徳川 家康。 徳川家康 (NHK大河ドラマ)

「徳川家康」について!全合戦・年表一覧!

徳川 家康

幼少期、今川家に庇護して もらうため人質となった家康 1542年(天文11年)、は三河国領主「松平広忠」(まつだいらひろただ)の嫡男として生まれました。 幼名は「竹千代」(たけちよ)です。 当時、弱小大名家だった松平家は、隣国である遠江国の領主・に庇護(ひご)してもらうため、幼い竹千代を人質として差し出します。 14歳となり元服した竹千代は「松平元康」(まつだいらもとやす)と名を変えて、今川家に武将として仕えていました。 1560年(永禄3年)には、今川家と尾張国の領主・が争った「」(おけはざまのたたかい)に出陣。 松平元康が砦を落とす活躍を見せるものの、今川家は織田家の奇襲を受けて敗れてしまいました。 この敗戦で今川家の力が落ちたのを機に松平元康は独立し、故郷である三河国に帰還しての城主となります。 そして、今川家を倒したと同盟を結ぶと、名前を徳川家康に改めたのです。 1570年(永禄13年)、徳川家康の前に巨大な敵があらわれました。 当時、最強と呼ばれていた戦国武将「」です。 徳川家康は武田信玄との戦に備えて、本拠を「」(はままつじょう)へと移します。 1572年(元亀3年)、徳川家康と武田信玄による「」(みかたがはらのたたかい)が勃発。 この戦に徳川家康は大敗したのですが、戦後に武田信玄が病死したことにより、領土を奪われずに済んだのは幸運だったと言えるでしょう。 1575年(天正3年)、今度は武田信玄の跡継ぎである「武田勝頼」(たけだかつより)と戦うことになりました。 織田信長の協力を得た徳川家康と武田勝頼が争ったのが「」(ながしののたたかい)です。 この戦は織田家の隊が大活躍して、徳川・織田連合軍の勝利となります。 1582年(天正10年)、天下目前まで迫っていた織田信長が、京のにて家臣から謀反を起こされて自害するという事件が起きました。 事件の首謀者であるを討ち取って、織田信長の天下統一を継ぐ者として名乗りをあげたのが羽柴秀吉(のちの)です。 天下を狙う徳川家康は、羽柴秀吉と「」(こまきながくてのたたかい)で対峙します。 この戦に徳川家康は勝ちながらも、知恵の働く羽柴秀吉に丸めこまれて家臣になってしまったのです。 この頃、徳川家康は居城を浜松城から「」(すんぷじょう)に変えています。 1590年(天正18年)、により関東を平定した豊臣秀吉は全国統一を果たし、天下人となりました。 徳川家康はその豊臣秀吉から関東への移封(いほう:所領を別の場所に移すこと)を命じられて、へと本拠を移します。 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去し、ついに徳川家康に天下人へのチャンスが到来しました。 天下獲りに向けて豊臣家の家臣たちを仲間に引き入れる徳川家康に、対立したのが豊臣家の重臣「」(いしだみつなり)です。 ふたりの争いは飛び火して、戦国時代最大級の戦に発展。 全国の武将が徳川家康率いる東軍と三成率いる西軍に分かれて争った「」の幕が切って落とされたのです。 開戦直後は西軍が優勢でしたが、西軍武将「」(こばやかわひであき)や「吉川広家」(きっかわひろいえ)らの寝返りによって、東軍が盛り返して勝利をつかみました。 この勝利により大きな権力を得た徳川家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍となると、念願の天下人となったのです。 天下を我が物とした徳川家康ですが、ただひとつだけ懸念材料がありました。 それはを本拠とする豊臣秀頼の存在です。 豊臣家を慕う者たちが豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼のもとに集まって、徳川家打倒を企てるかもしれない、このように徳川家康は考えたのでしょう。 徳川家康は不安の芽を摘むために豊臣秀頼に対して戦を仕掛けました。 1614年(慶長19年)の冬と1615年(元和元年)の夏に行なわれたこの戦が、世に言う「」(おおさかのじん)です。 「大阪冬の陣」では豊臣家が徳川家の猛攻を跳ね返したのですが、「」では徳川家が豊臣家の居城・大阪城を陥落させます。 炎上する大阪城の中で自害する豊臣秀頼。 徳川家康が豊臣家を滅ぼしたことにより、徳川家は磐石となりました。 その翌年の1616年(元和2年)、徳川家康は「もうやり残したことはない」とでも言うように75歳で逝去。 徳川家康没後も、その子孫たちが歴史の表舞台に立ち、江戸幕府は約260年もの間、存続したのでした。 江戸の水運を発展させた徳川家康 江戸の町(イメージ) 1590年(天正18年)、天下人である豊臣秀吉から関東への移封を命じられた徳川家康。 関東で本拠地に選んだのは江戸でした。 当時の江戸は低湿地帯が広がる未開の地だったため、大名が住むには不向きだったと言えます。 また、関東には古都・鎌倉があったので、この地を本拠地にする選択肢もあったでしょう。 なぜ徳川家康は江戸を本拠地に選んだのか、それは江戸の地理に目を付けたからです。 江戸は海に面していたうえに関東地区に流れる川の終着点となっていたため、水脈に恵まれていました。 この水脈を利用した港や航路をつくれば江戸は必ず発展すると、徳川家康は考えたわけです。 江戸城への水路を 築き資材などを運んだ 江戸の開発計画に着手した徳川家康は、まず江戸湾から江戸城への水路を建造。 そして、その水路から建築資材や米を運んで、江戸城の改築工事に乗り出します。 1603年(慶長8年)、徳川家康は天下統一を果たし、江戸に幕府を開きました。 諸大名に土木工事をさせる「天下普請」(てんかぶしん)という制度をつくると、江戸の開発はより活発になります。 江戸の町を大きく発展させたのが「掘割運河」という水路です。 町の内部に張り巡らされたこの水路は、舟での荷物の運搬を円滑にします。 まるで町全体が港になったかのように水運が整備された江戸の町。 ここまで水運が発達した都市というのは、世界の歴史のなかでも稀だと言われています。 時が流れて、江戸は東京へと名称を変えました。 現在の東京は陸上交通が発達したため、かつて水運が発達していた江戸の面影を残していません。 しかしそれでも、かつてこの地を見出して人を集めた徳川家康こそが、東京の基盤を築いたと言えるでしょう。 徳川家康に関連する城 徳川家康が生まれた岡崎城 岡崎城は徳川家康の天下人としての運命が幕を開けた場所です。 1455年(康正元年)、土地の豪族である西郷家によって築城されました。 1531年(享禄4年)、徳川家康の祖父である「松平清康」(まつだいらきよやす)が岡崎城を奪い、松平家の居城とします。 そして1542年(天分11年)、この城で徳川家康が生まれたのです。 「桶狭間の戦い」以降、徳川家康は岡崎城を本拠にしますが、1570年(元亀元年)に嫡男の「松平信康」(まつだいらのぶやす)にこの城を譲りました。 徳川家康の没後は、徳川家と主従関係にある大名たちが岡崎城の城主を務めています。 大名たちは徳川家康とかかわりの深い岡崎城を守ることに、名誉を感じていたことでしょう。 明治時代になると城郭の大部分は取り壊されるも、1959年(昭和34年)に天守閣が復元されました。 現在では天守閣のまわりに岡崎公園が整備されており、徳川家康の生誕地ということで多くの観光客が訪れています。 浜松城(はままつじょう):静岡県浜松市 浜松城は武田信玄との戦に 備えて築かれた 徳川家康が武田信玄との決戦に備えて築いたのが浜松城です。 武田信玄が攻めこんできたときに備えて、見晴らしのいい遠江の三方ヶ原を築城地にしました。 本丸を二の丸、二の丸を三の丸が囲む「梯郭式」(ていかくしき)という築城方法を採用したことにより、浜松城は堅牢な要塞となります。 1572年(元亀3年)、武田信玄が遠江に攻めこんできて「三方ヶ原の戦い」が勃発。 この戦で浜松城にまつわるこんな逸話が生まれています。 徳川家康は城を攻められることを想定して、浜松城の守りを固めていました。 ところが、武田軍はこの城を無視し通り過ぎていきます。 徳川家康は「見くびられた!」と激怒し、武田軍を後方から強襲するべく城を出たのですが、それは武田信玄の思惑通りだったのです。 三方ヶ原で待ち構えていた武田軍は徳川軍を返り討ちにしました。 大敗した徳川家康は命からがら浜松城に退却するものの、武田軍が追いかけてきているので絶体絶命の状況です。 そこで、徳川家康は信じられない奇策を打ちます。 なんと、城門を開け放つとそこに松明を灯したのです。 城に入ってこいと言わんばかりなので、罠を恐れて城に入ることができない武田軍。 そして、武田軍が退却し、徳川家康は窮地をなんとか脱したのです。 この徳川家康の奇策は「空城の計」と呼ばれています。 この逸話の真偽のほどは定かではありませんが、はったりとも言える奇策により窮地を乗り切ってしまうとは実に痛快です。 浜松城を訪れる機会があったら、一世一代のはったりを仕掛けている徳川家康を想像してみると面白いでしょう。 駿府城(すんぷじょう):静岡県静岡市 今川家の人質だった幼少期、徳川家康は駿府で過ごしました。 今川家が没落したことにより独立を果たすと、駿府を攻め落として駿府城を築きます。 しかし、天下人である豊臣秀吉により関東に移封を命じられたことにより、江戸へと本拠を移すことになったのです。 その後、豊臣秀吉が死去し、天下を獲った徳川家康は江戸に幕府を築きました。 そして晩年を迎えると、跡継ぎである「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に将軍職を譲り、駿府に帰っていったのです。 それから徳川家康は駿府城の改築に取り組みました。 1608年(慶長13年)には本丸御殿、1610年(慶長15年)には天守が完成。 駿府城は大御所である徳川家康が住むのにふさわしい立派な城となったのです。 徳川家康は75歳で死去するまで駿府城で暮らしました。 徳川家康にとって、幼少期と晩年期を過ごした駿府にあるこの城は、思い出の詰まった場所だったことでしょう。 元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう):京都府京都市 大政奉還が行われた二条城 日本の歴史のなかで二条城と呼ばれる城はいくつもありました。 、織田家、豊臣家、徳川家という時の権力者たちが、築いた城に二条城と名付けたのです。 しかし、現存しているのは1603年(慶長8年)に徳川家康が築いた元離宮二条城だけとなっています。 元離宮二条城は徳川家の歴史に深くかかわりました。 1611年(慶長16年)には「二条城会見」、1867年(慶応3年)には「大政奉還」がこの城で行なわれています。 二条城会見とは、天下人となった徳川家康と豊臣秀頼の間で開かれた会見のこと。 大政奉還とは、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が、天皇に政権を返上した大事件です。 大政奉還により江戸幕府は幕を降ろしたので、元離宮二条城は徳川家の最後に立ち会ったと言えるでしょう。 現在、元離宮二条城はや、世界遺産などに指定されています。 足を運べば、かつての徳川家の栄華を感じることができるでしょう。 江戸城(えどじょう):東京都千代田区 江戸幕府が存続した約260年の間、徳川家の居城として威厳を示したのが江戸城です。 1457年(長録元年)、築城名人と呼ばれた武将「太田道灌」(おおたどうかん)により築城されました。 1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に本拠を移した際、江戸城は入り口に数枚の板が並べられているだけのみすぼらしい城に成り果てていたのです。 しかし、徳川家康は江戸の町を盛り立てるために江戸城を改築していきました。 その結果、江戸城は国内屈指の規模の城となります。 その敷地面積は約230 haで、大阪城の約110ha、駿府城の約180haと比較すると、いかに広大なのかが分かるでしょう。 参勤交代で江戸を訪れた諸大名は、江戸城のあまりの広さを目にして、徳川家の権力の大きさを思い知ったと言われています。 江戸幕府が滅んだ明治元年、江戸城は東京城と改称されました。 そして、現在は天皇皇后陛下がお住まいになっている御所や宮殿などが置かれており、と呼ばれています。 時代が変わっても、かつて江戸城と呼ばれた城は昔と変わらない威厳を漂わせているのです。 刀剣ワールドでは、刀剣にまつわる各種コンテンツを公開しております! 博物館や神社、日本のお城など日本刀(刀剣)や甲冑(鎧兜)に関連する施設の情報をお届けします。 日本刀をテーマにした簡単操作で楽しく遊べるゲームが盛りだくさん。 アプリゲームはすべて無料です。 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!• 戦国の世を生き抜いた戦国武将の合戦戦略について解説します。 武将・歴史人のエピソードや、関連のある日本刀(刀剣)をご紹介!• 戦国武将の中でも「戦国三英傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についてご紹介します。 日本刀が大活躍した時代にあった主な合戦をご紹介します。 全国各地の古戦場を地域ごとにご紹介致します。 刀剣ワールドで紹介している人気の戦国武将をイラストと合わせて、ランキング形式でご覧頂けます。 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。 お役立ちコンテンツ 日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。 日本の城を訪れた皆さんの声を元に城ワールドが選ぶ行って良かった日本の城をランキング形式でご紹介!皆さんからの口コミ情報も掲載中です!• 城郭カメラマン・岡泰行氏によって撮影された魅力あるお城の写真をご覧頂けます。 日本の城、城郭、城跡を日本地図から検索できます。 基本情報や口コミ、写真、動画が満載で知りたい情報が見つかります!• 全国のランキングはもちろん、都道府県や市区町村ごとのランキングをご紹介!• 日本全国にある多くの城と、城に縁のある武将をご紹介!• 歴史と城を旅する気分で列島縦断クイズに挑戦! 特集コンテンツ 日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。 古くから政治や文化の要として栄えた大阪にある「大阪城天守閣」「大阪歴史博物館」「石切劔箭神社」をご紹介します。 徳川家康生誕の地「岡崎城」や岡崎公園内にある家康ゆかりのスポットをご紹介。 春と言えばお花見!桜の名所、大阪城で春と歴史を堪能しよう!• 「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城を検太郎が訪ねます!• 春夏秋冬、それぞれの季節を感じるおでかけスポットをご紹介!• 歌舞伎パンダ「検太郎」がイチオシ施設の見どころをご紹介!•

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於大の方

徳川 家康

徳川家康の生涯 1543年、戦国時代中期に三河国の岡崎城(現:愛知県岡崎市康生町)で生まれる。 父の岡崎城主・松平広忠は、守護大名・今川氏に忠誠を示すため、家康(幼名は竹千代)を人質として差し出すが、家臣の裏切りにより今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られて人質となる。 織田氏の元で数年を過ごした後、あらためて今川氏へ送られ数年間、忍従の日々を過ごす。 1560年、今川義元が織田信長に討たれた後、家康はと同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げていく。 1582年のの本能寺の変による信長の死後、勢力を伸張したとの対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙。 家康は軍略的には勝利したものの政略的には後れをとり、豊臣氏に臣従することになる。 1590年、小田原征伐において北条氏が滅亡した後、秀吉から関東への領地替えを命じられるも豊臣政権下で最大の領地を得、五大老の筆頭となる。 秀吉没後の1600年、関ヶ原の戦いにおいて勝利。 征夷大将軍に任命される。 江戸城に幕府を開いた家康は、応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代に終止符を打った。 江戸幕府は明治維新まで264年間続く。

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徳川家康 (NHK大河ドラマ)

徳川 家康

概要 [ ] 当初は監督の『』のように、5部作(年1、2本予定)のシリーズ化公開する予定だったが、退潮時期であり 、本作1本で打ち切りとなった。 監督はこの年、東映を退社した。 本作の合戦シーンの一部は、制作のTV時代劇『』(フジテレビ)の第1話冒頭で使用されている。 ストーリー [ ] 駿府を居城とし、、、の三国を領するが強大な勢力を誇っていた。 西には新鋭のが東方に進出し、西三河は東西勢力の接触点となっていた。 この地域を拠点としていた岡崎と刈谷は、両勢力いずれかにつかざるを得ず、刈谷の水野は、刈谷の姫(おだい)を和睦のしるしに三州岡崎の城主の許へやり、今川方の松平に属した。 天文11年、於大は男子を出生、松平竹千代と名づけた。 寅の日、寅の刻という奇瑞に岡崎城下は沸いた。 3歳の春、於大の父は病死し、城主となった信元は今川の勢力を脱し織田方と盟を結んだ。 於大は兄の一決で織田方阿久居の城主のもとに嫁いだ。 病弱な広忠は如何なる運命にも耐えて、竹千代を守れと於大を送る。 今川義元は伯父 ・の進言を容れ、岡崎を織田進撃を喰い止める要路とみて、竹千代を人質に迎える旨岡崎に伝えた。 弱小国・岡崎のとる道は唯一つ、竹千代は七人の侍童に守られて駿府に向かった。 だが途中、田原領主・の寝返りで、竹千代は一千貫で織田方に売られ、侍童たちは次々と割腹した。 信元は竹千代の命と引き換えに、織田方へ加担をすすめたが、広忠は武士の意地から拒否。 これを聞いた於大は熱田に向かい、吉法師(後の織田信長)のおかげで竹千代の姿を垣間見る。 竹千代は「母はおらん」というが、吉法師は於大の心に激しく心を揺さぶられ、竹千代が折った金色の折鶴を於大に渡す。 天文18年、広忠が病死し、弔いにかこつけてを奇襲した岡崎勢は城主信広と交換に、竹千代を3年ぶりに三河に迎えた。 それもつかの間、竹千代は岡崎を去って駿府の人質となり、三河は今川に統轄された。 10年後、吉法師は信長と名を改め、勢力を拡げ、今川方を脅す。 竹千代の動静をを派遣し、つぶさに於大に知らせるが、信長の真意は分からなかった。 竹千代も元服して元信と名を改め、義元の姪・瀬野と婚儀を結ぶ。 雪斎は「お主は岡崎の者か、今川の者か」と問いつめる。 永禄3年、義元は天下統一のため上洛を決める。 信長は元信の動静に眼を離すなと藤吉郎に命ずる。 松平の血を継ぐ元信は岡崎譜代の家臣と自分のために切腹した7人の侍童に報いるため、にこもり、織田方との戦いを避ける。 信長は大高城を迂回し、の今川の本陣に入り、義元の首をはねる。 報を聞いた元信は織田軍に乗り込むと義元の首を受けたいと告げる。 恨みよりも恩を返そうとする元信の心に、信長は拒否するが、かねて約束の馬を与えるといい、馬と馬がぶらさげていた義元の首を手渡す。 スタッフ [ ]• 製作:• 企画:、、• 監督:• 助監督:• 脚本:• 原作:『』• 撮影:• 音楽:• 美術:• 録音:• 照明:• 編集:• 衣裳考証:• 語り手:• 進行主任:• スチール:• 制作: キャスト [ ]• 竹千代(3歳):• 竹千代(6歳 - 9歳):• 本多小夜:• 杉山元六:• 金田与三左衛門:• 奥山伝心:• 天野又五郎:• 白須:• 平岩助右衛門:• 志女:• 善九:• 銅六:• 遊喜:• 一ノ姫:• 戸田五郎政直:• 虎之助:• 万蔵:• 天野甚工: 製作 [ ] 企画 [ ] 企画は(以下、東映京都)所長・。 当時のはあまりお客は入らなかったが 、の時代劇はお客を集め 、テレビの『』や『』などは圧倒的人気で 、特に『』や『』などのはにまで普及して大きな人気を集め 、1965年は時代劇のピークが来るのではと予想する映画関係者もいた。 岡田は大映に対抗するには東映のオールスター映画を復活させて口火をつけようとテレビで放映中の『』の映画化に踏み切った。 『徳川家康』は数年来ブームを呼んでおり、の『』以上の読者を持ち、現代から、、と、老若男女すべてに必見の書といわれていた。 各映画会社とも映画化を企画していたが、山岡荘八が映画化をOKしなかった。 山岡は「まだ小説が継続中に映画化されてはテーマを全く別の視覚からバラバラに切りさいなまれるようなもの」などという持論をもっていた。 岡田は監督にを起用し、脚本も執筆するという条件を提示し 、山岡は「伊藤さんならば安心してお願い出来る」と東映時代劇への信用と合わせて映画化を了承した。 1964年2月1日、東映社長が社の大巾な機構改革と、それに伴うを発表し 、製作の中心が明確に現場に移され 、所長の権限増が明確にされた。 人事の目玉が(以下、東映東京)を現代劇で軌道に乗せた岡田の東映京都所長復帰であった。 これは東映の表看板である時代劇の復興を岡田に託すという大川の肝煎りプロジェクトだったため 、岡田には直接の指揮権が移譲された。 またこの人事で東映創立以来の、などが脇に回され 、さらに1964年9月30日、東映がから離脱し 、同日付けでからしていた東急系の、非常勤取締役を始め、小滝顕忠、山崎季四郎、伊勢憲三郎の他、伊藤義、吉田信、薦野直実、代表・石原春夫ら、重鎮幹部がごっそり辞職した。 これにより大川の御意見番はいなくなり 、岡田にとっては兄貴分の五島とは表立って付き合えなくなったが 、上がかなり減って、思い切って腕を振れるようになった。 キャスティング [ ] は当時、東映の青春路線の担い手だったが 、岡田は「北大路の個性を生かした作品をと狙い過ぎていたのかも知れない」との反省があり 、随時、時代劇に起用する計画を立てた。 また当初はもキャスティングされていたが出演しなかった。 三田はが『』で一気に東映の看板女優になると同じ東映京都の廓もの『廓育ち』を演じて演技開眼と騒がれ、意識を明確にし 、映画業界から「あれほどライバル意識を燃やしているライバルもない。 リッパだ」と褒められた。 当時の各社人気のといわれた映画会社のに、東映は1965年度版に女優では佐久間と三田だけ単独での起用を決めると先輩の佐久間がを付け、佐久間が正月、三田を九月に変更し、佐久間が矛を収めた。 三田の抬頭は佐久間を緊張させた。 東映は三田の将来性を大いに買って、一気に売り出そうと『』『』の後、オールスター正月大作に起用を予定していた。 三田はこの頃から東映にとどまる限り、佐久間を越えるのは不可能と東映退社を考え始めたといわれる。 東映時代劇の終焉 [ ] 岡田茂は、早くから時代劇中心の東映京都を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた。 当時の東映京都は、の失敗で余剰人員が膨らんでいた。 1964年1月に東映京都所長に復帰するや、赴任早々「時代劇は一切止める」と宣言し大騒動になった。 時代劇を切り捨て、主体に切り換えるには大変な出血を必要としたが 、岡田は断々乎とこれを実行した。 岡田は任侠路線を敷く布石を置きながら 、時代劇の復活にも努力したが 、作品の評価とは関係なく、興行的には凡打が続き 、本作『徳川家康』も亦所期の数字にまで達するに至らず 、時代劇の打ち切りを決断した。 本作と『』、1965年4月10日公開の『』と 、1965年度大作が相次いで不入りに終わり 、岡田は時代劇からの撤退を宣言。 1965年に予定されていた時代劇は大半を製作中止にし 、この煽りで本作も1本で打ち切りとなった。 東映の財産である時代劇はテレビに徐々に移して行き 、テレビ時代劇を映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り 、映画ではテレビでは出来ない"不良性感度"を推進し 、な方向性を明確に打ち出していく。 岡田が東映京都に復帰する前年1963年には、東映京都は全て時代劇を54本も製作したが 、1964年は時代劇27本 、1965年の時代劇製作は14本に減らし 、1966年正月映画には東映創立以来初めて時代劇を外した。 合理化の荒治療が一応の目途がついたのは1965年暮れで 、正統的な時代劇製作は1966年からは目立って減り 、1967年が3本 、1968年は0になった。 岡田は振り返って「時代の流れの変化でダメになったものを如何に切り捨てるか、切り変えて時代の流れに即したものを生み出してゆけるか。 東映が今日まで生きのびて来られたのは、時代劇がダメになって、誰もなかなか止め切れん時、僕が今までの功労者を全員切ったからです。 凄い反撥抵抗があったが時代劇の製作を止めた。 次の10年、全盛を誇った任侠映画、寿命盡きて止める時も同じシンドイ思いをしたんだが止めた」などと述べている。 撮影記録 [ ] 1964年11月10日。 注釈 [ ] []• 北大路欣也は、の系新春時代劇スペシャル『』やの『』で再び家康を演じている。 出典 [ ]• 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)210頁• 2019年7月21日閲覧。 大黒東洋士「今月の話題映画はこれだ! 」『月刊平凡』1965年2月号、、 198-199頁。 『うしおそうじとピープロの時代 スペクトルマンVSライオン丸』(太田出版)• 「日本映画製作者名鑑」『』1966年3月上旬号、、 34頁。 週刊映画プレス 全国映画館新聞社 : p. 1964年11月14日• 139-147. 井沢淳・・・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、 16頁。 , pp. 164-165. 産業経済新聞 産業経済新聞社 : p. 朝刊特集. 1995年3月18日• 「日本映画界の巻返しと前進 各社各様の経営戦略を探る 映画界の若獅子に試練の波 東映、岡田体制の確立急ぐ」『映画時報』1973年4月号、映画時報社、 12-14頁。 「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『』1980年3月21日号、経済界、 18 - 21頁。 由原木七朗「その日のスタア」『近代映画』1964年3月号、、 158頁。 三田佳子』」『近代映画』1964年12月号、、 218頁。 , pp. 133. 269. 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・「映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして」『キネマ旬報』1987年3月上旬号、キネマ旬報社、 95頁。 147-152. , p. 122. 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol. 17』2011年8月1日、、 2-5頁。 、 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』、2006年、211-215頁。 ((Internet Archive)• 191-229. 208-209. 102-107. 564. 朝日新聞 朝日新聞社 : p. 399-412. 「東映・岡田茂会長インタビュー『製作配給の赤字をどう止めるか』」『AVジャーナル』1994年1月号、文化通信社、 27-28頁。 週刊映画プレス 全国映画館新聞社 : p. 1964年12月5日 参考文献 [ ]• 渡邊達人『私の東映30年』渡邊達人、1991年。 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。。 岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、2004年。。 ・円尾敏郎『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』、2007年。。 (編)『日本の映画人 日本映画の創造者たち』、2007年。 ・円尾敏郎『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』ワイズ出版、2007年。。 『仁義なき日本沈没 東宝VS. 東映の戦後サバイバル』〈〉、2012年。。 ・・・(編)「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 2. 任侠やくざ映画の時代 文・」『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者』、2010年。。 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』、2013年。。 『東映の軌跡』東映株式会社総務部社史編纂、、2016年。 外部リンク [ ]• - この項目は、に関連した です。

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