でソロデビュー。 1986年、TUBEに提供した『シーズン・イン・ザ・サン』が大ヒットし、1990年には B. クイーンズ『おどるポンポコリン』で日本レコード大賞を受賞。 1992年には自身のシングル『いつまでも変わらぬ愛を』がミリオンセラーに。 1993年、オリコンチャート・ベストセラー作家部門において、12,404,990枚という史上最高のセールスで1位を獲得。 以後、相川七瀬等を中心に様々なアーティストのプロデュースを手掛ける。 日本音楽史上歴代作曲家売上ランキング第3位となる4,000万枚超えるセールス(CDシングル・2007 年3月現在オリコン調べ)を記録する日本を代表する作曲家。 2007年5月23日(水)自身14年ぶりとなるフルオリジナルアルバム「One Night」をユニバーサルミュージック(株)より発表。 vol. 13 静かな復活宣言・・・いつまでも変わらぬ愛を•

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いつまでも変わらぬ愛を(織田哲郎)

いつまでも 変わら ぬ 愛 を 楽譜

UPCH-1541 ¥3,000(税込) 1. もう少しがんばってみよう。 青空 3. 瞳閉じれば〜Let's dance〜 4. TONIGHT 5. インソムニア 6. 最後の恋 7. 真夏の夜の甘い夢 8. キズナ 9. Sunrise Sunset 10. 祈り 11. 真夜中の虹 12. 明日へ UPCH-1517 ¥3,059(税込) 1. 負けないで 2. シーズン・イン・ザ・サン 3. ボクの背中には羽根がある 4. 愛のために。 碧いうさぎ 6. 突然 7. 世界中の誰よりきっと 8. この愛に泳ぎ疲れても 9. Anniversary 10. 世界が終るまでは… 11. 恋心 12. この大きな出来事が音楽に戻るキッカケのひとつにもなったことは前回伺いました。 今回は1991年、当時の織田さんの仕事を振り返ってみたいと思います。 この年西城秀樹さんの『MAD DOG』というアルバムをプロデュースされていますね。 まずそのお話からお伺いします。 織田 西城さんとのご縁も「ちびまる子ちゃん」で使われた「走れ正直者」からでした。 このアルバムは全体の構成を考え、制作も歌入れまですべて関わっています。 作詞・作曲・編曲を自分で担当した楽曲も多かったけど、他の人に発注することもありました。 奥田民生くんに作詞、作曲を発注した曲もあります。 サエキけんぞうさんにシングルでも発売した『Rock Your Fire』という曲の作詞を依頼したり、参加ミュージシャンの人選なども含め、楽しくプロデュースの仕事をさせてもらいました。 織田 実はこの曲が日本で最初にスカでヒットした曲だといわれているんですよ(笑)。 つい最近まで、スカだのレゲエだのっていうのはヒットしないと音楽業界でも言われていてね。 レコード会社のスタッフも「スカやレゲエはヒットしない」という鉄則があると言っていたし。 盆踊りでも裏アクセントな曲はあるし、特に沖縄民謡なんてもともと裏打ちで、レゲエ調の音楽にもすごく良くハマるんだけどね。 不思議なことに当時はなかなか裏打ちは大きなヒットには結びつかなかった。 それまで西城さんとの接点はなかったのでしょうか? 織田 実はそれ以前に「織田哲郎&9th IMAGE」でアルバムの一曲目に収録した「Dreamer」という曲を秀樹さんがテレビの音楽番組でカバーして歌ってくれたことがあったんです。 あの頃秀樹さんはアダルトな雰囲気のイメージを前面に押し出していたんだけれど、秀樹さんにはストレートなロックを歌って欲しいと、実は俺が中学生の頃から思っていたのよ(笑)秀樹さんにロックは良く似合うと。 の「Careless Whisper」やバリー・マニロウなどの曲をカバーするなどバラード系の楽曲も多かった。 織田 そうだね。 そういう路線だった。 彼はドラマーでもあるし。 それにしても俺が中学生の頃なんて日本ではロックというと地味なルックスの人が汚い格好でやってると本物、みたいな感じだったんですよ。 ロバート・プラントだってデビッド・ボウイだってあんなにかっこいいじゃない(笑)。 というか本来かっこよくてナンボでしょうロックは(笑)。 だから秀樹さんのようなカッコイイ人にロックを歌って欲しい、もっとロックを歌えばいいのに、という当時の思いがずっと俺の中に残っていてね。 『MAD DOG』というアルバムを作ることによって、そういう思いが結実したんです。 TBSで「ザ・ベストテン」という番組が始まって、人気番組として定着していた、そんな時代ですね。 織田 そうだね。 それ以前「歌謡曲の時代」というのは、歌謡曲がメジャー、ロックはマイナーというイメージがあった。 秀樹さんはそのメジャーな「歌謡曲」の世界のど真ん中にいたよね。 1970年代後半になって世良公則&ツイストや原田真二、Char、さらにサザンオールスターズがロックをメジャーにしたことで、日本の音楽シーンの流れが大きく変わりましたね。 すごく仕事はしやすかったし、一緒に仕事をしてみて、やっぱりロックが良く似合うアーティストだと思ったし、さまざまな場面で「一流」を感じました。 さすがです。 織田 そうそう、後に結婚式にもご招待いただいたよね。 これぞ芸能界の結婚式というくらい招待客も披露宴も豪華だったよ。 俺はあまり芸能人の知りあい、友人もいないし、初めての体験だったなぁ「芸能界の結婚式」。 クィーンズの『ぼくらの七日間戦争〜Seven Days Dream』、ZARD『Good-bye My Loneliness』『不思議ね…』『もう探さない』、Mi-Ke『想い出の九十九里浜』『ブルーライト・ヨコスカ』の作曲=楽曲提供をされています。 この頃の忙しさはどうでしたか? 織田 最盛期に比べるとグッとペースを落として、休養もキチンと取りながら、イイペースで仕事が出来ていたと思うよ。 ちょこちょこ旅にも出掛けてたり、この年の後半からは自分のアルバムを作り始めたし、心身共にダメージを受けない程度の仕事量だったね。 遊び心溢れる楽しい曲です。 織田 純粋に遊びで作った曲だから、とても楽しめた。 それにしても良く売れたよね。 以前話したテレビ番組のホスト、ラジオのレギュラーを経験して、やっぱり俺には向いていないなと本当に思ったし、そもそも取材で喋るのも苦手なのよ(笑)。 メディアに露出することに苦手意識が強かった時期なので、当時はほとんどインタビュー取材も受けていないと思うよ。 記憶にあるのは雑誌「SPA」の取材を受けたこととTOKYO FMの番組に出たくらいかぁ?(笑)なんでその取材だけ受けたのかはまったく覚えていない(笑)。 年明け早々にブルースシンガー近藤房之助さんとの共演が話題になり、今もライブで多くのファンの皆さんに愛される名曲『Bomber Girl』をリリース。 3月織田さんご自身の作品としてオリコンシングルチャート初の1位を獲得、ミリオンセラーとなる『いつまでも変わらぬ愛を』が世に送り出されます。 織田 「いつまでも変わらぬ愛を」は俺の中で復活宣言なんです。 俺にとって本気でもう一度音楽に取り組むということはオファーに応えて、他人に楽曲提供するということではなく、大切なのは自分の曲、自分のソロアルバムを出すことだったんだ。 でも一方、自分や亡くなった兄貴もそうだったように音楽によって救われた部分がある。 自分たちがそうであったように、音楽によって救われる人が世の中にいて、自分の作る音楽が人の悲しみを癒したり、誰かの心を励ましたり、苦しみをやわらげることに少しでも繋がるのであれば、それはとても意味のあることだし、もしそれが俺に出来るのであれば、音楽は作り続けるべきだと考えた。 だからこの曲は「これからもう一度しっかりと音楽を届け続けます」という決意表明みたいなものです。 織田 「いつまでも変わらぬ愛を君に届けてあげたい」というフレーズに込めた思いは、「届けてあげたい」というからにはその相手、対象はそばにいないんです。 ある時期の俺のような、あるいはある時期の兄貴のような人間にとって俺の音楽が届く事で少しでも楽になってくれるなら音楽を作り続けたい、と思った。 だからこそ「届けてあげたい」ということだったんです。 ただそういうと大仰な感じがするし、CMソングとして採用されることも決まっていたので、ポップスとして成立して、しかも一般的な恋愛の歌としても受けとめられるように詞は書いています。 でも目の前にいない相手だからこそ届けたい、「届けてあげたい」という思いや意味は強いんだよね。 もちろん皆さんにはいろいろな受けとめ方をしてもらって構わないんだけど。 3年ぶりのライブツアーも再開されました。 この時のツアーはどういう感じでしたか? 織田 「ENDLESS DREAM」を完成させ、全国8ヶ所を回ったんですよ。 ブラスセクション、女性コーラス2名を含め12人の大所帯バンドでした。 キーボードはのちにDIMENTIONをやることになる小野塚くんや難波弘之さんにも参加してもらったし、サックスもまだ勝田くんだったね。 『SEASON』以降だいぶお客さんが変わったけれど、このライブでお客さんの層はまたかなり入れ替わった感じがしたよ。 1993年織田さんも作曲家として日本記録を樹立した年でもありますが、そのお話はまた次回伺うことにします。 よろしくお願いします。 織田 了解。 カラオケブームとも重なって、大きな波がやってくるんだけど、その辺はまた次回だね 笑。 どうぞお楽しみに シンガーソングライター/プロデューサー 1958年3月11日生まれ。 東京都出身。 中学時代をロンドンで過ごし、15歳で帰国。 高校時代にバンドを組みエレキギターを弾きはじめ、同時にオリジナル曲の創作をはじめる。 1979年にギタリストの北島健二(現FENCE OF DEFENSE、PEARL)らと共にプロデュースユニットWHYを結成し、アルバム『WHY』でデビュー。 それと並行し、プロデュース業も開始する。 そして1983年にアルバム『VOICES』でソロデビュー。 1986年、TUBEに提供した『シーズン・イン・ザ・サン』が大ヒットし、1990年には B. クイーンズ『おどるポンポコリン』で日本レコード大賞を受賞。 1992年には自身のシングル『いつまでも変わらぬ愛を』がミリオンセラーに。 1993年、オリコンチャート・ベストセラー作家部門において、12,404,990枚という史上最高のセールスで1位を獲得。 以後、相川七瀬等を中心に様々なアーティストのプロデュースを手掛ける。 日本音楽史上歴代作曲家売上ランキング第3位となる4,000万枚超えるセールス(CDシングル・2007 年3月現在オリコン調べ)を記録する日本を代表する作曲家。 2007年5月23日(水)自身14年ぶりとなるフルオリジナルアルバム「One Night」をユニバーサルミュージック(株)より発表。 vol. 13 静かな復活宣言・・・いつまでも変わらぬ愛を•

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「いつまでも変わらぬ愛を」の楽譜一覧

いつまでも 変わら ぬ 愛 を 楽譜

私が毎年、夏になると最もよく聴く曲。 織田哲郎の「いつまでも変わらぬ愛を」。 この曲は、1992年に、ポカリスエットのCM曲として大ヒットを記録した。 ポップなラブソングが流行したこの時代。 「いつまでも変わらぬ愛を」も、若い男性が夏に女性と出会い、一緒に海で戯れ、深い恋に落ちて、遠距離になっても、永遠の愛を心に誓うラブソングに聴こえる。 おそらく、世間は、そう受け止め、カラオケブームに乗って、多くの男性が女性に向けて歌ったはずだ。 その受け止め方は、間違ってはいない。 織田哲郎も、若い男女のラブソングにも聴こえるように仕上げたことは認めている。 しかし、単なる若い男女のラブソングなら織田哲郎自身が歌う必要があったか。 数多くの若い歌手がいたビーイングなら、誰かに提供してもよかったはずだ。 なのに、織田哲郎は、この曲を誰にも提供せず、自分自身で歌った。 その理由は、織田哲郎が自らの声で届けなければならない強い想いがあったからだ。 1990年、織田哲郎は、「おどるポンポコリン」を作曲したとき、画家に転向しようと考えていたらしい。 数々の音楽作品を生み出し、必死に働いた20代を終えて、織田哲郎は、もう音楽をやる必要がなくなったと感じ、放浪の旅を始めたそうだ。 しかし、音楽活動最後の記念に、と自分の娘を喜ばせるために引き受けた作品「おどるポンポコリン」で一気に風向きが変わる。 ミリオンセラーにレコード大賞受賞。 なんでこんなものが売れるんだ、と驚いた織田哲郎であったが、ここから作曲家としての評価がうなぎ上りになっていく。 もう音楽業界でやっていくしかない。 そんな想いと覚悟が「いつまでも変わらぬ愛を」を生み出したのだ。 そして、織田哲郎は、この楽曲に若くして亡くなった兄への想いを込めた。 歌い出しの「小さな週末の冒険」は、幼少の頃、週末に海へ兄と2人で出かけた思い出だ。 小さな子供2人にとって、海へ遊びに行くのは冒険だったのだ。 2人が遊んだあの夏の出来事は、形として何も残らない。 季節も、変わり続ける。 しかし、あの頃の純真さは、永遠に記憶として残り続けている。 あの頃に感じた愛情をいつまでも届けたい。 子供の頃に持った憧れは、誰しも大人になるにつれて記憶の片隅に追いやられてしまう。 それでも、あの純真な笑顔だけは永遠であってほしい。 主人公は、とめどなく夢想するのだ。 しかし、愛を届けたい兄はもうこの世にはいない。 織田哲郎の兄は、とても優秀で憧れの兄だったが、受験戦争のストレスで病気になり、治療薬の副作用で若くして亡くなってしまった。 そんな兄がひとときの救いとしていたのが音楽だった。 遠くに行ってしまい、もう今となっては届かないけど、想いを届けたい。 ならば誰に届けるのか。 それは、音楽に救われたあの日の兄に。 そして、音楽に生きる力をもらったあの日の自分に。 さらには、自分たちと同じように人生に苦しんでいる人々に。 心を込めた愛情とともに音楽を届けたい。 そんな強く温かい想いが詰まっているだけに、多くの人々の心に届き、心に沁みる歌になったのだろう。 この楽曲を作ったときの気持ちを、織田哲郎は、のちにインタビューでこう語っている。 「『届けてあげたい』というからにはその相手、対象はそばにいないんです。 ある時期の俺のような、あるいはある時期の兄貴のような人間にとって俺の音楽が届く事で少しでも楽になってくれるなら音楽を作り続けたい、と思った。 織田哲郎の兄への想い、そして、音楽活動に人生を捧げる覚悟が生み出した「いつまでも変わらぬ愛を」は、織田哲郎が数多く生み出したヒット曲の中でも格別な存在である。

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