木村拓也 捕手。 木村拓也(巨人)の万能ぶりが凄い!捕手出場の試合って?家族についても

一生懸命―木村拓也 決してあなたを忘れない

木村拓也 捕手

木村拓也 0 宮崎県立宮崎南高等学校-日本ハムファイターズ 1991 - 1994 -広島東洋カープ 1995 - 2006 -読売ジャイアンツ 2006 - 2009 2007年成績. 264 2本 29点 OPS. 650 両打ちで投手以外の全てのポジションを守るスーパーユーティリティプレイヤー。 愛称は勿論 「キムタク」 日本ハムに入団当初は捕手だったが俊足強肩を活かすために外野手に転向、広島に移籍後は遊撃手を主に守ると97年からスイッチヒッターに転向。 2000年に. 288 10本の成績を残し一番打者に定着。 広島のリードオフマンとして活躍していたが故障を切っ掛けに2005年頃から出場機会が減少。 出場機会を得るためにトレードを志願すると、何故か戦力の充実している巨人に移籍することになったが、スタメンも代打も守備固めもこなせるユーティリティとして活躍。 2009年に延長戦で捕手を使い切った際には緊急捕手として出場。 タイプの違う3人の投手をリードして無失点に抑え引き分けに持ち込んだ。 2009年オフに引退後そのまま巨人の一軍内野守備走塁コーチに就任したが、4月2日のノック練習中に突如意識を失い倒れ込み、搬送先の病院でくも膜下出血と診断され5日後に息を引き取った。 37歳没。

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木村拓也 10年ぶりの捕手に: ZAWA talk

木村拓也 捕手

語り継がれる木村氏の献身的なプレー 4月17日の中日・阪神戦で阪神の今成亮太内野手が元捕手の経験を買われ、約3年ぶりにマスクをかぶった。 今成は1点を追う9回に代打で出場。 その後、ベンチ入り捕手で残っていた岡崎にも代打・福留が送られた。 この時点で出場できる捕手登録の選手はいなくなった。 福留が同点タイムリーを放ったため、9回裏の守備が生まれた。 今成は埼玉の名門・浦和学院から2005年のドラフト会議で日本ハムに入団。 捕手登録だったが、阪神移籍後の2013年から打撃力を生かすため、外野手で起用され、2014年から三塁手としての起用も増えていた。 2015年に正式に内野手登録。 ムードメーカーとしても阪神にはなくてはならない存在となっている。 延長10回にサヨナラ負けをし、マスクをかぶった今成も悔しさを見せていた。 キャンプから有事に備え、準備。 ブルペンに入り、投球を受けるなど、捕手2人制の中、いつ訪れてもおかしくない出番に備えていた。 この日のように、登録選手以外の捕手起用で忘れてはならない存在がいる。 広島、巨人などで活躍し、2010年に他界した故・氏の献身的なプレーだ。 2009年9月4日の巨人-ヤクルト戦。 この時、巨人のベンチ捕手は3人制だった。 しかし、延長11回に3人目の捕手だった加藤が頭部死球を受け、緊急事態に。 ベンチに捕手がいなくなった。 この時、マスクをかぶったのが、木村氏だった。 広島在籍時の99年、4試合に捕手として出場。 10年ぶりの捕手だった。 木村氏が見せた瞬時の行動とは… 当然、ミットは持っておらず、同僚の鶴岡のものを借りた。 ブルペン捕手のマスク、ヘルメット、プロテクター、レガーズで出動。 仕事ぶりは見事だった。 3投手をリードし、最後は2アウト一、二塁のピンチを招いたが、野間口の151キロのストレートで空振り三振。 延長12回を無失点で切り抜け、執念のドロー。 勝ちに等しい引き分けで巨人はリーグ優勝に前進した。 当時の原監督も称賛。 コーチ陣も拍手を送った。 野球ファンならここまでの経緯は記憶に残っているだろう。 心に残してもらいたいポイントは木村氏の瞬時の行動である。 この試合、木村氏に捕手として試合に出られるように準備をさせたのは首脳陣ではなかったという。 もちろん、非常事態に起用する考えはあったが、木村氏は加藤の頭にボールが当たった瞬間に、もうダッグアウトからブルペンに走っていた。 「オレしかいない」、と。 チームの状況と自分の役割は一体何か、あらゆることを想定して準備をしていた。 内野の守備をしている時でも投手のボールの軌道や球種をチェックしており、頭に入っていた。 ベンチの西山バッテリーコーチが捕手・木村にサインを出すことになっていたが、無我夢中でベンチを見る余裕もなし。 投手陣には状況に応じて、捕手が捕球しやすいストレートだけでいいという指示も出されていたが、木村氏は経験を信じ、自分でサインを出していた。 変化球も見事に処理し、無得点に終わった相手打者は「リードが意外でした」と脱帽したほどだった。 現役生活は19年。 どんな時でもチームのことを考えて戦ってきたからこそ愛される存在だった。 プレーヤーとしての気概が感じられるワンシーンだった。 どんな時代でも、このような選手はチームにいてほしいものだ。 外部サイト.

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緊急捕手起用で思い出される故・木村拓也氏の気概

木村拓也 捕手

経歴 [ ] 高校時代はを務め、では1年で1勝、3年春には5打席連続、高校通算35本塁打の記録を持つ。 遠投120メートルの強肩捕手として鳴らしていた。 父親は旧・のを長く務めた地元の名士である。 日本ハム時代 [ ] オフ、捕手としてでに入団。 しかし、開幕時のの当時の60人枠から漏れ、一度は任意引退選手扱いとなったことがあった。 本職の捕手としての出場機会に恵まれなかったことから、他のポジションを探し、に俊足と強肩を買われて外野手に転向。 広島時代 [ ] オフに投手との交換トレードでに移籍。 の後釜候補として二塁手に就き、以後内野の守備も兼ねるようになる。 オフに転向に取り組み、よりスイッチヒッターデビューした。 同年から故障がちなの控えとしてに挑戦。 これが大きな転機となる。 、公式戦で遊撃手として守ったほかに代打の切り札として活躍、盗塁も14個記録してとしての役割を果たした。 には一時捕手への再転向案が浮上し、公式戦でも4試合捕手を守った。 この頃よりとなり、この年だけで投手・一塁手以外の全ポジションを守っている。 同年はのバックスクリーンにプロ初本塁打を放つなどバッティングも向上し、には一番打者として初の規定打席に到達しただけでなく、打率2割8分8厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残すなど10年目にしてブレイクした。 以降は3年連続して130試合出場するなど、チームにとって欠かせない存在となる。 は2番とのコンビでシーズン通じて1番打者で活躍し、自己最高の45打点をマークするも、 打撃にパンチ力がついたためか引っ張り中心のスイングが目立つようになり、加えてリードオフマンとしては三振が多い点も課題で、最も打席数の多い1番という条件を考慮しても、129個もの三振を喫している。 首脳陣からもその点を指摘されたこともあって、コンパクトかつ確実性を重視したバッティングスタイルを心掛けるようになる [ ]。 は東出の故障により、それまで二塁・中堅での起用が主であったが、遊撃での起用も増えた。 打撃面での成績は前年を下回った。 には東出が二塁へコンバートされることになったため、木村が遊撃へ回る案も出たが、の獲得により実行はされなかった。 しかし、東出から二塁のポジションを奪還し、自己最高の13本塁打を放っただけでなく、センター前に渋く打ち返すシュアな打撃にも磨きがかかり、打率も2割8分を超えた。 シーズン通して二塁を主に守っていたが、三塁や外野、シーツが退いた場合は遊撃の守備にもついた。 にはに選出(詳細は後述)。 の対横浜28回戦ではの前に(記録はセンターフライ)を喫している。 このシーズン以降は若手選手の急成長に加え、足や腰を故障するなどして、打撃や走塁で満足なプレーを残せず、スタメン出場の機会は著しく減少。 シーズン終盤にを発症し、手術を受けた。 は打順は一定しないもののほぼ二塁・遊撃を守る。 レギュラーに定着しかけていたが腰痛を発症し、8月上旬に離脱した。 1ヶ月後復帰したが、以後はスタメン起用は大幅に減った。 シーズン、新任の監督の若手起用の方針により開幕二軍スタートとなり、全く一軍での起用がなく、シーズン途中ではあったが本人の希望もあってに外野手との交換トレードで巨人へ移籍。 広島OBのは「広島は大きな損失をした」と木村の移籍を惜しんだ。 なお、広島時代の応援歌「足の速さは 誰にも負けない 風を切り走れ 木村拓也」のフレーズは、2007年シーズン後に広島に移籍してきた同姓の(2015年退団)に引き継がれた。 巨人時代 [ ] 「出番を求めてトレードを志願したのに、トレード先が戦力の充実している巨人だった」と、トレードに懐疑的な考えを抱いていたが、移籍後間もない同年の対戦()で早くも一軍登録され、4回表にでスタメンだったの代打で初出場。 試合途中にの負傷退場もあり、・としても出場し、いきなりの活躍を見せる。 シーズン終了後の契約更改では、代打出場での打率が高く代打の切り札として起用され、多くの選手の年俸が引き下げられる中、年俸5000万円(推定、以下同)から、200万円アップの5200万円となった。 シーズンは、二塁手として加入した新外国人のが開幕早々に離脱したこともあり、対右先発時の二塁手として活躍。 慣れた二塁での起用だったこともあり、この年の100試合以上に出場した二塁手の中ではの守備率. 994に次ぐ守備率. 993を記録し、守備能力の健在ぶりをアピールした。 2007年には偶に捕手練習をしていたこともあり、捕手2人制を敷いていた巨人では、正捕手のが欠場や途中交代した際はブルペンに入って、捕手としての出場に備えたことが数試合あった。 上記のようにチームの穴を埋める活躍を見せたことで、2007年シーズン終了後には、自身プロ入り後最高年俸となる6500万円で更改し、会見では笑顔も見せた。 また、は別の席で「今年、タク(木村の愛称)がいなかったらと思うとゾッとしますね」とコメントしている。 は開幕から2番、二塁に定着し打撃も好調で打率3割をキープし続け、中軸へのつなぎ役として重要な役割を果たした。 の対日本ハム戦では故障で欠場したに代わり3番でスタメン出場し、先制点となる本塁打を放ち勝利に貢献した。 試合後のヒーローインタビューでは「ジャイアンツは主力がいなければ弱いのかと思われたくない。 だから絶対に勝ちたかった」とコメントした。 の対ソフトバンク戦では延長12回に自身5年ぶり、巨人移籍後初となる逆転サヨナラ打を放った。 その日は、9回二死でが完投目前のから同点本塁打を打って追い付いた後の逆転劇であった。 にはでプロ野球251人目となる通算1000安打を達成するなど、シーズンを通じて正二塁手として定着し続けた。 こそ僅かに及ばなかったものの、自己最高の打率. 293を残し、更には広島時代の以来となるシーズン100安打、チームトップの26をマークするなど巨人移籍後最高のシーズンとなった。 現役最後のシーズンとなったは若手選手との競争に加えて、正二塁手候補として新たにが入団。 しかし、アルフォンゾやの不振で、前年同様2番セカンドで木村が固定された。 一時はリーグ打率4位をマークする好調ぶりだったが、4月16日から29日にかけて20打席近く無安打を喫するなど不振に陥り、4割近い打率も一気に2割台前半へと下降した。 不振の脇谷が徐々に調子を上げたこともあり、スタメンから木村が外れることも多くなった。 交流戦に入ると、5月19日の戦でシーズン第1号を含む3安打、6月16日の戦では から逆転3ラン本塁打を放つなど、復調の兆しを見せたものの、7月3日に一軍選手登録を抹消された。 ファームで結果を残し、7月14日には再登録された。 9月4日の対ヤクルト戦(東京ドーム)では、捕手登録選手が全て交代してしまっていたため、10年振りに捕手として出場した(詳細は後述)。 、広島時代の同僚・の引退試合(マツダスタジアム)では、8回からセンターの守備に就いていた緒方に向けて狙ったかのようにフライを放ち、アウトになったにもかかわらず笑顔をみせた。 シーズン最終打席は巨人最終戦の、対ヤクルト戦において7回代打で登場、結果は三塁ゴロだった。 この結果、木村の生涯打数は4000となり、生涯打率が公式記録として認められる範囲に入った。 では第1戦、第2戦、第4戦で先発出場するなど、最後まで試合の第一線で活躍し続けた。 第4戦の5回にから安打を放っている。 8回はに三振を奪われ、これが現役生活最後の打席となっている。 チームは4勝2敗で7年ぶりの日本一奪回。 木村にとっては初の日本一であった。 11月7日、日本シリーズ第6戦終了後に球団から今シーズン限りで現役を引退することが発表され記者会見を行った。 引退理由については詳細に語られなかったが、若手に出番を与えるために木村の出場機会が減ることを考慮した原が、コーチ就任を要請し、木村がこれを受諾した上でのことであることが後に語られている。 ファン感謝デーではとともに引退セレモニーを行い、息子のインフルエンザで会場に来られなかった家族に「パパは、がんばったよ」と挨拶をした。 なお、木村が愛用していたミット・グラブの手入れ道具一式はが譲り受けた。 2010年、巨人の一軍内野守備走塁コーチに就任した。 公式戦開幕前の3月4日に開催された2010年度入団新人研修に講師として招聘され、新人選手を相手に、自らがドラフト外で入団してから引退するまでの19年間の選手生活について、「プロとしてやれた秘訣」として「ハワイでのウインターリーグでと同室になり、イチローの野球に対する姿勢を見て自分の甘さに気づいた」ことを語り、「この世界で食っていくためには、自分自身を知って可能性を探ることも大事だ」と述べて新人選手を鼓舞した。 突然の死 [ ] 17時40分頃、での対広島東洋カープ1回戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れ込んだ。 直ちにその場で関係者や両チームの選手、救急隊によってで蘇生処置を受けた後、に緊急搬送された。 医師による検査などの結果、と診断され 、そのまま緊急入院して治療を受けていたが、意識不明の重体から容態は改善することのないまま、同年4月7日3時22分に入院先の病院で静かに息を引き取った。 37歳没。 なお、球団代表は同日の記者会見で「搬送された時点で、すでにレベル5 の最悪の状態だった」と状況を語った。 目立った前兆は無かったが、広島入り直前に関係者に対して「ひどい頭痛に見舞われて、2時間ぐらいしか眠れなかった 」「食べる量は変わらないのに痩せた」と話していたという。 生死をさまよう中、巨人の選手は木村の背番号「84」をつけて、巨人ファンは現役時代の応援歌を、広島ファンも広島在籍時の応援歌をそれぞれ熱唱し、「ガンバレ、ガンバレ、拓也」とエールを送り、復帰を祈っていた。 死去当日の4月7日は、開催されたプロ野球の全試合会場で半旗を掲揚したほか、試合前に黙祷が捧げられ、マツダスタジアムではかつて在籍した広島のオーナーらにより 、倒れた場所である本塁付近に献花が捧げられた(同球場では試合なし)。 また、生前所属していた巨人・広島の各選手と関係者、当日に巨人の対戦相手で広島時代に同僚だったの、、1軍野手チーフコーチ、広島の当日の対戦相手で、広島時代の同僚だったのなどがを付けて試合を行った。 巨人はこの日の対戦に勝利、は決勝本塁打(甲子園での本塁打は小笠原自身初)を放ち、木村に白星を捧げた。 通夜は4月9日、葬儀・告別式は4月10日にそれぞれ広島市内で営まれ、3000人以上の多くの関係者やファンが詰めかけ、別れを惜しんだ。 法名は「唯信」。 4月24日には東京都内で「お別れの会」が行われ、告別式に参列できなかった巨人の選手・関係者や、当日の試合のため東京入りしていた広島の選手も参列、改めて故人との別れを惜しんだ。 同日の対広島東洋カープ戦は「追悼試合」として開催され、この試合の始球式は当時小学5年生の木村の長男が、父が巨人でコーチをしていた時のユニフォームを着て務めた。 同日のインタビューで当時の原監督は、二人の仲が良かったことと同時にであったことも明かしている。 同日の試合では、巨人・が逆転満塁ホームランを打ち、7対3で巨人が勝利した。 その後は、巨人と密接な関係にあるで追悼特番が組まれ、他のテレビ局や野球雑誌などでも2010年シーズン中は木村に関する話題が幾度も取り上げられた。 球界関係者のコメントには人格面・技術面を高く評価していたものも多く、指導者・プロ野球OBとしての今後に大きな期待を掛けられていた木村の急逝は、球界とその中でも木村が多くの足跡を遺した広島・巨人両球団にとって大きな人的損失であった。 4月7日、引退後は巨人でコーチを務めた木村の死去からちょうど5年となったこの日、試合前に広島の緒方孝市監督と梵英心、巨人の原辰徳監督とがホームベース付近に献花し、手を合わせた。 両軍の選手らもベンチ前に並び、故人をしのんだ。 プレースタイル [ ] シーズン打率3割もゴールデングラブ賞も獲得していないが、 「俊足・強肩・巧打」と、攻守ともに優れたとして重宝された選手だった。 の代打成功率は4割を超え、かつて「代打の神様」と呼ばれたは 「代打で結果を残すは怖い」と絶賛した。 ユーティリティプレイヤーになっていく過程は、ドラフト外でのプロ入りから始まり、球団から目をかけてもらえない日々が続いたことで「チームで空いているポジションを探して、そこに入ろうとした」結果である。 ドラフト外のプロ入りについて「今で言うですよ」というコメントをしており、「後に続く人たち(育成選手を含む若手)の目標になりたい」と語っていた。 が巧く、無死や塁上にランナーがいない場面でも積極的にセーフティバントを試み、実際に成功させたこともあった。 に関しては、巨人移籍後は広島時代のように積極的に企図する機会は減ったものの、俊足は健在で守備範囲も広かった。 前述のとおり肩も非常に強く、外野守備時には度々矢のような送球を見せた。 広島で長期にわたってリードオフマンを任され、巨人移籍後も2番などの上位打線を打つ機会が多かった点にもこうした小技や堅実さが優れていたという理由がある。 広島に在籍していた頃は長打を意識するあまり、前述のように数が多いことが大きな課題であったが、巨人移籍後はその傾向が改善された。 得点圏での勝負強さや確実性のみならず、やも大幅に向上した。 小技も巧みにつかい、2009年の日本シリーズでは第1戦の7回表、と見せかけてわざと空振りし、相手バッテリーを油断させた隙に一塁走者を進める偽装スクイズを成功させた(直後、李のタイムリーで追加点)。 打席登場曲ははの「Slash Dot Dash」。 からの「Guerrilla Radio」を使用。 球界屈指のユーティリティープレイヤー [ ] 投手以外全てのポジションを守れる(投手も高校時代に経験あり)上にという器用な、言い換えれば采配を取る監督にとっては自在に使える便利な選手であった。 特に巨人移籍以降は正二塁手としての出場も増えた。 途中出場であっても、二塁手で先発している選手を他のポジションに移し、二塁を守ることが多かった。 本職は元々は捕手で、プロ入り後は主に二塁手・中堅手であるが、プロでは投手以外の全てのポジションを経験した。 本職以外のポジションでも、堅実にこなすことができるのが持ち味であった(ただし捕手を守った機会は他のポジションと比べて極端に少ない)。 1999年以降内野を守る機会が多くなったが、に内野手登録となるまでは外野手として登録されていた。 守った機会は少ないが遊撃の守備も非常に上手く、俊足強肩を生かした守備は本職が遊撃手である選手と遜色ない。 一方で本人が「センターラインより左のポジションは自信がない」と言う通り、三塁の守備は不得意としており、巨人移籍後は終盤に二塁手以外にチームの都合から不慣れではあるが一塁手の守備要員としての出番が増えた。 木村のぶりを表す象徴的な出来事が、の選出と、の対東京ヤクルトスワローズ戦17回戦での急遽捕手としての出場である。 巨人時代の監督からは絶大なる信頼を受けていた。 移籍当初の巨人はFA制度を利用しての補強が相次ぎ、その影響で世代交代・若手の育成が急務だった。 原は木村に同じく巧打・堅守で知られたのような役割を期待していた。 木村が守備で緩慢なプレーでミスをした際、すぐ交代させるなど、木村には若手への見本となるためのハードルを高く敷いた。 木村もこれによく応え、野手のチームリーダー格として若手を牽引した。 木村が引退時の巨人は小笠原や、などまだ他球団からの移籍選手に依存していた。 現役最晩年に最も活躍し、メディアでも注目を浴びた非常に珍しい選手である。 また、他球団の主力選手で巨人に移籍した選手は結果を残せぬまま退団する選手も多かったなか、巨人移籍後も攻守にわたって重宝され、原巨人のリーグ3連覇に大きく貢献した。 引退後すぐに巨人のコーチ就任を打診されるなど、他球団出身の選手としては異例の待遇を受けた。 原は2012年のリーグ優勝後、「ようやく拓也にいい報告が出来る」と振り返った。 アテネオリンピック日本代表として [ ] アテネオリンピックでの野球日本代表は各チームから2名以内の選出という申し合わせ事項があり、広島からエースのと共に選出された選手は、当時連日スタメンに名を連ねていたやではなく、やと交代でセカンドやセンターで出場する機会の多かった木村だった。 (を含めた野球の国際大会)では、ベンチ入り可能な選手人数が非常に少ないため、複数のポジションをこなせる選手は重宝された。 アテネオリンピックの公式記録集では日本代表で唯一、ユーティリティープレーヤーである「U」の表記となっている。 試合出場は予選リーグの対戦(8回からとの交代でレフトを守る)と、3位決定戦となった対戦(8番レフトでフル出場)の2試合にとどまったが 、試合での攻守のみならず、雑用係やブルペンキャッチャーとしても活躍し、からは「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と称えられた。 2009年9月4日、対ヤクルト17回戦 [ ] 、で行われた対17回戦。 巨人の先発はのため、相性を考慮して先発捕手は、正捕手のは一塁手として先発出場した。 阿部は7回表の守備で途中交代、鶴岡も9回裏に木村が代打に起用されて退き、9回表から唯一残った捕手であるが出場。 木村は二塁の守備に付いた。 試合は9回裏に巨人が同点に追いついて延長戦に突入。 しかし、11回裏に打席に入った加藤がから頭部に死球を受けて退場し、次の12回表を守る捕手がいない、という緊急事態になった。 この時、広島在籍時に捕手経験があった木村に白羽の矢が立った。 監督は捕手起用のために木村を探したが、加藤が退場する前から出番を感じた木村は、すでにブルペンに行き、捕り慣れていない変化球を捕球する練習を行っていたという。 木村は、何時でも、どのポジションでも出られるように5種類のグラブとミット(一塁手用ミット、二塁手・遊撃手兼用グラブ、二塁手・遊撃手兼用予備グラブ、三塁手用グラブ、外野手用グラブ)を常に持ち歩いていたが、捕手用ミットは持っていなかったため、「一番柔らかかったから」として鶴岡のミットを、やなどはブルペン捕手からそれぞれ借りて「急造捕手」としてグラウンドへ出た。 捕手としての出場は広島時代の1999年7月6日の横浜12回戦に同じく「急造捕手」として出場して以来10年ぶり(3716日ぶり)であった。 12回表に救援登板したには、初球にを投げさせるなど自らサインを出し 、を中飛に打ち取る。 「豊田さんは直球とフォークしかないから。 体を張って止めればいい」と割り切っていた木村だったが 、バッターのところでに投手交代。 「球種が多くて大変でした」と語りながらも、1球目シュート、2球目カーブとバッターの裏をかく配球 で入り、最後にスライダーで青木を三振に仕留めた。 原はベンチを飛び出し、戻ってきた「捕手・木村拓」に抱きつくように何度も肩をたたいて活躍を讃えた。 背番号 [ ] 木村は現役時代の多くを過ごした広島・巨人では背番号「0」を付けて活躍した。 前述の捕手としての出場も含めてその姿が有名になったが、にへ入団した際は「59」、に広島へ移籍した当初は「41」だった。 にが現役を引退すると、翌年から木村は高が背負っていた「0」を付け、巨人移籍直後はトレード相手となったの背番号「58」を引き継いだが、翌年から再び背番号「0」となり、引退まで背負った。 現役引退後、巨人のコーチとして就任し、死去するまでの間つけていた背番号は「84」だった。 人物 [ ] 木村拓哉との関係 [ ] 広島時代にはが、巨人移籍後はが同チームに所属していたため、実況や場内アナウンスでは必ず「 きむらたくや」とフルネームで呼ばれており、スコアボードにも「 木村拓」と表示された。 コーチ就任後もがコーチとして在籍している関係上「 木村拓コーチ」と表記された。 同姓同名で人気アイドルグループのの愛称「 キムタク」にちなんで木村拓也を「 球界のキムタク」や「 鯉のキムタク」と紹介することも多かった。 また、2人共同じ1972年生まれであり『』の特別企画『同学年』で対談したことがある。 その席で拓哉は「(自分自身は)野球はあまり詳しくないが、自分と同じ名前のプロ野球選手がいることは知っていました。 (上記の理由で)「きむらたくや」「きむらたくや」といつもフルネームで(拓也が)呼ばれるじゃないですか。 自分の事じゃないんだけど、何か「よしっ」という感じで嬉しく思っていました」と語り、一方の拓也は「知名度は(拓哉と)全然違うと思いますけど、プロ野球選手として(SMAPの)木村さんと同じぐらい名前を知ってもらえるようになろうと、ある意味目標にしてましたね」と語っており、これ以降2人の間で交流が生まれた。 また、この席で拓也は、収録後に行われる巨人-広島戦(、当時は広島在籍)で本塁打を打つことを拓哉に約束。 宣言通り、巨人、から左越えに本塁打を放ち、それを聞いた拓哉が大喜びするという姿が見られた。 拓也が緊急入院した時、主演ドラマ「」のロケに参加していた拓哉は「まだ試合終了にはなっていない。 奇跡を待ちたい」とエールを送った。 しかし、その願いは届かなかった。 その後、拓也の告別式には献花も行った。 同郷関係 [ ] 巨人軍の球団代表を務めたは同じ宮崎南高等学校出身で、木村の先輩である。 アナウンス部長のとはの同級生である。 伊賀はにアナウンサーとして在職中に平日のを担当しており、4月2日に木村が倒れたニュースをローカルニュースが始まる一分前に東京からのニュース速報で知り、まさに予期せぬ突然の出来事だったという。 12月には木村の呼びかけで同窓会を行う予定であったという。 テレビ出演 [ ] 『』(以下ズムサタ)の人気コーナー「プロ野球熱ケツ情報」に巨人移籍の2006年から多数出演。 進学校出身ということもあり、博学多彩な知識を披露してコーナーを盛り上げ、同じ他球団出身の大道と共に常連出演者となった。 2010年4月10日の放送では、「ありがとう 木村拓也」と題して熱ケツ情報の名場面を振り返る追悼企画をCMを挟まずに放送した。 またズムサタでの4年間の取材をまとめたドキュメンタリー『一生懸命-木村拓也・パパが残してくれたモノ-』が同年7月25日にで放送された。 また、同じく日本テレビ『』での野球ものまねでは現役選手ながら他の選手とともによく出演していた。 2010年4月11日の放送では番組の最後に本番組出演時のVTR 2008年12月12日収録 をバックに「木村拓也さん ありがとうございました」という追悼コメントを出した。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 6 15 13 3 3 0 1 0 5 1 1 0 1 0 1 0 0 3 0. 231. 286. 385. 670 29 18 16 4 3 0 0 0 3 2 0 1 0 0 2 0 0 3 0. 188. 278. 188. 465 83 41 39 6 8 3 0 0 11 0 2 0 1 0 0 0 1 10 1. 205. 225. 282. 507 7 7 7 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0. 000. 000. 000. 000 30 15 14 5 2 0 0 0 2 0 4 2 1 0 0 0 0 4 0. 143. 143. 143. 286 77 88 78 17 18 1 0 0 19 5 8 1 2 0 8 0 0 25 0. 231. 302. 244. 546 86 150 131 20 32 5 2 0 41 8 14 2 5 1 13 0 0 27 0. 244. 310. 313. 623 90 231 205 23 51 6 1 3 68 13 6 2 15 1 10 0 0 39 10. 249. 282. 332. 614 136 620 572 74 165 34 2 10 233 30 17 15 11 1 33 1 3 80 4. 288. 330. 407. 737 137 630 551 78 145 23 5 7 199 45 18 11 16 2 61 1 0 129 5. 263. 336. 361. 697 130 449 412 46 98 18 1 5 133 27 6 1 13 1 20 0 3 66 7. 238. 278. 323. 600 131 537 473 64 135 19 0 13 193 38 14 6 26 3 30 4 5 95 6. 285. 333. 408. 741 85 183 161 21 40 8 2 2 58 12 4 0 4 1 17 0 0 32 2. 248. 318. 360. 679 111 354 313 32 77 9 0 2 92 16 3 5 13 0 26 2 2 41 9. 246. 308. 294. 602 62 169 146 12 38 7 0 0 45 7 0 2 5 1 16 0 1 32 2. 260. 335. 308. 644 113 338 311 26 82 15 2 2 107 29 4 4 5 2 17 2 3 64 6. 264. 306. 344. 650 124 432 372 46 109 21 0 7 151 31 1 3 26 2 27 1 5 61 3. 293. 347. 406. 753 86 210 186 17 43 8 0 2 57 16 1 0 8 2 12 0 2 38 2. 231. 282. 306. 589 通算:18年 1523 4487 4000 495 1049 177 16 53 1417 280 103 55 152 17 293 11 25 752 57. 262. 315. 354. 670• 各年度の 太字はリーグ最高 通算守備成績 [ ] 5 12 1 0 0 1. 000 - - - - 26 13 0 0 0 1. 000 - - - - 80 50 4 0 0 1. 000 - - - - 3 3 0 0 0 1. 000 1 2 1 1 1. 750 - - - 17 8 0 0 0 1. 000 - - - - 38 15 0 0 0 1. 000 10 17 16 1 4. 971 - - - 35 40 3 0 2 1. 000 10 9 20 1 4. 967 4 6 12 2 2. 900 - 1 1 0 0 1 1. 000 25 17 0 1 0. 944 44 58 106 6 26. 965 9 5 11 3 2. 842 4 1 5 1 0. 857 - 50 83 3 2 0. 977 118 237 365 14 81. 977 - - - 122 200 7 3 1. 986 34 58 80 4 12. 972 - - - 36 49 1 0 0 1. 000 62 71 138 3 18. 986 46 48 102 2 22. 987 9 0 6 0 2 1. 000 - 11 8 0 0 0 1. 000 110 235 339 9 63. 985 2 0 0 0 0 - 13 7 15 4 1. 846 - 43 31 0 0 0 1. 000 21 20 33 2 10. 964 1 1 0 0 0 1. 000 10 1 9 4 0. 714 - 12 10 1 0 1 1. 000 81 134 235 7 38. 981 29 15 26 2 3. 953 - - 31 35 0 0 0 1. 000 19 29 33 3 8. 954 - 7 3 10 0 2 1. 000 - 3 0 0 0 0 - 92 195 232 3 54. 993 - - 2 3 0 0 0 1. 000 2 2 0 0 0 1. 000 103 166 213 5 40. 987 - 18 8 22 2 2. 938 20 47 5 1 4. 981 - 64 115 126 3 21. 988 - - 16 34 2 0 1 1. 000 通算 539 576 20 6 4. 990 769 1346 1937 62 380. 981 91 75 151 9 29. 962 61 20 67 11 7. 888 39 85 7 1 5. 989 企 図 数 許 盗 塁 4 10 2 0 1 1 1. 000 4 4 0. 000 1 2 0 0 0 0 1. 000 0 0 0 - 通算 5 12 2 0 1 1 1. 000 4 4 0. 000 表彰 [ ]• 特別賞 (2010年) 記録 [ ]• 出場:2回(2000年、2001年) 初記録• 初出場:1992年9月29日、対21回戦()、7回裏にの代打として出場• 初打席:同上、7回裏にの前に三振• 初安打・初打点:1992年10月3日、対西武ライオンズ23回戦()、7回表にから右越適時三塁打• 初先発出場:1992年10月4日、対西武ライオンズ24回戦(西武ライオンズ球場)、9番・として先発出場、3打数1安打• 初盗塁:1992年10月13日、対26回戦()、9回表に二盗(投手:、捕手:)• 初本塁打:1999年6月1日、対7回戦()、1回裏にから中越ソロ 節目の記録• 59 (1991年 - 1994年)• 41 (1995年 - 1998年)• 0 (1999年 - 2006年6月7日、2007年 - 2009年)• 58 (2006年6月8日 - 同年終了)• 84 (2010年)• 23 (アテネ五輪予選時)• 27 (アテネ五輪代表時) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2007年1月23日. の2007年1月25日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 2009年12月15日. の2009年12月18日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 2009年11月8日. の2009年11月9日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 讀賣巨人軍公式サイト(Internet Archiveより) 2018年4月6日閲覧• スポーツ報知. 2010年4月2日. の2010年4月5日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 YOMIURI ONLINE. 2010年4月7日. の2010年4月10日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 ほぼ回復の見込みがない状態。 2010年4月3日. の2010年4月7日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 産経新聞社. 2010年4月3日. の2010年10月31日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 (痩せたという内容は2ページ目)• 松田オーナーは「巨人でのコーチ経験を積んだ上でコーチとして広島に戻ってきてほしかった」とも語った。 中国新聞. 2010年4月8日. 2010年4月8日閲覧。 nikkansports. com. 2010年4月8日. 2010年4月8日閲覧。 朝日新聞 2009年12月18日• 2004年8月24日. 2011年11月21日閲覧。 2009年9月5日. 2013年11月9日閲覧。 2010年9月. 2013年11月9日閲覧。 SANSPO. COM. 2010年4月5日. の2010年7月25日時点におけるアーカイブ。 2013年4月13日閲覧。 - テレビ長崎アナウンサーズ・伊賀透浩ブログ2010年12月25日 関連項目 [ ]• 以下、在任中に逝去したプロ野球コーチ• 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構.

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