あいち トリエンナーレ 問題 点。 あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止問題、論点まとめ

あいちトリエンナーレは「国民の心情傷付けた」日本国史学会が声明【愛知】

あいち トリエンナーレ 問題 点

8月1日から開催されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、様々な批判や意見が主催者側に寄せられた結果、開催から3日で中止となった騒動。 問題となったのは、慰安婦像をモチーフにした「平和の少女像」の展示だった。 これを受けて「週刊文春デジタル」では展示中止公表当日の8月3日 土 から8月5日 月 まで、緊急アンケートを実施。 「『慰安婦』少女像の展示に賛成ですか? 反対ですか?」と読者に問うたところ、回答者の74. 9%が「反対」と答えた。 3日間で810人からの回答があった。 回答者の内訳は、男性が566人(69. 8%)、女性が244人(30. 1%)。 13歳から88歳まで、幅広い年齢層が回答した。

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「やせがまん」できなくなった社会―あいちトリエンナーレ問題を考える

あいち トリエンナーレ 問題 点

あいちトリエンナーレにおける企画展「 表現の不自由展・その後」が開幕3日目で公開中止になった。 まず私は「表現の不自由」という言葉自体に違和感を持つ。 このまま芸術において表現の自由が政治や倫理の問題にとらわれ続ければ、いつまでたってもタブーを犯して極北を目指す表現は進化し得ないだろう。 芸術表現で美醜を問うという基本的な出発点にいつまでたっても立てないであろう。 昭和天皇の御真影を燃して踏みつけるような幼稚な表現から、いつまでたっても越境できやしないのである。 この展示に関して私は、じかに作品と接していないだけにくどくど言うまい。 端的に、救いようのないセンス。 私個人にとって表現規制の本丸は、なんといっても性表現であり残酷表現である。 「表現の不自由展」が2015年に東京都練馬区のギャラリー古藤において支障なく開催されている時点で「表現の不自由」ではなく、一方で ろくでなし子氏が2014年にわいせつ物頒布等の罪で逮捕された事件を挙 げるまでもなく、 性器表現は違法であり、 問答無用で警察沙汰なのである。 しかしながら 芸術性があれば性器表現は認められるとされた2008年のメイプルソープ裁判最高裁判決の例もあり、もし、あいちトリエンナーレのような国家的芸術祭で我が国の基本的性表現の解放が高らかに宣言されていたとするなら、まだ意義深い展示になっていたかもしれない。 残酷表現に関しては、私が昨年末に上梓した死体写真集 『THE DEAD』の制作過程( )における困難を鑑みるに、もはやこの先、 我が国において豪華本による死体写真集の出版は無理ではないかという実感だ。 いずれにしろ、 4年前に民間で開催済みの「表現の不自由展」を、日本を代表する芸術祭に再び引っ張り出すという企画など、炎上目的の悪趣味というほかない。 しかしそれでも主催者はいったん展示を決定したのなら 中止すべきではなかった。 しかし主催者は生半可な覚悟しか持ちえなかった。 やっていることの重大性に無自覚だった。 救いようのないセンスをどこまでも露呈してしまった。 この問題を憲法21条における表現の自由、検閲の禁止の議論に結び付ける向きがある。 だが 「芸術祭」であるからには、本源的に問われるべき美醜の問題を憲法問題にすり替えることはやめた方がいい。

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高橋洋一氏、あいちトリエンナーレ「本当の問題点」

あいち トリエンナーレ 問題 点

たぶん、作家たちを束ねて、展示企画を代表するような人たちなのであろう(図2)。 この人たちが、抗議声明を出した。 この人たちがどういう意向を持っていて、誰に抗議しているのか、が大事である。 「私たちは、あくまで本展を会期末まで継続することを強く希望します」と述べている通り、この人たち(BとC)は展示の続行を希望している。 つまり 暴力や脅迫に屈せず、表現を続けたいと考えているのである。 表現の自由を行使したいというわけだ。 そして、この人たちは、誰に抗議しているか? 大村秀章 知事と津田大介芸術 監督が、「表現の不自由展・その後」を本日8月3日で展示 中止と発表したことに対して、私たち「表現の不自由展・その後」実行委員会一同は 強く反対し、抗議します。 トリエンナーレ全体を仕切っているのは、トリエンナーレ実行委員会(下図3のD)である。 その会長は大村・愛知県知事だ。 これを仮に「トリエンナーレ実行委員会が中止を発表した」としておこう。 トリエンナーレ実行委員会は「テロ予告や脅迫、嫌がらせがあったから中止した」という旨の発表をしている。 一般的に「混乱が起きるから中止した」という言い訳で表現や集会を中止させてしまうことは、「敵対的聴衆の法理」というもので、結果的に反対者に加担してしまう=表現の自由を侵してしまうことになるとされる。 「敵対的聴衆の法理」とは、「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは、憲法21条の趣旨に反する」というものである。 これは平穏な集会を暴力で妨害しようとする者の存在を理由に、集会の会場を不許可とすれば、会場管理者が結果として妨害者に加担することになってしまうことを問題とするものである。 (木下智史・只野雅人『新・コンメンタール憲法』日本評論社p. 252) これは公の施設での集会についての法理だから、単純に今回のものに適用できるかどうかはわからない。 ただ、そこから推測してみれば、表現の自由や集会の自由を保障すべき機関は開催させる努力を最後まで続けるべきであり、混乱を理由に直ちに中止をしてしまうことは結局憲法21条(表現の自由の保障など)の趣旨に反することになってしまう。 つまり、表現の自由を侵す側に回ってしまう。 公的機関(ここではトリエンナーレ実行委員会)は 中止しないように努力する義務があると考えられる。 判例では公の施設の提供を中止するのは、「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られる」(1996年上尾市福祉会館事件最高裁判決)とされる。 となれば、「今回のケースは、『警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情』だったのか?」という疑問が起きる。 匿名のファックスや電話でのテロ予告だけで「もう無理」ということになれば、例えばオリンピックでも同じようなことが起きるだろうかと不思議に思う。 別に会場でテロを起こさなくても、「日本のどこかで企業をいつか爆破する」みたいな匿名ファクスが入ったら、日本の全企業活動は無期限で停止されるのだろうか。 要は、仮に中止するにしても「本当に努力を尽くした」という検証・説明が必要だということである。 展示実行委員会(C)からは代替の提案ができそうなものである。 例えば、シロート考えだが、中止期間を置くにしても、「表現の不自由展、その後」だけを別会場に移し、厳格なボディチェックをするようなやり方はできないのだろうか、みたいな。 しかし、そのような検討を行い、当事者たちと協議した形跡はない。 今回の中止決定は、私たちに向けて一方的に通告されたものです。 疑義があれば誠実に協議して解決を図るという契約書の趣旨にも反する行為です。 いまのところ、「本当に努力を尽くした」という説得力にある証拠はトリエンナーレ実行委員会からは示されていないのである。 だとすれば「トリエンナーレ実行委員会は責任を果たさず、安易に表現の自由の保障をなくした」と言わざるを得なくなる。 トリエンナーレ実行委員会とは誰か? 中止決定は誰がどのように下したのか? ここで、別の問題がある。 図3のD、「トリエンナーレ実行委員会」とは誰なのか、という問題だ。 会長は大村・愛知県知事である。 これがDに入ることは間違いない。 河村・名古屋市長もトリエンナーレ実行委員会の会長代行だから、彼が「トリエンナーレ実行委員会」に含まれていることは間違いない。 2018年3月時点で「トリエンナーレ実行委員会運営会議」の「委員」には「」が入っているし、開幕の段階で中身を実行委員の一人である名古屋市側が全くそれを知らないでOKしたとは考え難い。 もしそういう体制なら、それ自体が問題であろう。 全体に責任を持つ立場の河村が何か被害者然として突如展示の一つを中止させるように言いだすのは異常としか言いようがない。 では芸術監督である津田大介はどうか。 ここは全くよくわからない。 中止発表後、津田はインタビューに答えているが、中止に同意する立場を表明しているから、少なくとも実行委員会会長である知事の決定には逆らっていない。 しかし、津田=監督は実行委員会なのか? 知事と同等に中止を決定できる立場にあるのか? あるいは単に同意したという立場なのか? 津田はおそらく県知事と一体のDのポジション、つまり「トリエンナーレ実行委員会」の一人なのであろう。 もしそうだとすれば、津田は、知事と一体の立場で作家たちに「中止」を通告したことになる。 事実、B・Cの人々はそのように受け取っているわけである。 ただ、繰り返すけど、津田がDに対してどの位置にいるのかは、現時点ではぼくはよくわからない。 加えて、もう一つ、よくわからないのは、中止決定の判断は、誰との間でどのような協議を経て決定されたのか、ということだ。 ぼくが報道を追いきれていないせいかもしれないが、「会長(大村知事)の決定」なのか、「実行委員会の実行委員全体での協議の結果の決定」なのか。 そこに河村は入っていたのか、津田はどうなのか。 反対意見はあったのか、どれくらいの(安全上の)検証がされたのか、などである。 河村市長と大村知事 河村市長と大村知事の「バトル」も問題になっている。 慰安婦像という表現の中身がけしからんという理由で中止させれば、これは憲法が禁じる検閲ではないかと大村知事が批判したわけである。 大村知事も河村市長もともにD(トリエンナーレ実行委員会)の責任者であろう。 DはB・C(表現をした作家)に対して展示の中止を通知した。 しかし、その中止通知は、河村の理由(慰安婦像は日本への冒涜だからやめろ的な)によるものではなく、大村が述べたように安全上の理由によるものだ。 河村的理由は採用されず、大村的理由で中止は決定された。 ぼくからみて河村的理由は最悪の中止理由であるが、これが採用されなかったことは、一つの良識の勝利ではあろう。 しかし、かと言って、大村的理由での中止が「やむをえない」ものだったとは簡単には言い切れない。 「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られ」たものだったかどうかを示してほしいし、それを表現の当事者とよく協議したかどうかを示してほしいのである。 大村知事が河村的なレベル(表現の自由への公然たる、露骨な侵害)としっかり闘争したことについては高く評価したい。 大村の上半身裸で大声をあげているポスターを見てきた元愛知県民としては、彼はここまで良識を発揮したことは想像以上であり、同時に今の大きな世の中の悪い空気の中で、この点では本当に勇気のある行為だったと感じる。 しかし、だからと言って大村知事がB・Cの人々の表現を奪ってしまった問題(中止決定を通知した問題)については決してあいまいにできない。 安全上の検証と、当事者との合意・協議がしっかりなされたのかが、冷静に検証がされなくてはなるまい。 もしそれが不十分なものであれば、やはり展示を復活させることが大村の義務だ。

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