般若心経歌詞。 般若心経ロック 歌詞「クワガタP,vip店長」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】

般若心経とは|全文の意味が分かると面白い!般若心経の現代語訳と意味解説

般若心経歌詞

仏説・摩訶般若波羅蜜多心経 ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみったじ 照見五蘊皆空 しょうけんごうんかいくう 度一切苦厄 どいっさいくやく 舎利子。 しゃりし 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき 受・想・行・識・亦復如是。 じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ 舎利子。 しゃりし 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。 ぜしょほうくうそう、ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん 是故空中、無色、無受・想・行・識、 ぜこくうちゅう、むしき、むじゅそうぎょうしき 無眼・耳・鼻・舌・身・意、 むげんにびぜっしんに 無色・声・香・味・触・法。 むしきしょうこうみそくほう 無眼界、乃至、無意識界。 むげんかい、ないし、むいしきかい 無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。 むむみょう、やくむむみょうじん、ないし、むろうし、やくむろうしじん 無苦・集・滅・道。 無智、亦無得。 むくしゅうめつどう、むちやくむとく 以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、 いむしょとっこ、ぼだいさった、えはんにゃはらみったこ 心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖 しんむけげ、むけげこ、むうくふ、 遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。 おんりいっさい、てんどうむそう、くきょうねはん 三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。 さんぜしょうぶつ、えはんにゃはらみったこ、とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、 こち、はんにゃはらみった、ぜだいじんしゅ、ぜだいみょうしゅ、ぜむじょうしゅ 是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。 ぜむとうどうしゅ、のうじょいっさいく、しんじつふこ 故説、般若波羅蜜多呪。 こせつ、はんにゃはらみったしゅ 即説呪曰、 そくせつしゅわつ 羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。 ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか 般若心経 はんにゃしんぎょう 1300年前に生まれた般若心経ですが、その賞味期限はなく、いつの世でも新しい刺激と安らぎを人々に与え続けています。 現在の日本でも、本屋さんで般若心経の解説本をいくつも見かけますし、流行りの朝活でチョイスされることも多いお写経でも、お題となるお経は般若心経です。 また、般若心経をロックテイストな歌詞にして歌った動画が注目されたこともあります。 生活から仏教が遠退いた今でも、般若心経の魅力は衰えていないのです。 また、深みのある内容が故に読んだ人が受け取る印象も千差万別です。 誰にとっても人生の芯について問いかけてくる般若心経は、たとえ時代が移り変わっても頼られる存在なのかもしれません。 悟れましたか? そうかな……人生も、般若心経も、そんな単純じゃないでしょ…… というお声が聞こえてきそうです。。。 ですよね。。。 その通りです。。。 10秒ではなくちゃんと訳したバージョンもあるよ!を見てね 般若心経は、「悟り」について語っておきながら、肝心の「 HOW」については具体的には教えてくれません。 教えてくれるのは、「悟り」の仕組みとその根拠です。 そして、「 HOW」については、「教えた仕組みを踏まえて各自の方法で頑張ってね!」ということなんだと思います。 そこが一番難しいのに。。。 ということは、10秒の中では端折られてしまった「悟り」の仕組みと根拠について、丁寧に読んでいく必要がありますね。 そして、どんな環境下で、どんな時代背景で、般若心経が生まれ、必要とされてきたのかについて考えてみることで、もう少し深めて理解できるのではないかとも思います。 ですから、まずは般若心経が生まれたときのことについて少しお話して、それから中身を丁寧に読み解いていきたいと思います。 般若心経の歴史・誕生の経緯 般若心経とはいったい誰が生み出した言葉なのでしょうか。 昔々、唐の国(7~10世紀の中国)に陳褘というお坊さんがいました。 今では戒名の「 玄奘 げんしょう 」と呼ばれていますが、「 三蔵法師 さんぞうほうし 」という名前の方がより親しまれています。 『 西遊記』の主人公ですね。 三蔵法師は、西遊記ではインドまで個性的なお供と一緒に旅をする冒険記のように描かれますが、彼の実際のお仕事は「訳経僧」、つまり仏教のオリジナルのお経をインドの昔の言葉であるサンスクリット語から漢訳するというものでした。 三蔵法師は非常に優れた訳経僧として名を馳せ、「訳聖」と称されるほど敬われるお坊さんです。 彼はお経の翻訳のみならず、西遊記のモデルにもなったように自らインドに出向いて仏教を学ぶ素晴らしい研究家でもありました。 そのようなストイックに突き詰めた姿勢が実を結び、それまでの翻訳されたお経の誤りを訂正し、正しい仏教思想を唐に持ち帰ることができたのです。 そして、彼が唐に持ち帰った 657部のお経の中にあり、中心的な位置を占めた 「 般若経」を 漢訳し、さらにそのエッセンスを取り出して300字足らずに凝縮したものが、般若心経なのです。 般若心経の素となった般若経とは、「般若波羅蜜」について説かれた膨大なお経の総称です。 「 般若」とは、仏教において迷い多きこの世界(此岸)から、悟りの世界(彼岸)に到達するため、つまり悟りに至るための「智慧」を意味します。 また、「般若波羅蜜」とは、その智慧を得るためにすべきこと。 そして、心経の「心」には、般若波羅蜜の「 核心」を意味するという説と、仏様を奉るための言葉である「心真言」を意味するという説があります。 ですから、般若心経とは、 「 悟りの世界に赴くために必要なことの核心を説くお経」 または、 「 悟りの世界に赴くために必要なことを教えてくださる仏様を奉る言葉の書かれたお経」 ということになるでしょう。 ちなみに、「般若」と聞くと、角の生えた怖い能面を思い出す方もいらっしゃるでしょう。 しかし、あのお面やあの表情を「般若」というわけではありません。 とある説では、般若坊というお坊さんが作ったお面だから、とか、物語の中で般若のお面のモデルになった女性の生霊がお坊さんの読む般若経によって退治されたから、とか…… いずれにしても「悟りに至るための智慧」と般若のお面は、意味の上ではあまり関係はないようです。 皆さんは仏教の考え方は、どのような時代背景から生まれたと思いますか? 死や病、人間関係の不和や階級制度……昔、インドで、お釈迦様は人々が直面する数多くの「苦しみ」をご覧になられました。 科学技術や社会制度が発達した現在では対処の方法がある問題でも、当時はただ指を咥えて苦しみに耐える他はありませんでした。 そんな時に、お釈迦様は数多くの苦しみから「解き放たれる方法」、それも誰もがその気になれば「実践できる方法」を発明するのです。 仏教における空 くう とは その一つが「 空(くう)」という捉え方。 仏教では、「 この世に存在している物事はすべて人が認識しているから存在しているのであって、自分自身の心で思っていること以外に存在するものは何もない」と、衝撃的なことを言うのです。 私たちが生きる今では科学技術や社会制度が発達し、当時の苦しみのうちのいくつかは解消させることができるようになりました。 なぜ天災が起こるのか。 なぜ病気になるのか。 なぜ争いが起きるのか。 そのメカニズムを知ることができます。 しかし、生きることの「苦しみ」が無くなったわけではありません。 「苦しみ」から解き放たれる術を昔の人々より知っている私たちだからこそ、持てる術を駆使しても逃れ難い「苦しみ」にはより臆病になりがちかもしれません。 現代でも般若心経や仏教の思想が人々の琴線に触れるのは、お釈迦様が発明し優秀なお弟子さんたちがまとめ上げた数々の「発明品」がいかにオールマイティーであるかということを示しているのかもしれません。 宗派による般若心経の違いはある? オールマイティーがゆえ、どんな宗派にも愛された般若心経。 今の日本には様々な仏教宗派があります。 皆さんのお家の宗派では、般若心経はお読みになりますか?各宗派の般若心経をざっくりと見渡していきましょう。 こちらにざっくりとまとめてみました。 般若心経の意味を現代語でわかりやすく解説してみる(部分解説編) それでは、般若心経の中身を見ていくことにしましょう。 ただここに書いてしまうととってーーも長くなってしまうので、別のエントリーで分けてご紹介しています。 繰り返しにはなってしまいますが、超ざっくり言うと この世の物事は全部一人ひとりの頭の中であれこれ思うことで存在するので、あれこれ思わなければ全てのものは存在しない。 ということは、いくら生きることが苦しくても、その苦しみも存在しないし、気持ちは平穏そのものなんだ。 それが悟りってもんだよ。 みんな悟ろうぜ。 …です。 しつこい! 完璧に般若心経を理解したい!深いところまで般若心経を理解したい!という人はこちらのエントリーを読んでくださいね。 写経を実践することで 心がすっきりする効果があると老若男女幅広い年代で手軽に写経を行う人が増えています。 般若心経を書き写す写経はもともとインドでお釈迦様のありがたい教えを多くの人に広めようとお釈迦様のお経を書き写していたことから発展していき、日本には奈良時代の頃から仏教の布教とともに盛んに写経が始まってきました。 最初はお寺や仏教の専門家だけによって親しまれてきましたが、次第に貴族や豪族そして江戸時代になると一般大衆にも写経を行う文化が広がっていきました。 現代においては写経セットが市販されたり、日本全国の多く寺院でも写経体験が開催されていたり、身近な存在になってきました。 筆先に全身全霊を注いで、般若心経の文字を一文字一文字丁寧に書いていくことで般若心経を書き写すことで精神修行をすることができます。 で詳しく書いていますのでご参考ください。 般若心経を読む時はできるだけ声を整えて読もう! 般若心経はお経を唱えることこそが大事なことであって読み上げる声はなんでも大丈夫!ただそれはその通りなのですが、どんな声でもいいかといえば、そうでもありません。 お経を読むのに、嘆き悲しむような声や、調子はずれの声、弱々しくか細い声、怒ったり叫んだりするような声は、ふさわしくないとされています。 もっともなことです。 背筋を伸ばし、首や肩の力を抜いて、喉を開くようにして声を整え、適度な大きさで読んでみましょう。 そして、できればお腹に力を入れてください。 お経を唱える時になぜ木魚を叩く? 般若心経に限らず、お坊さんがお経を唱えているときには、木魚を叩いている姿をイメージする人も多いと思います。 なぜ木魚や鐘、太鼓などをたたいてお唱えするのでしょうか? お坊さんもはじめは師匠の後について少しずつ唱えながら、全文を覚えるということをしています。 その際に弟子となる僧侶は大勢で唱えますから、リズムをとる打ち物の音が入ると、そろいやすいということがあります。 打ち物とは、今でいう打楽器のことです。 とくに般若心経は、祈祷のための読経や修験道では、大太鼓などをドンドンと叩きながら唱えるということがよく行われます。 修験道とは山にこもって修行し、霊験(ご利益)を得る日本独特の宗教のこと。 現代の祈祷では、たとえばスポーツ選手の滝修行や護摩行などがわかりやすい例かもしれませんね。 護摩行の火を前に祈祷師、煩悩を焼き払おうとつとめる行などのことです。 現代の般若心経カルチャー You Tube動画ライブラリ 現在では様々な解釈で般若心経が描かれています。 般若心経をひとつの歌詞として捉え、様々なクリエイターたちが般若心経を楽しんでいます。 youtubeにアップされた動画から厳選して面白いなと思ったものをご紹介したいと思います。 【MV】般若心経 cho ver. 動画も京都・天龍寺で撮影され、静寂の中に響き渡る般若心経の唱えるお坊さんであるボーカルと、それにあわせてコンテンポラリーダンスを踊るダンサーさんがまたすばらしく、般若心経っていいなぁと思わせてくれる映像です。 万人におすすめ。 さいごに とても長くなってしまいましたが、般若心経の現代日本語訳を試みてきました。 たった300字足らずの原文ですが、そこには仏教が積み上げてきた数多くの知識が盛りだくさんで、読み解こうとこんなに紙幅を要してしまうのですね。 私自身も改めてしっかりと読み直してみて、三蔵法師が心の底から、人々のために仏教の良い所を余すことなく伝えたかったんだなと実感することができました。 般若心経は、読む人によって、その読み解き方や感じ取るもの、そして活かし方が十人十色であることが、良いところなんじゃないかなと、勝手ながら思います。 みんな、それぞれ置かれている時間や場所や状況が異なります。 学んできたことも、糧にしてきたこともそれぞれ異なります。 でも、みんな大なり小なり悩み、不安に陥り、立ち止まります。 そんな時に般若心経に触れてみて、いつでも自由な学びが得られること、それが、このお経が1300年に渡って人々に寄り添い続けてこられた所以なのかもしれません。 あなたは、どんな「般若心経」を読みましたか。

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初音ミクアレンジ「般若心経ロック」 (sm11998050) [動画記事]

般若心経歌詞

般若心経は、数あるお経の中でも最も有名なものの1つです。 同時にとても短いことから日常的に唱えるには最適といえます。 とはいえ、難しい漢字や読み方も含まれているため、初見で簡単に読めるものではありませんし、ただ読むだけではなく、意味も理解しておくべきでしょう。 ここでは、般若心経の全文と読み方、簡単な意味を紹介します。 【目次】 般若心経の全文と読み方 まずは、般若心経の全文を紹介します。 ふりがなを頼りに、一度最後まで読んでみましょう。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 (ぶっせつ まか はんにゃ はらみた しんぎょう) 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 (かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 (どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう) 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 (くうそくぜしき じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう) 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 (ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう) 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 (むしき むじゅうそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう) 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 (むげんかいない しむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん) 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 (ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく) 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 (いむしょうとくこ ぼだいさつた えはんにゃはらみったこ) 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 (しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 (くうぎょうねはん さんぜしょうぶつ えはんにゃはらみったこ) 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 (とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった) 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 (ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ) 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 (のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ) 即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 (そくせつしゅわつ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶 般若心経 (ぼじそわか はんにゃしんぎょう) 般若心経は仏教の真髄をまとめたもの 般若心経は、正式には「般若波羅蜜多心経」といいます。 「般若」は智慧(ちえ)、すなわち物事の道理を見抜く力という意味です。 「波羅密多」は悟りを得て彼岸(浄土)へ行くこと、「心」は重要な部分という意味を持っています。 つまり、仏教で最も重要な悟りを得る方法の、最も重要な箇所をまとめたものなのです。 般若心経の大元とされる「般若経」は、大乗仏教の経典の中でも特に古い部類で、紀元前後~1世紀ごろにはすでに成立していました。 これをかの玄奘三蔵が西方から中国に持ち帰り、完訳・集大成したのが「大般若波羅蜜多経」です。 しかし、このお経は約600巻というとてつもなく長いものであり、唱えるのは簡単ではありません。 そこで、600巻の内容をわかりやすくまとめたのが般若心経だと考えられています(否定説もあり)。 このような経緯から、般若心経はわずか262文字の中に仏教の真髄が説かれているとされ、「天下第一の経典」とまで呼ばれました。 般若心経は仏教の各宗派でも取り入れられ、独自の解釈が試みられている他、日常の読誦や写経にも使われています。 ただし、浄土真宗は「浄土三部経」、日蓮宗は「法華経」を経典としているため、般若心経を唱えることは基本的にありません。 般若心経は物語形式で「空」の思想を説く 般若心経を読んでも、ほとんどの方は意味がまったく理解できないことでしょう。 実は般若心経は物語形式になっていて、お釈迦様の十大弟子の1人である舎利子(シャーリプトラ)と、観自在菩薩(=観音菩薩、観音様)との対話の中で仏教の教えを説いているのです。 特に、あらゆるものには実体がないという「空(くう)」の思想について深く説いています。 観音様は修業によって、五蘊(ごうん)には実体がないと見極めました。 五蘊とは、人間を構成する5つの要素である色(肉体)、受(感覚)、想(想像)、行(心の作用)、識(意識)のことを表します。 この考えに至って、観音様はこの世のあらゆる苦しみから解放されたのです。 さらに観音様は、舎利子に対して「この世のあらゆるものに実体がないということは、生まれることも滅びることも、汚れることもきれいになることも、増えることも減ることもない」「老いも死もなく、老いや死がなくなることもない。 苦しみやその原因もないし、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もない」と説いています。 このような真理に目覚めてこそ、心安らかでいられるというわけです。 今回のまとめ は、短い中にも仏教の教えがしっかりと詰まっています。 1回3分弱で読めてしまうので、一度読み方を覚えれば、唱えるのはまったく負担になりません。 意味を理解し読み方をマスターして、毎日朝夕に唱えてみてはいかがでしょうか。 きっと心が晴れやかになることでしょう。

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初音ミクの般若心経ポップの歌詞をひらがなでお願いします。

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魔訶般若波羅蜜多心経 とらわれない こころ かたよらない こころ こだわらない こころ ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空(くう)のこころなり これは、薬師寺の管主であった故・高田好胤(こういん)師の言葉です。 般若心経は、よく読まれるお経ですが、その内容はあまりよく知られていません。 短いがゆえに難しいのです。 般若心経をみますと、漢字で書かれています。 お経はお釈迦さまの言葉ですので、インド地方の言葉で書かれているはずですが、これには理由があります。 唐の時代、玄奘(げんじょう)という若いお坊さんが遠くインドを目指して旅をしていました。 仏教の本場から経典を持ち帰るためです。 インドに着いた玄奘は、ぼう大な数の経典をそのまま書き写して唐の都に戻り、自分の国の言葉に翻訳しました。 その後、中国語に翻訳されたこれらのお経が遣唐使などで日本に伝わったのです。 それでは、般若心経の題名を見ていきましょう。 お経の題名のことを「経題(きょうだい)」といいます。 経題が分かれば、そのお経が分かるというくらい重要なものです。 摩訶(まか)……大いなる(すぐれた) 般若(はんにゃ)……智慧(ちえ) 波羅蜜多(はらみた)……彼岸にいたる 心経(しんぎょう)……大切な教え よって、「大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え」が般若心経であるということです。 先ほど、お経は翻訳されたものだと書きました。 しかし、経題の中で「心経」以外の部分は、「マハー・パンニャ・パーラミター」という古代インドの言葉(サンスクリット語やパーリ語)を、同じ読みをする漢字で当てたもので、漢字そのものに意味はありません。 これは、翻訳してしまうと意味が限られてしまったり、本来の意味がそこなわれてしまう恐れがあるため、もとの言葉をそのままにしておく必要があったからです。 さて、「般若は智慧のことで知識とは違う」といわれます。 江戸時代の名僧、至道無難(しどうぶなん)禅師は、「何もない所から出る智慧を般若という」と説明しました。 般若心経には「空(くう)」や「無(む)」という文字が多く見られます。 これは、「からっぽ」とか「何もない」という意味でありますが、仏教ではそのままでは終わりません。 「何もない状態」というのは、「何かが生まれる状態」でもあります。 容器に何かを入れるためには「からっぽ」にしなければなりません。 今まで自分をしばりつけていた価値観や経験から自由になるための心のはたらきを智慧というのです。 悩みや迷いのあるこちらの岸(此岸:しがん)から、それらのない向こう岸(彼岸)に渡る、と仏教では説かれます。 しかし、じつは彼岸も此岸も同じ世界なのです。 つまり、向こうに渡れば今度はこちらが向こう岸になるわけです。 そして、このことに気づくための智慧を教えるのが般若心経なのです。 ものごとを自由自在に考えることや物の見方を変えてみることの大切さを、お経を通じて学びましょう。 すべては変化していく お地蔵さまや阿弥陀さまなど、仏さまにはいろいろな姿があります。 これは、お釈迦さまの教えをあらわすために、後世の人が考えたものだからです。 仏像を見ますと、手の形がさまざまで、耳が大きく、立っていたり座っていたりします。 手の形は「印相(いんぞう)」といい、願いを聞き入れたり、恐れを取りのぞくなどの意味があります。 また、耳が大きいのは、人々の声をよく聞くためであるといわれています。 般若心経には、観自在菩薩(観世音菩薩のこと)が登場します。 観音さまは、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の教えをあらわす仏さまです。 智慧とは、今まで身についた知識や経験、価値観からはなれて、ものごとをありのままに見ていくことです。 般若心経は智慧の教えを説くお経ですから、自分の心を見つめて自在におさめるということで「観自在」と訳しました。 一方、慈悲には人の苦しみを自分の苦しみとして感じるという意味があるので、世間の音(声)を察するということで「観世音」と訳されました。 般若心経は、観音さまが「智慧第一」とよばれる弟子の舎利子(しゃりし:シャーリプトラ)をとおして、人々に説法する形式で教えが示されます。 観音さまは実在の人物ではありませんが、智慧の教えを説く仏さまとしてぴったりだと考えられたからでしょう。 お経では、お釈迦さまも観音さまも同じ存在なのです。 観自在菩薩 (かん じ ざい ぼ さつ) 観自在菩薩は、 行深般若波羅蜜多時 (ぎょう じん はん にゃ は ら みつ た じ) 自分勝手にものごとを見ないで、ありのままに正しく見るという「智慧の教え」を深く実践し、 照見五蘊皆空 (しょう けん ご うん かい くう) 「心や体のはたらきは、すべて永遠に変わらないものではなく変わり続けるものだ」と明らかにして、 度一切苦厄 (ど いっ さい く やく) あらゆる苦しみや災難から人々を救いました。 如来も菩薩もお釈迦さまをモデルにしたものですが、如来はさとりを開いた姿、菩薩はさとりを求めて修行する姿をあらわしています。 さとりを開いてしまうと人々から遠い存在になってしまうので、「人々を救うために、あえてさとりを開かない」という役割なのが菩薩という仏さまなのです。 五蘊(ごうん)とは、5つの集まりという意味で、人間の心と体をあらわしたものです。 (1)色(しき)……身体など目に見えるもの (2)受(じゅ)……喜びや苦しみなどの感情や、痛みなどの感覚 (3)想(そう)……花や動物など、物事のかたちを心に思い浮かべること (4)行(ぎょう)……何かをする、何かをしない、という意志 (5)識(しき)……知識や経験から学んだこと これらはすべて「空(くう)」、つまり変化するものである、と般若心経では説かれています。 変化こそが本当の姿 インドには、霊鷲山(りょうじゅせん)という山があります。 お釈迦さまは、ここで多くの説法をしました。 『般若心経』もこの山で説かれたと伝えられています。 お釈迦さまの説法は、病気や病人の体力に応じて薬を与えるのと同じように、相手の悩みや能力に応じて教えを説くものでした。 「対機説法(たいきせっぽう)」といいます。 やがて、多くの人々がお釈迦さまの説法を聞くために、各地から集まってきました。 『般若心経』に登場する「舎利子(しゃりし):シャーリプトラ」も、そんな人々のなかの一人です。 もともと、舎利子はほかの人の弟子でした。 ある日、舎利子が道を歩いていると、おだやかな表情で落ちついた人がいることに気づきました。 ただ者ではないと思って「あなたはどんな修行をされてきたのですか。 」と話しかけてみると、次のように答えました。 「私はお釈迦さまの弟子です。 この世は偶然で成り立っているのではなく、原因があって結果があると考えるのが、その教えです。 」 これを聞いた舎利子は、お釈迦さまの弟子になり、「智慧第一」とよばれるまでになりました。 舎利子 (しゃ り し) シャーリプトラよ。 色不異空 (しき ふ い くう) かたちのあるものは、いつか必ずこわれたり、なくなったりしてしまい、それは実体のないものと同じである。 空不異色 (くう ふ い しき) また、実体のないものは、永遠にこわれることもなく、なくすこともないので、かたちあるものと同じように確かなものである。 色即是空 (しき そく ぜ くう) すなわち、目に見えるものは、変わらないようで変わり続けており、 空即是色 (くう そく ぜ しき) 変わり続けるものは、頼りないものではあるが、確かに存在しているものである。 受想行識 (じゅ そう ぎょう しき) 感覚や感情、意志や知識、経験といった心のはたらきも、 亦復如是 (やく ぶ にょ ぜ) また同じように、絶えず変わり続けるものであるが、それもまた心という確かな存在である。 「色(しき)」は目に見えるもの、かたちのあるものを表し、「空(くう)」は実体のないもの、変わり続ける状態を表します。 つまり、「色即是空」とは、「かたちあるものは変わり続けていくものだ。 」という意味です。 これは理解しやすいと思います。 どんなに大事にしていても、ものはこわれるし、若さや命も永遠ではありません。 世の中のすべての現象は絶えず変わり続けています。 難しいのは「空即是色」のほうで、これは「変わりゆくものこそ確かなものである。 」という意味です。 たとえば、人は年をとり、病気になり、死んでいきます。 例外はありません。 つまり私たちは、変わり続けていくもの(空:くう)です。 しかし、生まれてから今までの自分は、どれも同じ「自分」です。 年をとって、病気になって、死んでしまっても、自分であることに変わりはありません(色:しき)。 このように『般若心経』は、すべてのことは変化する存在であると示したあとで、その変化こそが、ものごとの本当の姿である、と説いていきます。 変化を受け入れ、ありのままに見よう 「柳は緑、花は紅(くれない)」という禅語があります。 ものごとをありのままに見ることの大切さを教える言葉です。 たとえば、ある絵画を見たとします。 すると、いろいろな感想を持つことでしょう。 技法はどうだとか、作者はどういった人なのかとか、いくらぐらいするのかとか。 絵そのものを、何も考えずにただ見るということは、じつに難しいことなのです。 ありのままに見ることができないということは、自分の都合でものごとを考えてしまうことにつながります。 『般若心経』では「ものごとは変化する」と、くり返し説かれています。 自分も他人もすべて変わり続けているのです。 にもかかわらず、「こうあるべきだ」という価値観にとらわれていると、自分の思いどおりにならないといって不満が増えてしまいます。 つまり、ものごとをありのままに見るということは、ものごとの変化を受け入れるということです。 変化を楽しむということなのです。 舎利子 (しゃ り し) シャーリプトラよ。 是諸法空相 (ぜ しょ ほう くう そう) このように、すべての存在は変わり続けているのであり、変わり続けている姿こそが本当の姿である。 不生不滅 (ふ しょう ふ めつ) だから、ものごとには始まりもなければ終わりもなく、 不垢不浄 (ふ く ふ じょう) きたないだとか、きれいだとかいった価値観もなく、 不増不減 (ふ ぞう ふ げん) ありのままなのだから、増えるということもなければ、減るということもないのである。 江戸時代の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、「人間とは本来、鏡のようなものである」と説きました。 鏡は、きれいなものも、きたないものも区別なく、ものごとをありのままに映します。 しかし、鏡そのものには何の変化もありません。 人の心も同じで、だれも生まれたばかりのころは、まっさらでした。 もともと何にもない、自由だった自分の心をしばりつけているのは、やはり自分自身なのでしょう。 是故空中 (ぜ こ くう ちゅう) こういうわけで、あらゆるものには実体がないという「空(くう)」の教えによると、 無色 無受想行識 (む しき む じゅ そう ぎょう しき) 目に見える姿はもちろん、目に見えない感覚や認識、意志や意識という心のはたらきも確かなものではなく、 無眼耳鼻舌身意 (む げん に び ぜつ しん い) 目や耳、鼻や舌、体や心といった感覚器官でさえも絶対ではないのである。 無色声香味触法 (む しき しょう こう み そく ほう) それはつまり、目に見えるもの、聞こえるもの、においや味、触れるもの、考えることもありのままでなく、 無眼界 乃至 無意識界 (む げん かい ない し む い しき かい) 自分の都合や感情、経験や記憶にもとづいて、いままで見てきたもの、聞いてきたこと、においや味、感触、考えたことは、じつは本当の姿ではないのかもしれないのである。 苦しみも「空」である 8月13日の盆の入りには夕方、お墓・家の玄関先(庭先)の順で火をたいて、ご先祖さまをお迎えし、16日(15日)の夕方には反対順に火をたいてご先祖さまをお送りします。 明かりを道しるべにするのです。 仏教では、暗やみ(迷い)をてらす灯明は智慧(ちえ)の教えをあらわします。 また、「無明(むみょう)」とは、ものごとに明らかでなく、暗やみの道に迷いこんでいる状態をいいます。 『般若心経』は、いままで見てきたように、「空(くう)」の教えを説いています。 空(くう)の教えとは、すべてのものは変わりつづけるということです。 これは、よいことも続かないけれども、悪いことも続かないということです。 また、悩みが次から次に出てきても、永遠に悩みが残るわけではありません。 しかし、自分の都合でものごとを見てしまうと、悪いことばかりに目がいって、不満がつのるばかりです。 よいことも悪いことも、ものごとをありのままに見ていくことが智慧の教えです。 無無明 亦無無明尽 (む む みょう やく む む みょう じん) 「空(くう)」の教えによれば、迷うということもなければ迷いが尽きてなくなる、ということもない。 迷ったり、迷いが消えたりをくり返していくのである。 乃至 無老死 (ない し む ろう し) さらに、老いるという苦しみも、死ぬという苦しみもない。 それは、年をとったり死ぬことは苦しいが、いつまでも年をとらなかったり、死なないということも、同じように苦しいからである。 亦無老死尽 (やく む ろう し じん) また、老いる苦しみや死の苦しみがなくなるわけではない。 老いや死という絶対にのがれられないものから、のがれようとするから苦しいのだ。 無苦集滅道 (む く しゅう めつ どう) 苦しいことを苦しいと自覚すれば、苦しみも、その原因もなくなり、苦しみをなくしたいと思うこともなく、苦しみをなくす方法も必要ないだろう。 無智亦無得 (む ち やく む とく) 苦しいことを苦しいとありのままに見ることができたならば、もはや智慧の教えなどという知識すら必要でなく、さとりを得るというこだわりもなくなるのである。 たいへん苦労することを「四苦八苦する」といいますが、これは本来仏教の言葉です。 まず四苦(しく)とは、生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の苦しみです。 生まれること、年をとること、病気になること、死ぬこと・・・。 すべて思いのままになりません。 これら四苦に、さらに4つの苦しみを加えたものを八苦(はっく)といいます。 苦しみをなくすことはできないからです。 そこに書かれているのは、苦しみにとらわれる必要はない、ということです。 苦しみもまた「空(くう)」なのですから。 変わらないものは、みんなの中にある尊さ 菩薩(ぼさつ)は、正式には「菩提薩埵(ぼだいさった:ボディサットヴァ)」といい、さとりを求める者のことで、もともとはお釈迦さまの修行時代をあらわした言葉です。 『般若心経』に登場する観自在菩薩は、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の教えを示しており、「人々を救うため、あえてさとりを開かない仏さま」ですが、ここでの「菩薩」は修行する人々をさします。 この菩薩たちの修行する心がまえが「6つの行い」です。 (1)布施(ふせ)……与えること (2)持戒(じかい)……自分にきびしいこと (3)忍辱(にんにく)……たえること (4)精進(しょうじん)……努力すること (5)禅定(ぜんじょう)……心を落ちつけること (6)智慧(ちえ)……正しくものを見ること 一方、「仏(ほとけ)」は「ブッダ(目覚めた人)」という意味で、さとりを開いたあとのお釈迦さまの呼び名ですが、ここでは自分の中にある尊いものに気づいた人のことをいいます。 以無所得故 (い む しょ とく こ) さとりを得るということもないから、 菩提薩埵 (ぼ だい さっ た) 道を求める者たちは、 依般若波羅蜜多故 (え はん にゃ は ら み た こ) すべてのことは変わり続けるもので、その変わり続けている姿こそ本当の姿であると、ものごとをありのままに見ていく智慧の教えをもとに、日々の生活をしていくことで、 心無罣礙 (しん む けい げ) 心にこだわりがなくなる。 無罣礙故 (む けい げ こ) こだわりがなくなれば、 無有恐怖 (む う く ふ) 思いどおりにならないと自分を責めることも、こうでなければならないという不自由もなく、何も恐れるものはない。 遠離一切顚倒夢想 (おん り いっ さい てん どう む そう) ものごとをさかさまに見たり、夢のような考えをしたりすることからも遠く離れて、 究竟涅槃 (く ぎょう ね はん) 迷いのない安らかな心になっていく。 三世諸仏 (さん ぜ しょ ぶつ) また、過去・現在・未来・いつの時代にも、自分とはこうだと言い切れないものであり、それこそが本来の自分(仏)なのだとありのままに見ていく人々は、 依般若波羅蜜多故 (え はん にゃ は ら み た こ) やはり智慧(ちえ)の教えを実際に行っているので、 得阿耨多羅三藐三菩提 (とく あ のく た ら さん みゃく さん ぼ だい) このうえなく正しいことで、みんなに等しくあてはまること。 つまり、すべてのことは変わり続けているが、そのなかにも変わらないものがあること、すなわち誰にも尊い「こころ」、尊い「いのち」があることを知っているのである。 人は、何も持たずに生まれてきます。 「こころ」も「いのち」も、自分の力で手に入れたものではありません。 与えられたものです。 そして、そんな尊いものが自分だけでなく誰にもあるのだ、ということに気づくために「6つの行い」をするのです。 尊さは「ひとり」では分からない インド地方で生まれた仏教は、時代とともに各地に広まりました。 そのうち、インドからシルクロードを経て中国、日本と伝わった「北方仏教」と、海をこえてタイやミャンマーなど東南アジアに伝わった「南方仏教」の二つに分けられます。 この二つの仏教のちがいは、だれが教えによって救われるかです。 修行したものだけが救われるのが南方仏教、みんなを救おうというのが北方仏教です。 仏教では、「さとり」を乗り物にたとえ、一部の人しか乗る(救う)ことのできない仏教を「小乗(しょうじょう)仏教」、多くの人々を乗せる(救う)ことができる仏教を「大乗(だいじょう)仏教」といいます。 日本に伝わったのは大乗仏教です。 もともと、お釈迦さまが亡くなったころの仏教は小乗仏教の考え方でした。 長い年月を経て生まれたのが大乗仏教の教えです。 「般若心経」にも、自分だけでなく、みんなを救おうという考えが説かれています。 お釈迦さまもさとりを得たあと、人々に法を説きつづけました。 故知般若波羅蜜多 (こ ち はん にゃ は ら み た) だから知るのである。 すべては変わりつづけ、また変わることがないという智慧の教えは、 是大神呪 (ぜ だい じん しゅ) すばらしい力を持つ言葉であり、 是大明呪 (ぜ だい みょう しゅ) 暗やみを照らす言葉であり、 是無上呪 (ぜ む じょう しゅ) この上ない言葉であり、 是無等等呪 (ぜ む とう どう しゅ) 他と比べるものがない言葉であり、 能除一切苦 (のう じょ いっ さい く) すべての苦しみを取りのぞくものであり、 真実不虚 (しん じつ ふ こ) その教えは真実であって偽りではないことを。 故説般若波羅蜜多呪 (こ せつ はん にゃ は ら み た しゅ) だから、智慧の教えを実践する言葉を説くのだ。 即説呪曰 (そく せつ しゅ わつ) すなわち、その言葉を説いていうと、 羯諦 羯諦 (ぎゃ てい ぎゃ てい) 「私はさとりの岸に着いた。 私によって他の人もさとりの岸に着いた。 」 波羅羯諦 (は ら ぎゃ てい) 「むこうにあるさとりの岸に着いた。 」 波羅僧羯諦 (は ら そう ぎゃ てい) 「みんな一緒にさとりの岸に着いた。 」 菩提薩婆訶 (ぼ じ そ わ か) 「こうして私のさとりは完成した。 」 般若心経 (はん にゃ しん ぎょう) これが智慧の大切な教えである。 人は苦しいことがあると、自分だけが悩んでいるように考えてしまいます。 しかし、悩みのない人などいません。 苦しみは自分だけのものではないのです。 そして、自分の苦しみを見つめることが、他人の苦しみに気づくことにつながり、悩みを分かちあうことで、お互いに救われるのではないでしょうか。 <おわり>.

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